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第八頁「それは布屋の美学(1/2)」

”袖触れ合うも他生の縁”

 


 

 ――08――




 阿佐ヶ谷市民会館。そこの会議室を貸し切って、今日は朝の九時からついさっきまで着物の着付け教室が行われていた。ちょうど一三時を過ぎた頃にすべてが終わって今日の着付け教室はお開きとなった。今日集まった二〇名ほどの年齢もばらばらな女性たちが、「先生お疲れさまでした、ありがとうございました」と一礼して帰っていく。


 先生と呼ばれる艶やかな美人は名前を宮部恵みやべめぐみと言い、八王子市のほうで着物屋を営んでいた。今日は出張教室ということで、こうやって阿佐ヶ谷のほうまで出向いて月一回の着付け教室を開いているその日だった。


 生徒である女性たちが去っていくのを見送りながら自身も後片付けをしていると、一人、静かにゆっくりと着物を畳む老婆の姿が目に入った。何回か、まだ両手の指で数えられるほどしかあったことのないその老婆――鈴木菊江すずききくえのその目はどこか寂し気だったのでなんだか気になった。恵はそっと菊江に寄っていき、「お手伝いしましょうか?」と声をかけた。


「ああ、いえ、大丈夫ですよ」菊江は遅くてごめんなさいね、と頭を下げる。

「いえ、そういうわけじゃないんです」恵は顔の前で両手を振ってそれを止めた。

「なんだか寂しそうにしてらしたから、どうかなさったのかと思って」

「あら、そう見えてたのね……ごめんなさい」

「謝らないで。何かあったのですか?」


 正座をしてなおも着物を畳んだり手を止めたりしている菊江の隣に恵も腰を下ろした。


「お話くらいならなんでも聞きますよ」優しく菊江に微笑む。すると菊江は眉を八の字にして恵を見た。少し思案顔になって、どう話そうか考えあぐねているようだった。恵はそんな菊江にもう一度微笑む。菊江はあ、と口を開いてまた閉じた。それから畳みかけの着物に目を落としてぽつりぽつりと話し始めた。


「こないだ詐欺にあったのよ。オレオレ詐欺ってやつね。疎遠になった息子から急に電話がかかってきて、事故に遭って損害賠償に六〇〇万円必要なんだーって泣きつかれて。私もね、急なことで驚いたんだけれど、電話越しにその子が泣くのよ。ものすごく、こっちまで悲しくなるくらい辛そうに。助けてあげなくちゃって思ったのよ。それでちょうどうちにそれくらいのお金を置いていたものだから、それを振り込みに行ってしまったの。お父さんが帰ってきてそれを知ってね。そりゃそうよね、寝室の金庫が開いてたら気付くわよね。お父さんにこんなことがあったのよ、って話をしたらすぐに息子に電話してね、そんなことないってお父さんにも息子にも散々に言われて、なんで私騙されてしまったんだろうって……」


 ぼろぼろと大粒の涙をこぼして菊江の言葉はなくなった。涙の落ちた跡が綺麗な紅色からえんじ色になっていく。恵はそっと菊江の背中をさすった。少しずつ落ち着いてきたようでひっくひっくと揺れた肩も静かになっていく。落ち着きを取り戻したところで菊江は「ごめんなさいね」とまた頭を下げた。


「急にこんな話してしまって。面白くも楽しくもないでしょう」


 恵は頭を横に振って「お辛かったでしょう」ともう一度背中をさする。


「私にはそのような経験がないものですから、月並みなことしか言えないことが心苦しいです。ご子息と旦那様、お二人とまた良好な関係になれたら一番良いと思います」

「そうね、一番はそれね。あまりにもひどいことをしたものだから、どう償えばいいのかわからないの。お金を失くしたこともつらいけれど、何よりもつらいのは人の愛を失うことね。こんな歳にもなって、失うなんて思ってもみなかったから」


 菊江は力なく笑った。弱ったように笑う菊江に恵は「お茶でも飲みに行きませんか?」と声をかけた。それからきょとんとした菊江に代わって着物を畳む。


「美味しい紅茶とケーキを出してくれる知り合いがいるのです。ここから近いですよ」


 なおもきょとんとしている。


「着物を着て紅茶を飲むのもいいものですよ。今日は夏らしく暑いですからアイスティーで喉を潤しましょうよ」


 窓の前に下ろされた白いブラインドの隙間から日差しが部屋を五線譜のように照らしている。そうだ、と恵は畳んだ着物を見た。立ち上がってばっと畳んだ着物を広げてみせた。


「菊江さんもせっかくですから着ませんか? 一緒に着て紅茶を飲みましょう。ね?」

「でも、それだと時間が……」

「大丈夫です。私に任せてくださいな」


 それから恵は早かった。菊江が肌襦袢を羽織って足袋を履いて立ち上がったときから恵の体がスパパパパと動いていく。長襦袢を羽織らせると衿先を調整してさっと前に下前と上前を揃える。胸紐できっちりと押さえて、その上から腰紐を伊達締めにしてその両脇を挟み込んだ。それから即座に後ろに回って着物をかけた。


「ちょっと動かないようにお願いしますね」


 恵が声をかける。菊江が背中からかけられた袖を通すと同時にぱぱっと前身に回って、長襦袢と着物の袖を合わせる。それから衿をもって着丈を一瞬で決めると上前と下前を調整しながら平行にそろえて重ねた。腰紐を脇にきっと締めておはしょりをつくって衿を整える。胸紐をぎゅっと結んで胸元をきっちりと合わせた。そしてまた伊達締めをその上にはわせてきゅっと締めた。


「次は帯ですね。淡い桜色、素敵だと思います。もう少しだけ我慢してくださいね」


 腰板をおなかにあてて、ぐるぐると帯を二巻きさせる。後ろ側で一締めしてもう一巻きしてぐっと締める。後ろ側で結び目をつくる。それを押さえ紐で固定させるとその紐が見えないように帯の中へ隠した。その帯を一度菊江の肩にかけた。


「今日はお太鼓結びにしますね」と恵は言うと菊江の背中から肩にかけた帯を下ろしての位置を確認して山の位置に帯枕をあてる。先ほど作った結び目の上にしっかり固定させた。その枕に枕揚げをかぶせてまた結ぶ。それから仮紐を使ってお太鼓の大きさと垂れの長さを決めて前で結んだ。それから今度は帯締めをもってくるりと結ぶ。それからあっという間に紐を整えて完成した。本当にあっという間だった。


「すごい……」


 恵はほっと一息つく。


「あら、それ、いい模様になっていますね」


 恵の眼がついさっきの菊江のこぼした涙の跡にいった。そこにはまるでハートのようになっていた。


「なんだか若者っぽくなっちゃったわね」と菊江がからからと笑った。

「いいじゃないですか。女はいつまでも女でしょう? それにその涙の跡が乾くころにはきっと仲直り出来ていますよ。さあ、行きましょうか」


 ありがとう、と菊江は乙女のように微笑んだ。二人は外へ出た。時刻は一四時を過ぎたころで日差しはピークを迎えていた。うだるような熱気がむあんと体を包む。二人は和風な形をした日傘で陽を避けて恵のいう紅茶とケーキの美味しい喫茶店へ向かう。一〇分も歩くとその店は見えてきた。


 喫茶店「ハナノユメ」――店内に入ろうとドアを開けるとチリンチリンと風鈴のようにベルが鳴った。中には紅茶やコーヒーの香しい香りとケーキの甘い匂いが漂っている。暑かった外が嘘のように店内は涼やかで、店内に入ってすぐ見えるカウンターの向こうには丸く太った気の優しそうな男がいる。ワイシャツをたぷんとしたおなかで張らせて、ニコニコと笑う姿はテディベアが服を着たようだった。ほかに客はまばらに数名いて、カウンターに離れて座っているサラリーマン風の男が二人と、テーブル席で談笑する女性が三人。二人は外の見える窓際のテーブル席に腰を下ろした。


「いらっしゃいませ。本日はいかがいたしましょうか?」とテディベアのような店主が声をかける。


 二人は水出しのダージリンとチーズケーキを注文した。かしこまりました、と店主がさっそく調理に取り掛かった。冷蔵庫から取り出したチーズケーキを切りわけ皿へとのせた。それからその皿にとろりとしたマンゴーソースをかける。それが終わると冷蔵庫から今度は茶濾し付のサーバーを取り出してとぷとぷとグラスに注ぐ。その体躯から予想できないほどスタイリッシュに二皿とグラスを二つ、恵たちのもとへ差し出した。


「お待たせいたしました」


 と言ってそれからまたカウンターへ戻っていく。恵がいただきましょうか、と菊江に微笑んだ。グラスを口にもってきた。こくりと一口飲む。渋みが舌をしりりと刺激する。ひんやりとしたコクが口の中へ広がり喉を潤す。フルーティーな爽やかな香りが鼻腔をさすった。


「おいしい」と菊江の口が音を出した。「おいしいわね。ものすごくおいしいわ」と目を輝かせた。それからチーズケーキを一口ぱくりと食べる。ねっとりと舌に絡む。控えめな甘さが心地よかった。もう一口食べる。ほのかな酸味が口内に広がった。


「これも美味しいわ。ワンホールでも食べれちゃうかもしれないわ。あの人もこれならきっとパクパク食べちゃうわね。甘いのが苦手だーって言ってケーキとかスイーツは何も食べないんだけれども、これだったらきっと食べちゃうわ。あっ、ごめんなさい」


 菊江がきゅっと口をつぐんでそれを左手で覆った。


「いいんです、そんなに喜んでいただけるなんて思ってもいなかったので。私も嬉しいです」


 恵が菊江ににっこりと微笑んでからカウンターにいる店主にも微笑んだ。店主はぱちりとウインクしてみせた。




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