第十頁「無題01(1/2)」
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秋になり、紅葉の季節がやってきた。
うちの課は他に比べると特殊なので仕事があまりない。今日も特に問題もなく、張り込みに精を出す西村さんをよそにほかの面々は事務仕事を片づけていた。私はというと書類の整理も終えたのでとっとと帰り支度を始めた。そそくさと帰ろうとすると事務の深山さんが恨めしそうにこちらを見ていたが、にこりと顔であいさつしてエレベーターに乗り込んだ。
腕時計を見る。針は一七時を指していた。外に出ると風が身に染みた。少し寒い。夏が終わって、あれだけ長く空にあり続けた太陽も最近は落ちていくのがめっきり早くなってきた。秋の匂いがしたかと思ったがあと少しもすれば冬の匂いがし始めるだろう。時が過ぎるのは早いものだ。というと、またママにまだ若いくせに、と言われるかもしれない。
新宿の街を歩く。
あれから。――あの肉屋が殺された夜、私が肉屋と彼の喫茶店だった「ハナノユメ」と別れたあと、こちらに合流した西村さんとその部下数人と一緒に現場調査に勤しんだ。けれども何が原因で燃えたのかも分からず、肉屋――夢野潤を殺害した動機も何もかもわからず、現場の人間は皆、より一層頭を抱えることになった。
これで犯人一味を一網打尽にできると息巻いていた西村さんの落胆ぶりは見ていられないくらいだった。一気に老け込んだように見えたが、二日ほど経つと、そもそも火災が起きて目星を付けていた男が殺害されたということは自分の眼と勘に狂いはなかったのだと気を持ち直して次の目的地へ足を運んでいった。
私もそれくらいの胆力があればと、少し羨んだ。と同時に、その追い求めている人間がそばにいると分かったらどうなってしまうのだろうと、すこし恐怖もあった。と言っても、私があの火災を引き起こした犯人ではないのだから、今捕まってしまうのは問題なのだが。
すべて終えて、ノルニルに向かうと、そこでは屋号会の面々が渋い顔をしてそれぞれが一杯のアルコールを手にしていた。私の席にはもう、宮城峡がおいてあり、店の奥のソファでは花屋が静かに寝息を立てていた。薬屋が眠らせたらしい。肉屋の魂が安らかに眠れるように、祈りながらアルコールを体の中に流し込んだ。掃除屋が死んだときと同じように、みんなのグラスが寂しそうに机で音を立てた。
それから情報屋にも連絡を入れてその謎の殺し屋について調べてみたものの、なにもつかめず、今屋号会も地団太を踏んでいる状態である。
夜が近づいてきた新宿では仕事を終えて帰路に着くもの、これから飲み歩こうというもの、様々いたがその中でも一組の男たちの姿が目に入った。大学生くらいの彼らはもうずいぶんと飲んでいたようで一人はへべれけになっていた。千鳥足すらできず、一人で歩くこともままならないその男をもう一人の男が肩を貸してやって引きずるように運んでいる。「これからクラス会なんだぞ」と声をかけていたので、おそらく彼は今以上に酔っ払ってしまうのだろう。
そうやって繁華街に消えていく彼らの姿が、いつだったかの私と坂口の姿に重なって見えた。
あるとき、そのときもこれくらいの秋口だったと思うが、坂口が私に汚れ仕事は任せろと言ってきたことがあった。どうしてかと聞くと、いつも倒れてられて迷惑だからだと言われた。
今から八年ほど前の話になる。その頃はお互いに大学卒業を年明けに控えて、ついぞ単位をすべて取り終えて冷や汗を体の中に戻して屋号会の仕事に忙しくなってきたころだった。周りは就職活動に明け暮れていたころだったが、私は西村さんに出会い警察学校へ進学することに決まっていたし、坂口はそのころから赤川さんが開いたバー『ノルニル』でスタッフとして働くことが決まっていた。
思えば、悪人を勧善懲悪よろしく市民が裁くということに初めから疑問を抱きながら行動していたけれども、始めた頃からこれが犯罪の抑止力になれば、と坂口は考えていたのではないだろうか。
そのときもまた――早くに枯れ落ちた葉が風で押し流されてたまった路地裏で――彼は顔色一つ変えずに標的の首をすぱりと一太刀で切り離して、意識が遠のきそうになっている私にぽんと黒い大きな鞄を投げてよこした。
「お前は殺さなくていい。けれども、俺が、仲間が殺した標的を弔ってほしい。どんな命だって命に変わりないだろう」
薄暗くなった路地裏に転がった標的の遺体をその鞄に詰める私に坂口はそう言った。
「なんだよ急に」私は吐き気を誤魔化すために煙草に火をつけた。
「お前は汚れ仕事をしなくていい」
「なんでだよ」遺体の入った鞄のチャックを閉める手を止める。「お前、血が苦手だろう」
「いや苦手じゃねえし」私は虚勢を張った。今思えば、ばかばかしいほどわかりやすかったかもしれない。
「血というより、人を殺すことが苦手だろう。命を奪うということが苦手だ」
「そんなことねえよ。そもそも、屋号会は俺らが発足させたんだぞ。その殺し屋集団の言い出しっぺが殺せねえって笑い話じゃねえか。いや、俺は笑えねえけど」
「それが普通だ。正直、俺は自分を異常だと思っている。いともたやすく人を殺せる心理というものは、普通ではない」
「そうだな、確かにそうだ。大学に入ってから心理学も聞きかじったけれども、そんな精神状態が正しいなんて論述は読んだ試しがない」
煙草の灰を風に流して鞄のチャックを閉めた。その鞄を持ち上げる。その時にこてんと、膝が折れてしまった。私が持っていた鞄を片手で持って、空いている片手で私のことを支えてくれた。
「お前は普通なんだ。ならそこから異常に足を踏みいれる必要はない」
「そうは言うけどよ、じゃあ俺は何をしたらいいんだよ。あれか? お前を目的地に連れてって、それで金魚の糞みたいに後ろをついていって死体でも運べってか?」
「そうだ」カチンときた。
「ああそうかい、俺は死体の宅配ドライバーかよ。かっこいいね、あなたに人生の終わりをお届けに上がりましたー。はっ。笑える」
坂口は立ち止まると、夜空に浮かんだ月を見上げた。それから、ぼそりと。
「命は、すべてのものが平等に持っているものだ」あ? と坂口を睨んだ。
「その命が無碍に奪われるというのは、たとえそれが悪人だとしてもいいものではない。と俺は思うのだ」
「悪人だって人間だ、ってか?」短くなった煙草を地面に落として、靴底でぞりぞりと踏みにじった。
「ああ、人間だ。だから、その命はどんな命であれ、葬送されるべきだと俺は思う」
「葬送ねえ。どこに送るんだよ」もう一本、煙草を取り出して火をつける。ライターが油を切らしてつかなかった。
「命が送られるべきところだ。俺は無宗教だが、天国や地獄、そういったものがあってもいいのではないかと思っている」
「いきなりファンタジックだな。そのお前の考えと、俺の今後、一体どう関係してるんだよ。宅配ドライバーの行先は天国か地獄なんて言うなよ」
「その通りだ」咥えた煙草をぽろりと落とした。開いた口がふさがらない。
「何言ってんだ?」
「俺は、人を殺す。だからお前はその殺された人間を葬送してくれ。その人間の魂が迷わず天国か地獄に行けるように。まあ、俺たちが殺した人間なんて地獄行は決まっているのだろうが、それでもせめて、その人生の彼方の終わりには誰であれ弔いの何かがあってもいいんじゃないかと思うんだ」
坂口の眼は、悲しそうだった。異常なんて自分では言っていたけれど、その目は異常者の目なんかじゃなかった。憂いを帯びた、儚げな、今にも消えてしまいそうなその目の光は、痛いくらい悲しく光っていた。
「怒鳴って悪かった。それに、肩ありがとな」
「いいんだ。俺も言い方が悪かった」
「悪すぎだ」にやりと笑って、私は落ちた煙草を拾ってポケットに入れた。
それから路地裏を後にして、赤川ママの愛車であった黒のフィアット500に乗り込んだ。エンジンをかけたとき、坂口が実際のところ、と口を開いた。
「俺は、お前が心配なんだ」
「なんだまた急に」
「お前は、よく倒れる。それが迷惑だ」
「辛辣だな。まあ、悪い。確かに仕事のあとはよく迷惑かけてる」車の中にあったライターを手にとって、また煙草に火をつけた。
「迷惑だが、心配なんだ。それでお前が命を落とすことになったら困る」横目で助手席の坂口を見ると、まっすぐと進行方向を見続けていた。
確かに、仕事を終える頃には意識が無くなっていることがよくあった。気が付けばノルニルのソファーか自室で横になっていて、坂口は壁に凭れて小説を読んでいる。私自身、それではいけないと思うものの、なかなかその症状は緩和されず、最近は坂口の後ろにいて、仕事の”後片付け”ばかりしていた。それが、私の中で申し訳なかったし、なにより、足を引っ張っているその感覚が嫌で仕方なかった。