過去
国一番と称された美貌の女性が、その容貌に相応しく着飾ったドレスが乱れるのも構わず、自身を取り押さえる腕から逃れようと抵抗している。
通じるはずもない解放を命ずる声は、いつもの鈴のなるような声とは程遠い、甲高い耳障りなそれになってしまっている。
――哀れだ、と思う。
その様を見ながら私は、もはや自分の身に危険が訪れることのなくなった安堵より、少女に対する憐憫の情を抑えきれなくなっている。
もちろん、そんな感情が周囲のすべてに過敏になっている彼女に伝わらないはずがなく。
「あなたさえ……あなたさえいなければ、わたくしはっ」
憎悪というには足りない、けれどそうとしか表現できない、濃密なその感情をにじませた声で、目で、顔で。
全身でその感情を顕わに向けてくる彼女に、私は向けるべき言葉を持たない。
「あなたさえいなければ!」
この世に生を受けてから今この瞬間まで、一瞬たりとも相容れることのなかった女性と私の関係性は、その言葉こそがぴったりと当て嵌まる。
私を存在ごと拒否する、この双子の姉にとって。
この世界には三つの大陸が存在するという。
ひとつは世界の闇を凝縮したという魔の大陸。ひとつは世界の光を凝縮したという聖の大陸。そしてもうひとつが、そのどちらにも存在できなかったモノが集合した、混沌の大陸。
その混沌の大陸には、人間を筆頭に先の二つの大陸には存在できなかったモノたちがそれぞれに適した場所に別れて暮らしているという。
そんな混沌の大陸にあって、現在人間の作った現存する国は五つあり、長い歴史の中で弱い国は淘汰されてきたというのは、当然の理なのであろう。中でも中程の長さの歴史を持つわが国は、そこそこ力があったということなのであろうか。
そんなほどほどの国にあって、私は代々宰相を多く輩出する侯爵家の初めての子として生まれた。いや、それには若干の語弊があるだろう。初めての子と間を置かずして生まれたというほうが正しい。
それは私が、双子の妹として生まれたからだ。
そもそも我が家は代々双子が生まれやすい家であったらしいが、そのこと自体はさして問題ではない。女子であったこともこの国において問題にはならない。女であっても爵位を継ぐことはできるからだ。それは短くはない歴史を持つ我が国において、前例が腐るほどに存在してきたゆえだろう。
それゆえに当然ながら私は、物心つく頃には姉とともに侯爵家継嗣としての教えを受けながら育つことになった。どちらが後継者となっても良いよう、同じだけの教育を。
ただ同じ環境で育てられたとはいえ、両親を除く私たちの周囲は姉の方が侯爵家を継ぐことを望んでいたように思う。
歴代の双子でも数少ない事例を除いて長子が家督を継ぐことが当たり前であったし、それは国の慣例にも準ずるものであったため、そういう流れになることはごく自然なことであったであろう。
そして、姉はその期待に充分応え得る人物であった。
権力者というのは身目麗しいものを好むのか、ご他聞に漏れず眉目秀麗な両親から生まれた私たち姉妹は、それに準ずる容姿をしている。しかし、似ているつくりをしているというのに、どうにも性格上、地味さが拭えない私と比べ、姉はまさに傾国の美姫と呼んで許される輝きを持っていた。
淡い、緩やかなウェーブを描く柔らかな髪。清水を集めた湖のような、優しげでいて強い意志を感じさせる薄水色の瞳。コルセットを着けずとも細い華奢な身体は、掴めば折れそうながら、護衛が必要ないほどには護身術を極めている。身に秘めた魔力は高く、侯爵家が特に得意とする火の魔術に関しては、十を数える前にはそのほとんどを極めていた。
性格は少々貴族のお嬢様にありがちな高慢さが伺えるが、侯爵家の使用人たちの評判は悪くない。自信に満ちた堂々たる振る舞いは社交の場においては有力な武器になり、頭がよく機転も利くので敵は少ない。また面倒見も良いので、同年代の女性の中では中心的な存在になっている。
そんな人間が実在するのかと言われればそれまでかもしれないが、ほんとうに存在するのだから仕方がない。
同じだけの教育を受け同じだけの能力を持ちながら、人付き合いを望まず屋敷にこもりがちで、日々読書を趣味としている私は、おそらくはほぼ世間から忘れられた存在となっていることだろう。
それでも私はそれでよかったし、侯爵家を継ぐことがなければ早々に余所に嫁いでそれなりに暮らしていければよいと思っていた。
もともと性格が違いすぎたせいなのか、双子だというのに私たちは仲が良いとは言えない関係にあった。別に私は気にしてはいなかったが、自分と同時に生まれた妹が、あまりにじみすぎることが相手は気に入らなかったらしい。
物心ついて教育を受け始めるより前に、それまで双子ということで一緒だった部屋を分け、露骨に顔を合わせるのも、もっと言えば影を感じるのもいやだという態度を取り出したのだ。
幼い子にありがちな我儘だと、仕方ないという風に周囲はおとなしく言うとおりにしたが、それも今日の彼女の態度を助長させたのだと私は思っている。
教育を受けはじめても同じ科目を同時には受けず、違う時間割で受けさせられた。教師の先生方には同じ屋敷で二度手間なので、さすがに周囲は非難するような目を向けたが、両親がこれを首肯したため、表立って抗議する者はいなかった。彼女は両親が自分の味方についたと思ったことだろう。その時期から我儘というより高慢な言動が増えてきたから、それは想像に難くない。
彼女は間違いなく、あの幼かった頃から、自分がこの家を継いで気に入らない妹を追い出そうと考えていたのだ。
私はそれを知っていた。
知りながら放置していた私にも、責はあるのだろう。けれど私が何かを言ったりしたりしたところで、それは逆効果にしかならないということも知っていたから、何もしなかった。
ただ一度だけ、歴史の教師に訊かれたことがあった。
「このままでよろしいとおもいますか?」と。
世界の歴史を研究し、深い造詣を持つその老教師を私は尊敬していた。だからこそ、ただ一言であろうと答えを返したのだろう。
私の答えはかの教師にとってどんな意味を持ったのか、尋ねることはもう、できない。
10月21日誤字訂正