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「社長、ご無沙汰ですねぇ」
照明を必要最低限に落とした店内でも、彼女は霞むことが無い。店の奥では水着の様な衣装に大きな羽を背負ったダンサー達が欧米の曲に合わせて身体をくねらせている。
キャバレー・エイトキャットの女給、晶子は肉感の有る身体にぴったりとした濃紺のワンピースを身に纏っていた。晶子は自分の武器である豊満な胸を貴明の腕に押し付けたが、貴明は其れに一瞥くれただけで、彼女の肩を抱くと直ぐ指定席に腰を落ち着けた。
こう言った店には珍しい、密談にお誂え向きの隔離されたL字のソファ席だ。晶子の作ったウィスキーの水割りを口にすると、貴明は「で?」と言った。すると晶子は明らかにがっかりとした顔をし、幼女の様に口を尖らせた。
「酷い。少しは私との会話を楽しんでも良いんじゃないの? 私これでも人気の女給なのよー?」
「其れは悪かったな」
少しも悪びれていない貴明の謝罪に、晶子はやはり「酷い」と言うと貴明は朗らかに笑う。
貴明がエイトキャットに初めて訪れたのは今から六年も前の事だ。当然、父である充昭に連れてこられた訳だが、鹿鳴館擬きの社交場は様々な情報を掴む為に必要不可欠な場所だった。
充昭は、商売に有益な情報、他者を貶める噂話、ありとあらゆるネタを店の女主人から買っていた。充昭が会長職へ退いた今、その情報の買い付けは貴明の仕事だ。
酒と女は男の口を軽くする。小物程、自分を気に入りの女給に良く見せる為、要らぬ事をベラベラと喋るものだ。
充昭が一線を退いた事で、女主人も自分の役目を若い女給に譲り渡した。貴明としては矜持を折られた気分だったが、彼女は言った。
「貴明さん、私はね、腰掛けてるだけじゃ口が滑らないのよ」
自分よりも三十近く年上である女主人を妖艶だなと感じたのは、その時が初めてだった。
充昭と女主人が割り切った関係だと思っていたのは、三条の人間だけだったのかもしれない。
女主人に紹介されたのが晶子だ。年若い晶子には荷が重いのではないかと思われたが、結果から言うと彼女は頭が良く、立派に間諜としての役割を果たしていた。
実の所、晶子も又女主人と同じく、三条の男を愛してしまった故の成せる業だったのだが。
「―――の鉱山開発が頓挫しているらしいわ。あくまで噂よ」
「―――か…連盟していたのは―――だったか」
晶子の話から貴明の頭の中では、幾つものシナリオが組み立てられていく。
何杯目かのウィスキーに手を掛けた時、晶子の指が彼の腕に触れた。貴明は其れを辿って彼女の双眸に視点を合わせる。
「とっておきの話が有るの。此処では、話せないとっておきの話が」
一笑に付すには難しい真摯な眼差しに、そのとっておきとやらの誘惑に――――貴明は抗わなかった。
貴明の婚約を聞いた晶子は焦っていた。何年も恋い焦がれた男が誰かの男になってしまう。女主人の様に陰でひっそりと男を支え続けるなんて自分には到底無理だと思った。
だから今夜、貴明に抱かれたい。最後の、一夜限りの思い出がこれからの晶子を支えてくれる筈だ。
「社長、エイトキャットの女主人が面会を求めていますが」
書類に目を通していた貴明の手元に小さな紙が、秘書の忠正によって齎される。其処には時間と此処から二駅程離れた町にある喫茶店の名が書いてあった。充昭が気に入っていた珈琲の美味い店だ。
「女主人?」
貴明は眉根を寄せ、彼女の申し入れに考えを巡らせた。最近店には行っていない。来店の催促等可笑しな話だし、何より晶子では無く女主人が貴明個人を訪ねてくるなんて此れまで無かった事だ。
「会長と何か有ったのか」
「いえ、週に一度は逢瀬を重ねてらっしゃいますよ」
淡々と語る忠正の口調に、やはり何故と言う思いが貴明の頭を掠めた。
「晶子の事でしょう」
「忠正、何か知っているのか」
「…社長と紫乃様の婚約を知って、店を辞めるとさえ言っていたそうですよ」
聡い貴明が、晶子の気持ちを知らなかったとは言わせない。忠正の返答が、そう言外に匂わせている。
貴明は大きく息を吐いた。たった一度寝ただけの女の始末をしろと、そう言う事か。
しかし、事はそう簡単では無かった。
指定された店で、女主人は常の和装で珈琲を飲んでいた。そしてその横には、二ヶ月振りに会う晶子が小さくなって座っていた。晶子は貴明を見た瞬間から涙を零し、女主人は顔色一つ変えず彼女にハンカチを差し出していた。
貴明は何の茶番だと些か鼻白みながら、忠正と共に彼女達の前に腰を下ろした。
「しゃちょ…ごめん…なさ…」
晶子は涙ながらに謝罪の言葉を口にした。訳が分からないとばかりに貴明は忠正に視線を向ける。忠正は何らかの事情を察した様に、苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべていた。
そして初めて、貴明は此れがただの”始末” では無い事に思い至った。
『まさか』
「貴明さん、晶子がね貴方の子供を身籠ってるのよ。…私はね、父無し子を育てるのは簡単じゃないから堕ろしなさいなって言ったのよ。でも」
「産みたいんです! 大変だと思う! でも私、赤ちゃんを産みたいんです!」
「晶子、取り乱すんじゃないよ」
女主人は至って冷静だ。恐らくこの店に、貴明達以外に店の主人しか居ないのも彼女の計らいなのだろう。
「うぅ…すみませ…でも…」
貴明はこの時ばかりは頭が真っ白になっていた。
社会的地位や体裁を考える前に、『父無し子』と言う言葉が肩に重く圧し掛かった。
「私も最初はね、貴方に黙って何とかしようと思ったんだけどね…この子は産むって聞きやしない。だから、私が何とかするしかないじゃない。知っての通り晶子は親が居ないんだからね。ところがね、うちの弟が何とかって言う病に罹っちゃってね、とてもじゃないけど晶子の面倒をずっと看るのは難しいのよ」
当然だろう。いくら女主人の収入がそこら辺の会社員なんかより高額だったとしても、三条充昭の愛人だったとしても。
「貴明さん」
女主人は涙をただ流し続ける晶子を一度見た後、貴明に焦点を合わせる。
「思うところは有るでしょうけど、晶子の気持ちも汲んでやって頂戴な」
声を発する事の無い貴明に代わり、忠正が「後日連絡します」と話を締めた。晶子は茫然とする貴明を縋る想いで見つめたが、店を出るその時まで、二人の視線が絡む事は無かった。
「貴明」
忠正に肩を叩かれ、貴明は現実へと引き戻される。忠正は、貴明の心情と動揺を慮って掛けるべき言葉を見つけられずにいた。
晶子の腹の中に、自分の子供が存在する。三条の血を引く子供だ。
彼女は堕ろさない、と言った。
戸籍に、父親の居ない子供が、この世に生まれる。
第二の貴明が、生まれてしまう。―――――赦されるのか?
「堕胎させるんだ」
貴明の口から呻る様に発せられた言葉は、晶子にとって非情なものだった。
「俺は、三条充昭になるつもりは無い。同じ轍を踏むつもりも無い」
「…貴明、お前は『失敗』なんかじゃない」
「はっ」
隣で綺麗事を言う忠正を、貴明は嘲笑う。生まれた瞬間から三条の人間だった忠正に解る訳が無いのだ。両親の元で何不自由なく暮らして来たお前とは違うのだと。
「三条の直系が戯言を!」
「本当に、晶子が腹の子を堕ろしても良いと思っているのか! 生き抜く事に執着しているお前が、小さな命を消す事に罪悪感を覚えないのかっ!」
「俺は! その子供が不幸になるだけだと言ってるんだ!」
「お前の人生は不幸なだけか!!」
此れには流石に貴明も返す言葉に詰まった。
「確かに辛い思いをしてきただろうよ。継ぎたくもない三条の名を継がされたんだろうよ! 伯父上が憎いだろうよ! だが、商売は面白くないのか! 自由になる金で好きなだけ本を読み漁っているんじゃないのか! 俺と言う存在も憎いのか!」
そんな訳は、無い。悲観に嘆いただけではない貴明の人生だ。何不自由ない食事に、隙間風等入る事の無い寝室、読みたくて読みたくて仕方無かった高額の書籍。三条充昭になりたくないと言いながらも、三条の恩恵は常に受けていた。
そして、此処に居る忠正は貴明にとって唯一の存在だ。
誰もが貴明を蔑んでいたが、忠正はそうでは無かった。貴明の救いだった。
「正直…堕胎させた方が良いのかとも思うさ。だが…きっとお前は其れを後悔する時が来る。俺はそんな気がしてならない」
貴明が、悔やむ事になるのか、本人にも解らない。だがどうしてか、忠正のその予想が大きく外れる事は無いと思った。
「当然、お前は三条の社長だ。晶子を娶る事は出来ない」
改めて忠正に宣言され、貴明は彼女を想起させた。最近、多忙を理由に会っていなかった婚約者。
「既に藤原紫乃がお前の婚約者である事は周知の事実。伯父上が藤原との繋がりを切り捨てる訳も無い」
「…女遊びも男の甲斐性、だからな」
「そうだ」
二人は既に通常運転で、今後についての話し合いを五分程度で切り上げた。
晶子の子供を認知する。
紫乃との結婚は予定通り。
藤原に盾を突かれた所で、三条は痛くも痒くもない。
紫乃は、貴明の女遊びについても寛容な態度を示すであろうと、二人の意見は一致した。
***
「紫乃…」
貿易会社に勤める紫乃の父、藤原秀彦は日本不在時が多く、小さい頃等は家に秀彦が居るだけで紫乃は歓喜した。秀彦にしても見ない間に成長の一途を辿る娘を猫可愛がりしていた。
その秀彦が沈痛な面持ちで紫乃を見つめる。
娘が二十も半ばに差し掛かっていたとしても、自分の子供に変わりは無い。娘の幸せを望まない親では無い。
貴明が晶子と言う女性と親しげだと風の噂を聞いた。
彼女のお腹は、僅かに膨らみ、彼女はそのお腹を愛おしそうに撫でている。
最近紫乃は貴明とは会っていない。会えない事を気遣ってか、時々花や菓子の贈り物が紫乃の家には届けられた。
勿論、秘書の忠正の手配に依るものだろう。
「この結婚は先方の強い希望だった。お前も結婚適齢期だと思ったし、何よりお前も彼を望んでいた様だった」
秀彦は、婚約を結んだ時の事を思い返す。
三条貴明より『一度ご息女とゆっくりとお話をさせて頂きたい』と乞われたのだ。突然の事に驚きはしたものの、断る理由等無かった。その後正式な申し込みを受けた時、彼は紫乃に言った。
『お前が気乗りしないなら断れば良い』
そう言ったのに対し、紫乃はこう応えた。
『是非お受けしたいです。貴明さんの、お傍に置かせて頂きたく存じます』と。
「お父様、今もその気持ちに変わりはございません」
「だが紫乃…其れではお前の心が痛むだろう」
紫乃は秀彦の思い遣りが嬉しかった。藤原の『立場』ではなく、一人の女性としての『心情』を気遣う父をこれまで以上に敬いたくなった。
其れと同時に自分が愛されて育った事を益々実感した。
「私が貴明さんとその方との仲を引き裂く様な立場でしたら身を引きます…三条家から婚約破棄の話が無いのでしたら彼は未だ私との結婚を望んでおられると言う事ですよね。でしたら、其れで良いのです」
「随分と…献身的なのだな」
伏し目がちに現状を受け入れる娘を案じつつ、その様な愛情を手向けられる相手が居る事は一つの幸福なのかもしれんと、秀彦は自らに言い聞かせた。
「…そんな聞こえの良いものではないですわ…」
そんな紫乃の呟きは、秀彦の耳には届かなかった。




