国外の吸血鬼
どこまでも遠くどこまでも白い月の下。
何物かが息を潜めているような、しかし何者も現れぬ夜闇が目の前に広がっていた。
振り返る。
何もない闇だけがあった。
或る仕事からの帰り道、その彼女は足を速めていた。
かつ、かつ、かつ、かつ…
彼女の足裏は緩やかに加速してアスファルトを叩く。
かつ、かつ、かつ、かつこん、かつ、かつ、かつ、こんかつ…
………一定の歩行を行う自分の足音に、確かに重なって誰かの、足音が。聞こえた。
かつ、かつ、かつ、かつこん、かつ、かつ…
停止。
………こん
果たしてどういうことか?自分の歩行に合わせて歩く何者かの音跡。そして、自分の停止に一歩遅れて消えるそれ…。
後ろを振り向く。
何物かが息を潜めているような、しかし何者も現れぬ夜闇が目の前に広がっていた。
安堵し、前を見ようとした。が、やめる。展開上振り返った目の前に怪しい男が突然現れるだなんてお約束がないとは言い切れない。
いや、しかし、まさかそんな、だが…
結局そのまま停止していても家には着かない。前を向く。
そして何の問題もなく何者かがいるようで何物も現れない暗黒が、目の前に
いた。
目の前四十センチ、至近距離に必殺的に怪しいその男はいた。深黒のスーツ、髑髏模様のネクタイをキメて金色の髪が肩口に垂れる。明らかに日本人でない事だけがわかる長身の、職業なんだと思います?と聞かれたらモデルですか?と答えてしまいそうな、はっきりくっきり美形な男が、どこか妖しげな眼で、目の前に突然出てきた。
そして、彼女はまず、恐怖した。
当然の反応である。まず、その怪しい男の登場だけで悲鳴をあげてもおかしくなかった。しかし彼女は騒がない。いるはずのない位置にまで近寄られた事への、つまり虚を突かれた状態は彼女から声を奪っていた。
こん
それは彼が彼女にもう一歩近づいた事を示す足音だった。
そして、もう一つ。
彼女を悩ませていたあの音跡とその音は、同一だった。
それらが示す事象は一つしかない。
アドレナリン全開。彼女はあらん限りの大声を上げようとして…
「アー、ドーモスンマヘン、オキキシテヨロシイデショカ?」
「………はい?」
「コーノヘンデ、カドーアキムネ、イウシトスンデマセンカ」
「え……と…あっちです」
質問に答えた。
一応は知っている。この辺りで一番大きな屋敷に住んでいるご老人である。
「あっちのほう……です」
そこまで言って見ず知らずの人の家を見ず知らずの怪しい男に教えてもどうか、と思い直したが。遅かった。
『イヤー、ソウデッカ。タスカリマシタ、ミナサンワタシミタダケデニゲテクノデコマッテタデース』
男は、さっきまでの緊張感を皆無にしてしまう喋りの後、
『アリガトゴザイマー』
そのルックスとファッションを軽く凌駕する日本語で礼を言い、立ち去ろうとして、思い出したように振り返る。
「アー、クライヨミチダイジョブデッカ?ブッソーナヨノナカデッカラ、ヨロシカタラヲタクマデオクリマショウカ?」
「いえ、結構です」
お断りしたあと、思った。
何なんだこの男?
もちろん夜中に女性に背後から近づくなどというのは不作法だが、勝手に怖がってたのは彼女で、なんだか、あっけない、まるでお話みたいなその展開は、どうにもこうにも彼女を混乱させた。
だから、こんな時間にこんな場所にいるということへの疑問が浮かぶのが、ワンテンポ遅れてしまった。
そうして固まっている。完璧に。彼は一向に出発しようとせず、彼女もうごこうとしない。ふと、なんだか見つめられていることに照れている。上目遣いに、彼を見やる。その、あまりに心を取り込もうとする笑顔に、彼女は少し頬が赤くなるのがわかった。
こつ
彼は近づいてくる。動けなかった。しかし、それは先ほどまでの恐怖ではなく、もっと積極的な気持ちで…
『トコロデ……あなた、お綺麗ですね」
途中で、ところで、の先から別の言語に変わった。さっきまでのあほキャラから、急に、映画スターのえんじるような、艶のある、もともとこっちが素なのじゃないかというような、そんな笑みを携えて…
ただほめられているのはわかり…
「はい、そこまで」
突然第三者が登場した。その邪魔に我に戻り、金髪の彼は声の主を探す。その声で我に返った彼女は声の主を探す。
そして彼はいた。
下駄にシルクハット。黒い半纏を背負い、背中にはなにやら物騒な凶器を背負っている。
第二の危機到来のような気がしてきた。
彼の格好は、先ほどからいるその男とは非で似なる匂いがする。
『何のようだい? 死神』
英語で、答えた。いきなり今までのあほキャラからその外見に当てはまりすぎるシリアスな、甘い声がその口から紡がれる。
『今、何をしていましたか?』
その黒い男も流暢な同一言語で応答する。
『何もしてはいないよ、ただ道を聞いていただけじゃないか』
『三時間もストーキングをして、あまつさえ催眠眼までかけようとして、ですか?』
『いい女を見つけると体が勝手に反応してしまうものさ』
『別に吸血鬼の性癖なんて知りませんよ。それより、この国のルールを忘れてもらっては困ります。あなた方貴族であろうと、我々死神公社の勢力圏においては』
『君も連れない人だなあ、わかってるよ。日本は国際吸血族連盟の狩猟禁止区画、わざわざ法を破ってまで血を頂くほど欲物的ではないつもりだよ』
『だからって夜に女の人追い掛け回す趣味は悪すぎるでしょう』
『君も文句が多いね、全く、いいじゃないか。人間の一人や二人からかったって。別にとって喰おうというわけじゃないのだから、人だってバードウォッチングくらいするだろう』
その発言にシルクハットの彼は嘆息する。べつに金髪の彼が特別人間に対して非友好というのではなく、彼らのような存在にとっては、それは社会通念とでも言うべき常識なのだ。
『とにかく、ホテルに戻ってください。チャールズ・ダルカヌン社長』
『おや、私のことを知っているのかい』
『今朝新聞に載っていましたから』
そこで彼は話の脇のやられた彼女のことを思い出す。
「あ、どうもすみません、この人が迷惑をおかけしませんでしたか?」
「いえ、そんなこと、ないですけど…」
「いきなり何が起きているのかわからないでしょうが、どうぞ忘れてください」
「えぇ?」
いきなりはしょられた。
彼女の目はなんだか疑惑に満ちていたが、早々に話を切り上げシルクハットの男は金髪の彼をつれて帰ろうとする。
『死神、我々を見られておきながら彼女を帰すのかい?』
『当たり前です。私達死神は、人を守るために違法者を狩るのですから』
すると、金髪の男はにぃと微笑み
『しかし、我々の記憶を消しておくことくらいは初歩じゃないのかい?』
そう言って、彼女の瞳の奥を覗きこんだ。
どこまでも遠く、どこまでも白い月の下。
或る仕事からの帰り道。彼女は我が家を目指し歩いている。
明日も早い。
なにしろ彼女は職業が通訳で七ヶ国語に精通し、明日の大手電気機器販売会社、嘉堂電気社長、嘉堂秋宗氏とアメリカの新鋭、ラッズ・カンパニー代表取締役、チャールズ・ダルカヌン社長の商談のに同席しようというのだから。
まだテレビで見たことしかないが、とても美しい男性のようであり、とても楽しみだ。
「早く、会ってみたいなあ」
彼女は少し胸を躍らせながら、家路を目指した。