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「この婚姻は政略以外の何物でもない」


そう紫乃に言い含めたのは、彼女の婚約者殿だ。

彼がそう言うであろう事を紫乃は十二分に理解していたので「はい」と小さく返事をし、互いの立場を違えず承知している事をほんの少し微笑む事で返した。


「君には公の場で私の完璧なる妻であって欲しい、其れだけが望みだ。其れ以外は私の許可を得る事なく、好きにして構わない」


清々しい程の仮面夫婦の徹底を課せられる紫乃だったが、多くの -様々な- 人間を束ねる指揮官である彼の一部に触れ、遠巻きに見ていては知る事の無かった彼を身近に感じ喜びを禁じ得なかった。

”愛”と呼ばれるものを差し出す事は出来ないが、妻である以上、紫乃には十分な待遇を与えると温情をかけたのだ。


其れが紫乃の婚約者、三条貴明だ。


貴明の祖父は華族であり、多くの土地を持ち財を成した。貴明の父が前身である三条物産を築き、今や日本屈指の総合商社三条を大きくした。其れを受け継ぐべく貴明は教育され、三十歳を前に社長と言う肩書を譲り受け、高度経済成長期の今、世間に『三条は安泰だ』と言わしめる手腕を発揮している。



三条家が多数の婚約者候補から、藤原紫乃を選択したのは紫乃の祖母が臣籍降嫁した女性であったからだろうと噂されていた。

彼女の父親は、三条と仕事の付き合いがある貿易会社の常務と言う立場であるが、三条が金銭面や業務上での援助を求める程の器では無い。故、藤原の人脈を手中に収めたかった、其れが三条の真意に違いないと実しやかに囁かれている。


貴明も紫乃も二人の婚姻の真意を知る事は無い。

親同士が決めた二人の男女の関わり、ただ両家が結び付く事で利が生まれる、其れだけが事実だ。




   ***



とかく貴明は多忙であった。何度か食事を共にしたが、予定より到着が遅れる事も、食事の途中で席を立つ事もしばしばであった。

彼の秘書を務める三条忠正は、その度に紫乃の顔色を窺った。しかし彼女は嫌な顔一つせず、背筋を伸ばし貴明の到着を待ち、食事を切り上げ未来の当主を送り出した。




「社長、少しお時間宜しいでしょうか」

忠正は、貴明の習慣である新聞の閲覧が終了すると控えめに彼に声を掛けた。社長室には貴明と忠正の二人しかおらず、未だ就業前で、内緒話をするには都合が良かった。


新聞紙から顔を上げた貴明は、話を促すよう、ゆっくりと皮張りの椅子に背を凭せ掛ける。


「藤原紫乃の件です」

「何だ」

「余りにも出来過ぎた女で、何か謀られていないかと疑心を抱いております」


以前より忠正から紫乃の行動に関しての報告を受けていた貴明は、彼の懸念も理解出来た。

紫乃は、常に貴明の一歩後ろを歩き、彼の立場を尊重し万事控えな女性だ。かと言って、ただ木偶の坊の様に傍らに突っ立っているだけの飾りの女性でもない。

慎みを持ちながら、三条に有益になりそうな情報を世間話の中に織り交ぜ、貴明に話して聞かせるのだ。淑やかな容姿に、慎ましい性格、そして知性。正に、三条が求めていた『妻』の姿が其処に在る。



其れが過ぎる、と忠実なるしもべは主に進言した。



「監視は付けているのだろう?」

「勿論。時折女学校時代の級友と出掛ける以外は、家の敷地内に居る」


貴明と忠正は社長と秘書の姿以前に、同じ年の従兄弟に当たる。今現在は、私的な話題なので自然と忠正の口調が崩れた。


「謀る、として。狙うは三条の金だろうな」

「父親が勤める会社が事業を大きくしようと計画はしている様だが、銀行は貸し渋りをしているらしい」

「…娘を使って金の無心か? パーティで何度か言葉を交わしたが温厚そうなイメージしか残っていないのだがな」


貴明は肘掛けに掛けていた右手を口元に寄せ、数少ない紫乃の父親との対面を思い返した。しかしながら先程口にした言葉以外何も浮かばなかった。


「兄上の方はどうだ」

「藤原教之氏は二人の結婚式の時には一時帰国するが、未だ米国に留まる様だな。あちらでの仕事が楽しいのだろう。まぁ帰国すれば結婚を急かされるのが目に見えてるのだから、其れを先延ばしにしているのかもしれん」

「そうか…」

「少し揺さ振りを掛けてみるか」


貴明はやはり口元を指先で弄びながら、紫乃の此方を真っ直ぐに見つめる瞳を瞼の裏で再現した。

忠正の言う通り、過ぎた女では有ると思う。だが、三条を敵に回す様な愚かな真似もしないだろうと根拠の無い自信も有った。


「忠正」


貴明は両手を組み、大判の机の上にゆっくりと其れを落とし、忠正を見上げた。


「過ぎた女で構わない。俺は馬鹿では無いつもりだし、三条を欺く等笑止千万」


つまり、何らかの策略に気付かない訳が無いし、万が一起こってしまったとしても、ただでは済まさないと貴明は宣言したのだ。


三条の人間は、決して甘くない。

優しいだけで何千人もの人間を掌握出来ないし、綺麗事だけで商いは回らないものだ。




   ***



貴明には腹違いの兄が、居た―――――。


正統な後継者である三条充嗣みつぐは、成人と言われる年を迎える事無くこの世を去った。元々病弱であった彼は、ひっそりと、母と家政婦に看取られた。その時、父親の三条充昭みつあきは幾ばくかの金を過去数回抱いた女に差し出し、若干十一歳の貴明を -強引に- 見慣れぬ車に押し込めていた。


三条貴明は、妾の子。


充嗣を亡くした充昭の妻は精神を病んだ。屋敷に仕える者達は、貴明を腫れ物に触る様に扱った。

充昭の連れて来た得体の知れない子供に、あからさまな嫌がらせは無かったものの、不躾な視線や媚び諂う胡散臭い笑顔は貴明の心を蝕んでいった。嫌悪だらけの現実は吐き気がして、貴明は眠りに就いている時だけが安寧の時だった。優しかった母の面影を何度夢に見ただろう。

逃げ出したいと思ったのは数知れない。けれどその度に、母親を引き合いに出され彼は黙るしかなかった。


充昭は絶対君主を貫き、自分に逆らう者に容赦が無かった。


『貴様、何だその目付きは!』


未だ生活にも不慣れな頃、貴明は初めて人に頬を張られた。悔しさと、情けなさと、恐れが貴明を襲う。そして学んだ。


この男に逆らう事は得策では無く、この男が何時かくたばるその時こそが己が自由になれる時なのだと。




「貴明さんはお酒を飲まれますか?」

「まぁそれなりに」

「父が葡萄酒を仕入れまして、もし宜しかったらと思いまして」

「葡萄酒、ですか」

「仏国のものです。渋みが少なく、ご婦人の間でも評判でしたの」


貴明はにこりと笑う紫乃の腹の内を探る様に、彼女の瞳を覗き込む。

酒を自分に勧める彼女の意図。

近々、三条は新社屋落成記念パーティを催す。その時に、お試し的に置いてみてはどうか、と彼女は進言しているに違いない。

わざわざこうして確認する迄もなく、紫乃は既に貴明が酒を好んで飲む事を承知している筈なのだから。


「そうですか、是非飲んでみたい。渋みが少ないのなら、葡萄酒を好む女性も増えるかもしれない」


貴明がそう答えると紫乃は蕩けた笑みを浮かべるものだから、極自然と言った感じで貴明の眦も下がり、優しい表情になった。





   ***




紫乃が、貴明を知ったのは中等科の学び舎だ。薄紅色の花びらが空を舞う春の事。


紫乃は十一歳、貴明は十七歳の時の事。紫乃は新しい生活に緊張し、終始気を張っていた。先生も友人もとても親切だ。学ぶ事も苦では無い。けれど、慣れない毎日に疲弊しているのも事実であった。

其処で紫乃が息抜きにと見つけたのが、中等科の裏門に広がる原っぱだ。まるで腰掛けの様に細長い岩が鎮座している裏庭。無論人の往来は避けられない場所ではあるが、正門よりは人気が無い。少し一人になりたい時は此処を散策する、紫乃にとって最適な場所だ。


今日も今日とて一人の時間を満喫する紫乃の耳に届いたのは、男同士の争う声だった。


『貴明!』

『付いてくるなっ! お前も所詮アイツらと同じ穴の狢だ!』

『待てっ誤解だ。俺も昨日迄知らなかった』


緊迫した様子が窺える。紫乃の身長よりも遥に高い塀の向こうでは未だ口論が続いていた。他人の話を盗み聞くなんて良家の子女としては勿論、人の道徳としても許されるものではないのだが、内容が内容なだけに紫乃の足を其処へ繋ぎ止めてしまった。


『母さんの死に目にも亡骸にも…会う事が叶わなかった! あのひとは俺を育てた母なのだぞ!』

『解ってる…解ってるが…』

『…もう我慢なんぞするものか。俺は即刻三条の家を出て行く』

『貴明…早計は止せ。お前が三条の家を出たとしても伯父上はどんな手を使ってでもお前を探し当てるだろう。もしお前が戻る事を頑なに拒否すれば、お前の母親の妹がどんな目に合う事か』


紫乃は息を殺す様に両手で唇を塞いだ。”三条” 知らぬ名では無い。


壁一枚挟んだ向こうに三条の人間がおり、家を出て行く等と荒っぽい台詞を吐いている。決して耳にしてはいけない会話を紫乃は聞いてしまったらしい。


『何故だ! 忠正、何故だ! 何故俺なんだ!!』


タカアキと呼ばれる人物の苦悩が紫乃へと痛い程伝わった。聞き及んだ話から、タカアキの母は死に、彼は最愛の人の最期を看取る事が出来なかったのだ。そう…仕向けられたのだろう。


何と言う残酷な話だろう。

仲睦まじい両親に愛情いっぱいに育てられた紫乃にとって、家族を失う、家族を疑うなんて事は考えにも及ばない。


『俺は三条なんて欲しくないっ!!』


其れは悲鳴にも近い貴明の声だった。


貴明の悲鳴は紫乃の鼓膜にこびりつき、剥がれる事は無かった。




其れから数年が経ち、紫乃は父に連れられたパーティで三条貴明と対面した。


『初めまして』


あの悲鳴を上げた声が、今は凛としている。そして貴明は、未だ学生である紫乃に対して紳士然に振る舞う。この時、貴明は大学を出て父親の会社である三条に入社したばかりだった。


隙の無い貴明は微笑み、誇らしげに三条の名を背負っている様にさえ見えた。


紫乃はあの口論の後、三条について大衆が知っているであろう情報を見聞きした。商社三条には、二人息子がおり長男は病死し、次男である貴明氏が三条を継ぐ事が決定していた。貴明氏には従兄弟である三条忠正氏が従者として控えている。其れが、表向きの三条家の情報だ。


けれど誰もが声を潜めて噂している。


三条貴明は妾の子。三条忠正は貴明のお目付け役として置かれている、と。




紫乃はそうした情報を得て、彼等の、貴明の置かれている立場を理解したのである。紫乃はただただ心を痛めた。

目の前に立つ男が貼り付けた嘘ばかりの笑顔が、臓腑を締め付ける。


「は、初めまして…藤原紫乃と申します」


熱くなった瞼を伏せ、紫乃は首を垂れた。顔を上げた時も貴明は笑みを浮かべている。紫乃は、見えているものだけが全てでは無い事を知った。




驕り、だろうか。情け、だろうか。




紫乃は、貴明に対しある一つの想いを抱いていた。六つも下の小娘が何をと、誰もが笑うだろう想い。けれど其れが消散される事は無く、三条家と藤原家の婚約が相整った。


その婚約が例え政略結婚だとしても、喜び以外の何ものでもない。

紫乃は、己の想いが人知れず嵩を増していた事を悟った。






「貴明さんは、忠正さんととても仲が良いのですね。お休みの日はお二人で出掛けたりしてらっしゃるんですか?」


食前酒からデザートまで、二人が食事を進められる事も滅多にない事であった。この日の紫乃はとても高揚していた。

貴明は食後の珈琲を口にしながら、苦笑いをしてみせる。


「ただの腐れ縁です」

「そんな風には見えませんけれど…私はお友達が会社勤めされてる方が多いので、日曜日にたまに会ってご飯を一緒に食べたりするんですよ」


貴明は紫乃に対し、自分の多くを語ろうとはしなかった。紫乃に悪い印象は無いけれど、『結婚』に関しては致し方なくするもので有る。その認識が、紫乃への無関心を装わせた。

何時だって相手の事に興味を示すのは紫乃。先の続かない返答に紫乃は少々困りながらも、貴重な二人っきりの時間を無駄には出来ないと、会話の糸口を探す。

紫乃の世界は広くない。

短期大学を出ると、行く行くは結婚なのだからと両親に諭された事も有り就職はしなかった。けれど、こうして貴明と知り合い、婚約者に選ばれるのであれば、会社勤めをし見識を広げておくべきだったなと思うのだった。


「そのお友達が、面白い小説を教えてくれて今、読んでいるんですけど…」

「面白い小説?」


貴明が短い返しでは無く、此方に回答を求める言葉を発し、紫乃は僅かに目を見開いた。興味津々と言った表情の貴明を見つめ返し、彼は本が好きなのだと理解する。そしてその理解と同時に、紫乃の顔が綻んだ。



紫乃は嬉しかったのだ。


貴明が自分の話に耳を傾けてくれる事が。

僅かでも、貴明が自分に『心』を開いてくれている、そんな気がしたのだ。







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