第七頁「それは鍛冶屋の美学(1/2)」
”鍔迫り合い”
――07――
東京・八王子市。新宿から中央線に揺られて一時間ほどの距離にある高尾山。そこに住んでいる鍛冶師の男がいる。名前を宮部源十郎といい、第七代目の宮部源十郎であった。山の麓で鍛錬に次ぐ鍛錬を重ねていた。鍛冶師として、そして屋号会「鍛冶屋」として。彼の腕前はどちらも天下一と言えるほどであった。
七月に入った今日もいつものように標高約六〇〇メートルの高尾山の往復を重ねる。そこに坂口がやってきた。
「精が出ますね」
優しく微笑んで坂口はそういう。軽く汗を拭いて宮部はお前もやるか、と返した。ええぜひ、と坂口が宮部のロードワークに着いていく。片道一時間を切るペースで走り続ける。三往復ほどしてようやく宮部はそれを終了させた。坂口は少し肩で息をしていたが、宮部の方は汗はかいているものの息はまったく切らしていなかった。
「相変わらず、よくついてくるな」
「師匠こそ相変わらずの体力です。俺はまだまだ精進が足りませんね」
「なに、鍛錬は重ねればいくらでも成長するものだ」
宮部はついてこい、と坂口を連れて帰路についた。昔ながらの大きな家屋。立派な門には「宮部」と書かれた表札がかけられている。帰ったぞ、と宮部が言うと奥から彼の奥方がやってきた。相変わらずの美人で、妖艶だ。坂口は頭を下げた。宮部の武士のような着物姿と同様に奥方も高級そうな着物に身を包んでいる。
「おかえりなさいませ」
と奥方は膝を折った。その所作ひとつひとつに品がある。奥方の手には白いタオルと着替えが用意されていた。
「お湯はもう沸かしてますから、まずは汗を流してくださいな」
「ああ、ありがとう」
ぼーっと坂口が突っ立っていると、奥方が坂口にも風呂へ向かうように言った。
「うちの湯は広いですから、ね。あなたも早く汗を流してきなさいな。風邪を引いてしまいますよ」
「ありがとうございます」
奥方に連られて二人は風呂へ向かった。屋敷から少し離れたところにある風呂場は広く、観光客がくれば温泉だと勘違いしてしまうくらいだった。家屋もそうであり、確かに勘違いをする観光客は少なくなかったので仕方なく門前に日本語、英語、中国語にハングル文字で「住居にて立ち入りを禁ずる」と書かれた看板を用意していた。
門をくぐってから右手に曲がると見えてくる蔵のように大きな家屋。そこが宮部家の風呂場であった。引き戸を開けて中に入ると広々とした脱衣所がある。そこで奥方が二人にタオルと着替えを渡して、自分はご飯の用意があるので、と屋敷に戻っていった。汗に濡れた衣服を脱いで二人は風呂へ向かう。戸を開けると脱衣所以上に広い風呂場があった。六畳ほどもある浴槽は桐でできており、風呂場は心地よい湯気と匂いに満ちていた。さっと体を洗って湯船に入る。二人で湯船に浸かっていると、窓の向こうから子供の声があった。
「お湯加減はどうですか?」
宮部の息子の和己だった。
「今日はカズが風呂を沸かしてくれていたのか?」
と宮部が中から尋ねる。
「うん、お母さんがやろうとしてたんだけど、僕がやるって言った」
「そうかそうか。偉いぞ。いい湯加減で気持ちがいい」
「ほんと?」
「ああ、いい湯だ」
やったー! と喜ぶ声が聞こえた。とてもうれしそうな声だった。坂口が宮部に尋ねる。
「カズ君はいくつになるんです?」
「もうすぐ一〇だ。あと二週間もしたらな」
「早いもんですね」
「ああ、そうだな。となるとあれか、俺とお前ももう一〇年以上の付き合いになるんだな」
「そうですね」
外のほうで、あっという声がしたかと思うと、
「大和兄ちゃんもお湯加減どうですか?」
と質問が飛んできた。坂口はにっこりして、
「いい湯加減だよ」
と答えた。二人はそのあと一時間ちかく風呂に入っていた。和己がどうかと尋ねてくるので彼が満足するまで付き合っていたのだった。茹蛸のようになった二人は着替えると屋敷へ向かった。相変わらず巨大な屋敷である。城の一角ではないかと思うほど頑強な造りをしていて、入るのをためらうほどだ。
玄関を上がって廊下を歩く。進むたびにいい匂いが空腹を刺激する。そのまま歩いて廊下の突き当り右側に食堂があった。入ると奥の台所では奥方が料理を仕上げている最中で、味噌汁やら焼き魚やらなんやら香ばしい匂いから暖かい匂いまでとにかくいい匂いが鼻に入って涎を生んでいた。先に来ていた和己が奥方にまだかまだかと催促している。
奥方がもう少しですよ、というと、今度は何かすることはないかと聞いていた。すると奥方が食器を用意してほしいと言った。その言葉をすべて聞かないうちに和己はてくてくと食器の準備をし始めた。茶碗をそれぞれの席の前に置いて、箸を用意して、席に座って待ち構える。奥方が出来ましたよ、と言ったときにはがばっと席から立って奥方がよそったおかずたちを食卓へと運んでくる。すべて運び終えると、また席に座った。近くに座っている宮部がそんな息子の頭をなでる。和己はとても嬉しそうだった。
奥方がそれぞれの茶碗に炊き立ての白米をよそって、それが終わると今度は味噌汁をよそった。山菜がふんだんに入った具だくさんの味噌汁だった。おかずは鱒の塩焼きと筑前煮に畑でとれた野菜のサラダがあった。どれもこれも美味そうでもう我慢の限界だった。
全員が席についたところで、宮部が手を合わせる。それに合わせて皆も手を合わせた。
「いただきます」
宮部が言うと、そのあとに三人がいただきます、と続けた。それからは早かった。宮部も坂口も和己も箸を光速でもつとズババババと各々の食べたいものへとその手をのばす。それを見て奥方はあらあらと苦笑いした。
やはりあのロードワークは随分と体力を消耗させたようで宮部と坂口は流れるように食を進める。そんな二人を真似て和己も流れるようにご飯を食べようとするが、小さな口には中々量が入らず悪戦苦闘していた。四人の食事が終わると、腕を組んで目を閉じていた宮部が「稽古をつけよう」とぽつりと言った。
「そのために来たのだろう。道場で待っているぞ」
宮部が一人席を立つ。和己はそれについて立ち上がろうとしたが、ずっとしていた正座の影響で生まれたての小鹿のように横になっている。奥方はまたあらあらと微笑みながら食器の後片付けにとりかかった。まずはそっちを手伝おうと坂口は立ち上がったが、奥方がそれを制して、あちらに、と道場へ向かうように催促する。すみませんと頭を下げて坂口は道場へ向かう。道場へ向かう廊下はひんやりとしていた。素足が直に板に触れる。足を進めるたびにぺたりぺたりと音がした。
陽が暮れた外では蛙が合唱をしている。屋敷から渡り廊下を通って外れにある道場の戸を開ける。奥に正座をして瞑想をしている宮部がいた。その後ろの高い窓から月光が差し込んでいる。いつのまにか蛙の合唱は終わっていて道場には何の音もない。
「来たか」
宮部が眼をあけると自分の脇に置いていた木刀に手をかけた。