約束
「ナキ、いっぱいホロロの実とるよ」
ナキはスキップしながら、ご機嫌に言いました。
「ホロロじゃなくて、ホロホロの実よ」
サクヤは苦笑いを浮かべます。
ふたりは朝早くに家を出て、裏山を上っているところでした。
くねくねと曲がる小川に沿って、緩やかな坂道を歩いていきます。
木の隙間からはお日様が顔を覗かせ、ぽかぽかと暖かい日でした。
「ナキ、そんなに急いだら、後で疲れちゃうわよ」
「平気だもん」
ナキはずんずん進んでいきます。
早くバウワウの喜ぶ顔が見たくて仕方ないのです。
サクヤも気持ちは一緒だったので、それ以上は言いませんでした。
肩をすくめてカゴを背負い直し、ナキの後についていきました。
トゲトゲの草を避け、蛇を追い払い、竹やぶをくぐります。
半分ほど山を上ると、次第に道が険しくなってきました。斜面が急になり、川岸にはゴロゴロと大きな石が、たくさん転がっています。
「おねーちゃん、疲れたー」
ナキはその場にしゃがみ込んでしまいました
「そうね、休憩にしましょう」
サクヤも額の汗をぬぐって、カゴを下ろしました。
「やった」
ふたりは乾いた石に座ると、カゴからお弁当をとり出しました。
サクヤがナイフでパンを切り分け、ハムと羊のチーズを挟みます。
ナキは水筒のお茶をコップに注ぎました。
「いただきます」
「いっただっきまーす」
少し早めのお昼ご飯です。
「あっ、お姉ちゃん、見て」
サンドイッチをほお張ったナキが、山のふもとを指さしました。
「私たちの村ね」
「ちっちゃーい」
「遠くにいるからよ」
サクヤがほほ笑み、それから首を傾けました。
「あら? あそこにいる人、ひょっとしたらお父さんじゃない?」
タマネギ畑に、青い帽子を被った男の人がいました。他の村人たちと一緒に、パラパラと黒っぽい肥料を撒いているようです。
「おーいっ」
ナキが急に立ち上がって、手を振りました。
「ダメよ。見つかったら大目玉だわ。叱られちゃう」
サクヤは慌ててナキの口をふさぎました。
食事が終わると、ふたりはまた歩きはじめました。
お腹がいっぱいになったので、ナキも元気いっぱいです。
もう泣き言は言いません。
坂道にもめげず、大きな石も乗り越え、ぐんぐん前に進みます。
やがて山のてっぺんまであと少し、というところで、川の流れが途切れました。小さな泉から、こんこんと透き通った水が湧き出しています。
「きっとここが源流なんだわ」
サクヤは感心したように言いました。
「お姉ちゃん、ここからどうするの?」
ナキが不安そうにサクヤを見上げます。
二人の前には、ゴツゴツとした岩の急斜面が、通せん坊するように立ちはだかっていました。サクヤはともかく、小さなナキには、上るのは難しそうです。
「ナキはここで待ってて」
「やだ、行く」
「ダメよ、怪我したらどうするの?」
「行くー! ナキも行くー!」
ナキは両手を握って地団駄を踏みました。
こうなるとテコでも動きません。
サクヤは小さくため息をつきました。
「仕方ないわね。手伝ってあげるから、ちゃんと言うことを聞くのよ」
「うん!」
「でも、無理だと思ったらすぐにやめるからね」
サクヤは先に斜面を上ってカゴを置くと、自分だけ下に戻り、ナキが上るのを手伝いました。安全な道を教えながら、岩に押し上げたり、引っ張り上げたりします。
時間をかけて斜面を登ると、山のてっぺんに着きました。
「ホロホロの木だー!」
ナキが歓声を上げます。
そこには一本の立派な大木が生えていました。
赤い実がたくさんぶら下がり、甘酸っぱい匂いを漂わせています。
「クスクスの木もあるわ」
サクヤも笑顔で言いました。
ホロホロの木の周りには、蔓のような木が巻きついていました。
その白いラッパのような花は、息をするように、黄色い花粉を吹き出しています。花粉はお日様でキラキラと光っていました。
「きれいね」
サクヤはうっとりとした顔で呟きました。
「はっくしょん!」
花粉を吸ったナキが、大きなくしゃみをしました。
ふたりは早速、ホロホロの実を集めました。サクヤが木に上って次々と実を落とし、ナキがスカートの裾でそれを受け止めます。
カゴはあっという間に、いっぱいになりました。
「これだけあれば十分ね」
サクヤが腰に手を当てて、満足そうに頷きます。
するとナキが、舌を出して顔をしかめました。
「まずっ」
ぺっぺっと地面にツバを吐き出します。
「ホロホロの実を食べたの?」
サクヤが呆れたように言いました。
「だってー、美味しそうだったんだもん」
「バウワウの話を聞いてなかったの? これは魔物の食べ物なのよ。あーもう、服にこぼしちゃって。後で洗濯しなくちゃ」
ホロホロの実の汁がたれて、ナキの服は甘酸っぱい匂いがぷんぷんします。
「まあ、いいわ。とりあえず帰りましょう。きっとバウワウが、首を長くして待っているから」
ふたりが待ち合わせ場所についた時、バウワウは最初に会った小川の前で、ぐるぐると落ちつきなく歩き回っていました。
「バウワウ」
「ワンコー」
サクヤとナキが手を振ります。
「おお、無事やったか。頼んどいてなんやけど、ごっつ心配したで」
バウワウはふたりに駆け寄り、怪我がないか見回しました。
「平気よ」
サクヤは肩をすくめました。
「簡単だったー」
ナキもにんまり笑います。
「まさか、ほんまにとってきてくれるとはな」
カゴに詰まったホロホロの実を見て、バウワウがしみじみ言いました。
「私とナキを信じてなかったの?」
「そういうわけやないけど、大抵の人間はワイを見ると、逃げるか退治しようとするかの、どっちかなんや。お嬢ちゃんとチビッコみたいなんは珍しいんやで。まいどおおきに」
「ふーん、苦労してるのね」
サクヤは気の毒そうに言いました。
「ワンコかわいそう」
ナキもしょんぼり、うなだれます。
「そう言ってくれるだけで嬉しいわ。なあ、ところで早速やけど、味見してもええ? もう我慢できん」
バウワウはそわそわと体をゆすりました。
「ええ、どうぞ。でも私たちはもう帰るわ。遅くなると、お父さんとお母さんが心配するから」
サクヤは赤らみはじめた空を見上げて、お別れを告げました。
「バイバイ、ワンコー」
「ほなさいなら」
〇
サクヤとナキが山を下りていた時のことです。
うす暗い道を歩いていると、ガサガサッと草むらが揺れました。
「ぐるるる」
現れたのは、イノシシの体にトカゲの頭をつけたような魔物でした。
「グルマだわ」
サクヤは緊張した声で呟きます。
グルマはギザギザの歯を見せつけるように、大きく口を開けました。
豆粒のような黄色い目は、ナキをまっすぐ睨んでいます。
「いけない」
サクヤは、はっと気がつきました。
ナキの服にはホロホロの実の汁が染み込んでいます。
グルマはその匂いに誘われて来たに違いありません。
「ぐがあっ!」
グルマはサクヤの思った通り、ナキに飛びかかりました。
「ひっ」
ナキが小さな悲鳴を上げます。
「ナキ!」
サクヤはとっさに横からグルマに体当たりしました。
サクヤとグルマは、もつれ合いながら、ゴロゴロと斜面を転がります。枝を折り、葉っぱを散らせ、木の根っこで跳ねて、大きな岩にぶつかりました。
グルマはサクヤと岩にはさまれ、ぺしゃんこに潰れてしまいました。
サクヤはグルマがクッションになって、怪我だけですみました。
「おねーちゃーん!」
後を追ってきたナキが、泣きながらサクヤに抱きつきました。
「大丈夫よ、ナキ。グルマはもう死んじゃったから」
「お姉ちゃん、痛くないの?」
ナキは切り傷だらけのサクヤを見て、心配そうに言いました。
「痛いけど平気。ナキが無事ならそれでいいわ」
サクヤが笑うと、ナキは安心したように泣きやみました。
そして不思議そうに、首をひねりました。
「それなあに?」
サクヤの左手には、黒い丸印がついていました。