転機
彼女が望む未来に向け順調に月日が過ぎる中、大きな転機が訪れる。
未だ妃を一人も持たない次期国王たる王太子に痺れを切らした国王と王妃が、国中から年頃の娘たちを集めた夜会を催したのだ。表向きは国王主催の王太子の誕生祝いだったが、招待客を見れば狙いは明らかだった。王太子以外にも同年代で未婚の次期に爵位を継ぐ青年たちも多いことから、これは盛大な見合いだと誰もが思った。
意外な話だが、王太子は国主催の夜会以外にはまったくといって良いほど出席せず、しかもそれでも若い女性が少しでもいれば、最低限の義務を終えればすぐに退席してしまうのだという。しかし、今度ばかりは出席せねば王太子の地位は危ないと思えと脅されたらしく、おとなしく出席せざるを得なかったそうだ。
そんな小声の噂話を壁の花になって聞いている私は、酔えないとわかっていながら、最早何杯目かもわからない強めの酒を給仕から受け取っている。さすがに社交の場に出たくはないといっても、国王からの正式な招待を断るわけにはいかず、出席の運びとなっている。この夜会の主役に心から同情しながら。
目立たぬ位置にいる私と違い、光り輝く中心にその主役がいる。
これまで前述の通りの素行を繰り返していたため、令嬢たちの噂にはあまり上りようもなかったが、ご他聞に漏れず王太子は美丈夫だ。女性にしては若干高めな身長の彼女に並んでも見劣りしない長身、この国では珍しい漆黒の髪は他国から嫁いで来られた先王の正妃から受け継いだもので、王妃譲りの瑠璃色の瞳と精悍な顔立ちと相俟って、既に他者を圧倒する支配者の雰囲気に重みを持たせている。
国王となるに相応しい聡明な頭脳に加え、上位の軍人相手に互角以上に渡り合える武術の腕前、次代の側近となるだろう若い貴族たちからの絶大な信頼と忠誠。時に非情となることを厭わない強い意志。
誰もが傅かずにいられない、絶対王者。
息子がおとなしくしていることに安堵したのか、自分たちの存在は無粋だと退席した国王と王妃がいないこの場において、王者は間違いなく彼だった。
そして、もう一人――彼の傍らに、対を成すように存在する彼。
王妃からは白金の髪、国王からは翡翠の瞳を受け継いだ、王太子のひとつ年下の弟王子。兄とはまた違った、どちらかといえば優男にも見える顔貌。しかし細めながら引き締まった体形が、次代の宰相と目されている頭脳だけでなく、兄と互角に戦えるほど武にも優れていることを窺わせる。
兄王太子に劣らぬ能力の持ち主ながら、競合する意志はなく兄を補佐することを公言しており、領地はないが既に公爵の地位を与えられている。兄王太子が出席しない夜会にも積極的に参加して人脈を形成しており、それは将来において国王となる兄君のためであろうと、諸侯からの評判は良い。そして絵に描いたような王子様な人当たりのよさで、数々の令嬢たちの視線を集めている。
普段の夜会ならば場の主役とも言うべき雰囲気を醸すだろう彼は、しかし今この夜会においてだけは、兄王太子を引き立てる役にしかなっていないように見える。
闇と光。
深海と深緑。
それは美しい対比となり互いを引き立たせるものであろうに、両者の持つ雰囲気がそうはさせない。いや、彼の持つそれが、と言うべきであろう。
あくまでも自分は影に過ぎないと、光を持つはずの彼は雄弁にその在り方で物語っているのだ。
そのことを誰もが感じ取り、感動し、次代の安泰を信じる。
言葉を弄さずとも存在だけでそれだけのことを成す彼らを、頼もしいと思うと同時に恐ろしいと感じるのは私だけだろうか。
数人の令嬢とともに彼らとにこやかに挨拶を交わしている姉は、おそらく気づいてはいまい。普段なら私と同様に気づくはずだが、今この場においてのみ、彼女は普段の頭脳を発揮できていないはずだ。
なぜなら、彼女は二人と相対しているはずなのに、その意識のすべては一人だけに向けられているからだ。
姉は、光持つ王子に恋をしている。
我が侯爵家では公然の秘密となっている、姉の心の在り処。
姉が初めて夜会に出席したとき、既に社交界では時の人となっていた公爵と、身分上釣り合いの取れる二人はダンスを踊ったそうだ。
そのとき、完璧な貴公子として振舞った彼に、姉は恋をしたのだ。
本人は表面上は完璧な令嬢として振る舞っている、そのつもりだろう。確かに上位の王太子を立て、それに相応しい会話をしている。しかし、その目だけが裏切っているのだ。
王太子には敬意を払いながらも凪いだ目を、公爵にはそれに加え少しの熱を孕んだ目を。
おそらく周囲の令嬢は気づいていない、ほんの僅かな違い。だが向けられた二人がすぐに気づくくらいには、確かな違いだったのだろう。
その場から姉を筆頭とした令嬢たちが去った後、確かに王太子は面白そうな、そして公爵は――微かな不快感を示したのだから。
国王たちが期待したように、王太子がその場でお相手を決定するような物語のようなことが起こることもなく、幾人かの若手貴族が恋人を得たこの夜会の翌朝、侯爵家に使者が訪れる。その手に、国王の紋章で封印された書状を持って。
それは侯爵家長女を王太子妃に指名するものだった。
そして、姉にとっては寝耳に水であり、到底許容できないことに。
次期侯爵となる次女の婚約者にかの公爵を、という内容の。
決して逆らうことは許されない、勅命を記した書状だった。
10月21日誤字訂正