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第八頁「それは布屋の美学(2/2)」

 



 ずいぶんと喜んでくれたようで菊江は紅茶で喉を潤しながら自身のことを恵に話してくれた。息子、というのは将大まさひろという名で、今は東京は丸の内にある雑誌の大手出版社で編集長として働いていること。けれどもここ数年は結婚して子供も生まれたし、仕事も忙しくなってなかなか会う機会がなかったこと。数か月に一回会う孫がとても可愛くて仕方ないこと。話に花が咲いて気が付けば時刻は一六時を過ぎて、窓から差す陽の色はオレンジ色になってきている。


「あら、もうこんな時間なのね」と菊江が左腕につけた腕時計を見やった。そろそろ晩御飯の準備をしなくてはならないということでその場で解散になった。菊江の家はここから二〇分ほどで着くらしく歩いて帰るとのことだった。「着物から着替えますか?」と恵が聞くと、今日はこの姿を旦那に見せたいらしく、このまま帰るとのことだった。「お気をつけて」と店先で二人は別れた。店主も店先まで出てきて、「ありがとうございました」と優しく笑った。それから二人は目くばせした。再び店内に入ると、恵はカウンター奥に座っていた男の隣に座った。


「調べもの、していただいてもいいかしら」

「どんな調べものだい?」


 その男――葬儀屋はカウンターに置かれた灰皿に短くなった煙草を押し当てて、また煙草を取り出して口に咥えた。それからあっと言って煙草をまた箱に戻した。


「匂いついたらたまったもんじゃないよな」

「それは構いませんよ、洗いますから」

「じゃ、遠慮なく」再び箱から煙草を一本取り出して口に咥えて火をつけた。「で。何を調べりゃいいんだ?」と横目で恵を見た。


「詐欺を働いている男についてお願いしたいの。最近阿佐ヶ谷の花菱銀行から六〇〇万円振り込まれた口座の持ち主という情報が今のところの精一杯」

「時間は」と葬儀屋は恵を見て、「なるべく早くってとこか。すぐに調べるからもう一杯紅茶でも飲んどいてくれ」と店主に紅茶をひとつ頼んだ。店主がアイスティーを恵に差し出した。差し出されたアイスティーを飲む恵の横でさらさらと指を動かして葬儀屋は情報を集めた。数分ほどして、恵のアイスティーが三分の一ほど減って氷がかりんと音を立てた。それが葬儀屋の情報収集の終了の合図だった。


「阿佐ヶ谷から、しかも銀行の場所までわかってんだから簡単だったわ。男の名前は久世正博くぜまさひろ二三歳。こいつがトップで老人たちから金巻き上げていいもん食っていいもん乗って、いいもん着てるらしい。殺しは、してるな。保険金まで手ェ出してるとはずいぶんとどす黒い大学院生だこと」

「ありがとう、助かりました」

「今こいつの携帯にハッキングしてる。そのアイスティーを飲み終わるころには今日のあいつの足取りもつかめると思うぜ」

「なら早く飲んじゃおうかしら」と恵がいたずらに笑った。

「まあまあ、そんなこと言わずにほら、恵ちゃんが好きないちごのショートケーキをどうぞ。僕からの差し入れです」


 と肉々しい店主がケーキの乗った皿をことりと恵の前に置いた。


「じゃあ、お言葉に甘えて」恵がショートケーキをぱくついた。ありがとな、と葬儀屋が店主に苦笑いする。すると店主――夢野潤はさっき恵にもしたようにウインクをしてみせた。パクパクとショートケーキを食べ進めていると、葬儀屋がぐーんと伸びをした。


「今日は渋谷で飲み会だそうだ。で、二三時過ぎには帰ってほかの連中と次の標的について作戦を練るらしい。場所は渋谷の幡ヶ谷の自宅だとよ。場所は――」


 葬儀屋が煙草を咥えた頃には恵は店を後にしていた。カウンター奥から紫煙がくゆりと宙に舞う。

 それから恵は駅に向かいながら電話をかけた。呼び出し音が長く続く。相手が出たのでもしもし、と言うと電話口から「な、なんだこれで話せるのか?」という男の声と「もうできてるよ!」という男の子の声がした。


「もしもし、あなた。私です。恵です。今日は夜に”着付けの仕事”が入ったので、夕餉の準備ができません」

「そうか」と男――宮部源十郎は一言だけ返した。

「すみません」と恵が言う。

「気にするな、気をつけて行ってくるんだぞ」宮部が言って、電話を切ったつもりで息子の和己に「夕飯は何が食べたい?」と尋ねると「オムライス!」と元気の良い声が聞こえて思わず恵はふふと笑った。「父さんにそれが作れると思うか」とか「思えない! だから僕がつくるよ!」とか、「包丁を持つのはまだ早い」とかいろいろと聞こえてきて、ああ、幸せだなあと恵は思った。


 そっと通話を終了させて、恵は電車に乗る。目的地は幡ヶ谷。標的は久世正博。奇しくも菊江の子息と同じ名前だった。


 その男が帰路に着いたのは二三時をとうに過ぎて、そろそろ日付が変わるころだった。夜が深まってもなお蒸し暑く、さっきまでしこたま飲んだアルコールもどんどん蒸発していく気がした。汗が泥のように体にへばる。電車に揺られて最寄駅に着く。寝ないようにと立っていたものだから降りてからもずっと地面が揺れているようだった。これから重要な話し合いがあるから酔いを醒まそうと自販機でミネラルウォーターを買う。すぐにキャップを開けてごくごくと喉を鳴らしてボトルの中身をすべて飲み干した。


 少しまともになった足で家路を急ぐ。規則的に並んだ街灯の一つがちかちかと点滅した。一瞬、和服の女がそこにいたような気がした。歩いていくとそこには確かに和服の女がいた。少し胸元がはだけて赤く光る唇は艶やかさを誇張している。どきりとした。男心をぐわっと鷲掴みにされた感覚があった。通り過ぎるとき、ちらりと横に見るとつやのある肌が見えた。思わず足が止まった。


 すると後ろから「しつこい女はお嫌いですか?」と声がかかった。男は――久世正博が振り返ろうとしたとき、その首は振り向けぬままがっちりと固定された。女が、宮部恵が身にまとっていた帯という帯、紐という紐で久世の体をぎちぎちと縛っていく。自由の効かなくなった体で恐怖を覚えた久世は必死に後ろの女を見ようとする。その体を動かそうとする。しかし、ぐいっと締めあげられてそれはかなわなかった。悲鳴をあげようとしたが、その首に当てられた腰紐は声帯を運動させないように拘束していた。


 恵の姿は艶やかだった。消えた街灯の代わりに月に照らされたその姿は着物をはだけさせ、豊満な胸が半分ほど見えて、絹のような素肌がずいぶんとあらわになって照らされていた。

 久世ががはごほと息を漏らす。そんな久世の耳元で、恵はもう一度、


「しつこい女はお嫌いですか?」


 と問いかけた。けれども久世はそれに答えられなかった。声帯を震わすこともならなかった。心臓がその機能を終了させたのだった。白目を向いてもがこうとももがけなかったその体は、するすると帯紐がほどけていき、ようやく自由が利くようになってどさりと冷たいコンクリートに倒れ込んだ。倒れ込んだのを見て恵は手際よく着物を着なおしていく。そこに葬儀屋がやってきた。


「おつかれさん」とぽんと小包を恵に投げた。

「それはあのばあさんにあげてくれ。なに、元はあのばあさんのものなんだから気にするな」それでこれは、ともう一つ小包を投げて渡した。

「どうせ明日は鍛冶屋さんとカズにたらふく料理作る予定なんだろ? それの足しにでもしてくれ」


 といって葬儀屋はコンクリートにへばりついた遺体を黒のバッグに詰めて去っていった。

 翌日、菊江のもとに「今度は失くしませんように」と書かれた手紙とともに宛名のない小包が届いた。いてもたってもいられなくなって菊江は喫茶店に向かおうとしたが、ちょうどそのとき家のチャイムが鳴った。出てみるとそこには将大がいた。


「謝りたくてさ。ごめんな、母さん。最近俺も忙しくてろくに連絡してなかったから。俺も悪いと思うんだ。だから、ごめん」

「いいのよ。それより朝ごはんは食べたの? まだなら一緒に食べようか」


 また今度、あったときに感謝の気持ちを伝えようと菊江は思った。また今度、あの喫茶店で紅茶でも飲みながら、ケーキでも食べながら。




 ――『布屋』――

 体力性★★☆☆☆

 筋力性★★★☆☆

 俊敏性★★★☆☆

 知性 ★★★☆☆

 魅力性★★★★★

 本名『宮部恵みやべめぐみ

 絞殺専門の殺し屋。標的をその自身の身に着けた帯紐で拘束し絞殺することを美学とする。和装の美人で、その艶やかな容姿は男であれば誰もが魅了される。標的を仕留めるときはその方法からその素肌をずいぶんと露出させるが抜群の美貌、抜群のプロポーションである。しかし人妻であり子持ち。鍛冶屋の宮部源十郎の妻であり、八王子で着物屋を営んでいる若女将でもある。年齢は不詳だが、鍛冶屋曰く「俺より二〇いくつは下のはず」とのこと。普段は旦那思いで息子思いの良妻賢母である。お茶、紅茶に対して造詣が深くそれに対する愛情も深い。また、着物は今より七代ほど前の世代からずっと家業として受け継がれてきているのでもはや生活の一部となっている。料理が非常に上手で、鍛冶屋はそれで胃袋を掴まれ結納の運びとなった。今でもずいぶんと様々なところからアプローチはあるようだが、本人は鍛冶屋一筋。鍛冶屋と末永く共に過ごすのが夢。




以上が本日分の更新でしたー!

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