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”父無し子” 貴明が幼少時代そう呼ばれていた。

晶子の子、いや自分の血を引く子が過去の自分と同等であるものかと、貴明はあれこれと晶子の世話を焼いた。上等なアパートを与え、母体に良いものを摂れと金を渡した。公の場では『家族』として振る舞う事は出来ないものの、生まれてくる我が子に肩身の狭い思いはさせまいと認知もした。

ともすれば、三条・・の人間にあからさまな愚行をする者は居ないだろう。






   ***




「社長、藤原紫乃とは連絡取っているのですか?」

「取る必要が有るのか?」


貴明の返答に忠正は呆れ顔を隠しもせず、長い溜め息を吐いた。此処は社長室だ、忠正の非礼も許される特別な場所。


「あのなぁお前が釣った魚に餌をやらないタイプの人間とは承知しているが、相手は婚約者なんだぞ」

「俺の優秀な秘書がフォローをしてくれている筈だと思っているんだがな」


貴明の元には、身に覚えのない贈り物への礼状が紫乃より届く。彼女らしい丁寧な筆跡でしたためられた其れは、礼と貴明の体調を案ずるものばかりだった。貴明は紫乃が触れた白い便箋を手にしているその瞬間だけ、楚々とした彼女に心を馳せた。


「…反論の余地は無いが、最近晶子の所に行き過ぎじゃないのか?」

「悪阻が治まったから、子供の為の品を買い揃えたいと言われて、同行している」


忠正に何とか仕事の合間に都合を付けて貰っている貴明は、隣県に住む晶子の元に車を走らせていた。ベビーベッド、天井から吊るす回転玩具、未だ早いであろう歩行器に、性別が判明しない子供の中性的な色の洋服。

晶子が一人で住むには広いアパートは、真新しい物で埋め尽くされている。

貴明はそれだけの品々を見て、幼き頃の自分に溜飲を下げる。クラスの子供が持っていて自分は持っていなかった玩具。指を咥えて其れを見つめる事の無い -生まれて来る- 子供は、幸せだ。


当の本人が気付いているのか知らないが、貴明は晶子の話をする時、恍惚の表情を浮かべている。忠正は其れを良い意味では捉えていなかった。



自分の生まれに劣等感を抱いている貴明は、三条充昭がり切らなかった『父親』に固執している。


   ――――― 貴明は、晶子も赤子にも興味が無い、等と誰が信じるだろう。



己の恐ろしい懸念に、忠正は軽く頭を振った。




そしてその懸念は大樹の枝葉の様に、貴明の周りへと広がっていく。





   ***



貴明と晶子の事を思うと胸は痛いが、貴明が欲する物を紫乃が否と言える訳も無い。塞ぐ紫乃を気遣った友人が美味しい洋食屋に誘ってくれた。あまり食欲は無かったのだが、彼女が何度も言って聞かせる『美味しい』が魔法みたいに、紫乃はオムライスを平らげた。

ほんの少し笑顔を取り戻した紫乃に、友人は「紫乃ちゃんはきっとお腹が空いていたのね!」と言うものだから、紫乃は声を出して笑った。

すると友人も笑う。笑みの連鎖に紫乃は胸が温かくなった。


貴明も笑っていると良い、紫乃はそう願った。


楽しい時間の帰り道、紫乃の前に一人の女性が立っていた。面識は無い筈だが、紫乃は相対する女性から敵対視されている様だ。


「田中晶子って言えば解るかしら」

「!」


名に覚えが有る紫乃は、瞬時に身体を硬くした。


「話が有るの。悪いけど、身体が重いから喫茶店に入りたいわ」


晶子はこれ見よがしに大きな腹を撫で、強い視線で紫乃を見つめる。紫乃は逡巡した後、少し歩く事を断って小さな喫茶店に向かった。


晶子はオレンジジュースを、紫乃は珈琲を注文した。

「私も前は珈琲を良く飲んでた。だけど貴明さんが果実の方が栄養が有るって言ってね」

聞いてもない事を晶子は喋った。腹を擦りながら、よく喋った。紫乃は感情の起伏を表に出さない様、気を付けながら晶子の話に耳を傾ける。


「私ね、貴明さんと結婚したいの」


単刀直入な申し入れに、流石に紫乃も目を見開き彼女を見つめ返した。すると彼女は満足げに唇の端を引き上げる。


「此処に貴明さんの子供が居るの。紛れも無く三条の血を継ぐ子供が。認知は当然だけど、私、三条晶子になりたいのよ」


紫乃は貴明の正式な婚約者で、晶子は言わば愛人だ。

けれど、晶子は揺るぎない自信を持って貴明の隣に立つべくは自分だと言い放つ。


「政略結婚なのでしょ? でもどう考えても利が有るのは貴女の家よね。三条はもう誰の後ろ盾も必要無い程大きな会社なの。だから女給だった私が家に入った所でビクともしない」


彼女が『三条』を語る度、紫乃の脆い足場がぐらりと傾いた。


「貴明さん、私に毎日と言って良い程会いに来るわよ。どんなに仕事が忙しくても」


晶子は赤い紅を乗せた唇を窄めてストローからジュースを啜り、上目遣いで紫乃を見る。出された珈琲に一切手を付けない紫乃は、華やかではないが内面の美しさが溢れ出ている様な印象を受ける美人だ。だがそんな美しさも今は霞んでいる。晶子の目には -名ばかりの婚約者- 紫乃が憐れに映った。



晶子はこの頃、貴明の行動を都合良く解釈していた。


自分の為に散財する貴明は、自分を大切にしてくれていると。

我が儘を言っても、全てを容認するのは、彼の愛情だと。


そして贅沢を覚えた晶子はどんどん強欲に、どんどん傲慢になった。最早、女給時代の少女の様な恋心は見る影も無い。


安い肉は食べないし、生地の悪い服は肌が荒れる等と貴明からの金銭を当てにする発言を繰り返した。物品だけでは飽き足らず、晶子が次に欲したのは、三条の名。

貴明の愛を受けるのは自分と腹の子で良い筈だ。所詮は親同士が決めた婚約者。紫乃に至ってもそれ程の想いは無いだろう、と晶子は踏んだ。

藤原紫乃など、怖くない。

貴明に愛されていると言う -不確かな- 自信が、晶子を盲目的に突き動かした。



「…私は貴明さんの意思を、尊重致します」



何処までも紫乃は落ち着いた様子で、自分の気持ちを言葉に乗せる。

この時、女給上がりの自分が勝った! と晶子は本気で思った。





   ***




夜遅く帰宅した貴明を出迎えたのは、屋敷の主である充昭であった。彼の書斎に呼ばれはしたものの、貴明は着席を許されず立ち尽くした状態で、彼の言葉を待つ。充昭は葉巻を咥え紫煙を燻らせながら、尊大な態度で貴明に訊ねた。


「俺の息子が婚約を解消し、何処の馬の骨とも判らん女と入籍をするらしいが、俺にはそんな息子が居たか、貴明」

「っ!」

「今し方、忠正にも電話で問うたがな、そんな息子は知らんと言ったな。なぁ貴明、お前はどうだ」


怒りに任せる口調ではないものの、充昭は明らかに貴明の所業を糾弾していた。


「藤原紫乃との婚約を解消した覚えはございません」

「当然だ」

「晶子の子は認知しますが、入籍など…」


貴明は身の潔白を晴らすべく、力を込めて否定した。だが充昭の貴明を見る目は冷え冷えとしたままだ。充昭が吐き出した煙が、彼の怒気と共に室内に充満した。


「充嗣の様な事も有るからな、跡取りの選択肢が有るのは構わない。だがあの女が三条を名乗る等、虫唾が走る」

「三条を、名乗る?」


寝耳に水と言った話に貴明は彼に説明を求めたが、充昭は一を聞いて十を知れとばかりに其れ以上の事は言わず貴明の退室を促した。

貴明は自室へ戻るとすぐさま、忠正の自宅へと電話を掛ける。彼からの連絡を想定していた忠正は、着信音一回で応対した。


「どういう事だ」

『伯父上の言ったそのままだ。晶子は藤原紫乃に会い婚約を破棄しろと言い、自分は三条の人間だと吹聴しているらしい』

紫乃アレに会った?」

『お前に必要とされているのは自分だと』


体内の血液がドッと流れ、頭上へと勢いよく昇る様な感覚に貴明は陥った。己の与り知らぬ所で、事が動く等言語道断。猛烈な怒りと不快感が押し寄せる。


「戯け…がっ!!」


忠正は、貴明の負の部分が爆発している事を感じ取り、「自業自得だ」とは具申せず、出来るだけ冷静を装う。


『お前に構って貰って何かはき違えているんだろう。晶子の方は俺が何とかする。だからお前は明日にでも藤原の家へ行け』

「当然だ」


そう吐き捨てたところで、貴明は怯み受話器を取り落とし掛けた。

今吐いた台詞が正に、充昭と同じであったからだ。反発し、憎悪してきたあの男と自分が重なり、吐き気すら覚えた。


『貴明?』


金に物を言わせ人を意のままに操り、世界が自分中心に回っているかの様に錯覚する。三条の名が見せる幻想に囚われ、絡め取られて、自分を見失っていた。


「た…忠正…友人として正直に言って欲しい…お前に今の俺はどう見える?」

『……生い立ちを恥じている青年に見える。言うまいか悩んでいたが、お前は晶子や赤子の為ではなく、自分の矜持を保つ事に躍起になっているんじゃないのか』



貴明は自分に母親しか居ない事を恥じた事は無かった。

寂しい思いや、悔しい思いは何度か経験したが、優しい母と二人で寄り添って生きた十一年間は幸せだった。

母は何時も笑みを絶やさず、愚痴の一つも零さず、貴明に多くの愛情を注いだ。


『愛情』だ。


幸せを齎すものは、愛情だ。



はき違えたのは晶子では無い。自分が稼いだ金で、そこら辺の男が買えないような品々で晶子を喜ばせ、其れが子供の明るい未来へ繋がると、彼女達を幸せにする事だと、貴明が自己陶酔していたのだ。


「…晶子には俺が直接会う。ホテルのティーラウンジで会う約束を取り付けて欲しい。忠正には、一度紫乃に会って欲しい。俺は晶子と決着を付けてから藤原の家に行く」


貴明本来の冷静さと思慮深さが電話の向こうから感じ取れ、忠正はホッと息を吐きながら電話を終えた。晶子は手古摺るかもしれないが、最後の手段は充昭に出てきて貰えば片付くだろう。問題は藤原紫乃だ。ただでさえ晶子の存在は、紫乃のプライドを傷つけるものであった。藤原家にしてみれば屈辱的な事であっただろう。


「何と言うか…」


夜の帳が下りた窓の外に月がぽっかりと浮かんでいる。忠正は其れを見上げながら、健気に貴明に寄り添う紫乃を想った。




   ***




身重の私をこんな所迄、呼び出すなんてと晶子は少し苛々しながら、貴明の訪れを待った。

今朝早くに秘書の忠正から電話が有り、話が有るからとホテルに呼び出されたのだ。フレッシュジュースを飲みながら、ホテルの出入り口に目を向ける。黒塗りの車からスラリとした体躯の男が降りると、ドアマンが恭しく頭を下げた。近くに居た客らしき人達が、その男に目を奪われる。

其れを具に見ていた晶子はほくそ笑む。


『彼は私の男よ』と。


ドアを潜った貴明は目的の場所へと迷いなく進み、ソファに座っていた晶子の前に立った。其れを当然の様に眺めていた晶子は、貴明の読めない表情に戸惑った。

貴明は困った様な、苦しい様なそんな顔をしていた。


「晶子、お前は変わってしまったな」


心底残念そうな声を上げた貴明。



エイトキャットに居た頃、晶子は貴明の姿を認めると晴れやかな顔をし、別の客を相手にしたとしても直ぐに席を立ち彼に駆け寄った。

勿論、当時は客と女給と言う身分違いではあった。だが、貴明を見つけた時のあの顔は特別なものだった筈だ。晶子の好意を違えず受け取る位には、純粋な喜びが窺えた。

だが今はどうだ。

いくら妊娠中とは言え、目上の男性を腰掛けたまま出迎えるなど、昔の晶子であれば考えられなかった事だ。


「…全て俺の責任だな」


苦渋に満ちた顔に晶子は益々困惑した。貴明は着席する事をわざわざ晶子に断り、対面するソファに座ると「すまなかった」と言った。


「お前の人生を狂わせてしまった事を詫びたい。すまなかった」

「なっ…何それ!」

「俺は三条を継ぐ為に、生まれた訳じゃない。そしてお前の腹の子も、そうじゃない」

「私は其れで良いのよ!」

「…俺は、お前の子供に其れを望んでない」

「!」

「俺は彼女と結婚するつもりだ。彼女が俺の子を産めば、その子が三条を継ぐ…晶子、俺は必死だったよ。お前の腹の子が俺の様にならない為に」

「だったら尚更じゃない! 私を妻にしてくれれば良いのよ!」

「考えれば解る事だろ、会長が其れを赦す筈がない。あぁ…そうじゃない。それだけじゃないんだ。俺は…お前を愛してる訳じゃない。その腹の子にも…特別な感情は無い」

「なっ」


貴明のこの一言に晶子は顔面蒼白になった。確かに一度たりとも愛を囁かれた事は無い。だが、こうしてはっきりと拒絶を受けたのは初めてだった。


「ただの、男としての責任だ」

「う…嘘よ、藤原から何かの圧力を受けたのね。わ、私ママからも会長に口添えして貰うわ。だって貴明さん言ったじゃない。私の事頭の回転が速いって褒めてくれたじゃない」

「…そうだな。お前は頭が良いよ。傍に置いておくのが怖い位にな」


注文を聞きに来た給仕に片手を上げ、彼を押し留める。貴明は此れ以上長居をするつもりは無かった。


「貴明…さ…」

「晶子、俺は存外甘くないぞ。今度俺を欺く様な真似をしてみろ、社会的抹殺も吝かで無いからな」


『お前の行動の全てを知っている』と言わんばかりの迫力が、晶子の動きを制御した。貴明はスーツの上着から財布を取り出し、五千円札をテーブルの上に乗せると立ち上がる。その一連の動作の間も晶子は動けないでいた。

凍てついた空気を纏う貴明を前に、息一つするのも難しいくらいだった。


「今後の連絡は忠正とする様に」




貴明がホテルを出て行った後、晶子の耳にも音が戻り、息を吐くと共に脱力した。

彼は気付いていた。





   ――― あの夜の、未必の故意を







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