零話
どこまでも遠く、どこまでも白い月の下。
彼女と向かい合った時、まず心臓の鼓動を聞いた。
「さて、私に何のようなのかな?死神さん」
彼女は自信たっぷりに言った。いや、それは自信どころか、確信とでもいうような、絶対的な眼力を秘めた目をして…。
見た目は二十代後半、痩せた外見を包む灰色に黒の縞の入った地味なスーツ。二百数十年の時を刻む肉体と精神。この世の全てにそぐわぬ雰囲気のみがそこにあり、窓際に立つその姿、妖しさは人外のそれである。左手は軽く腰に当てられそして、右手には……、メスが握られていた。
それは正しく命ある物体の体を切り刻み、救うための刃でありながら、ナイフよりも軽く、大鎌よりも鋭く、散弾銃よりも残酷に終わりを告げる凶器でもあった。
「妖怪画の若き巨星、陸奥六子、いえ、本名双葉宮咲貴、第準一級禁止薬、魔薬エリキシー不法所持及び乱用。死神公社の名の下逮捕する」
彼はその目に何の感情も見せないように、ただ事実と目的のみを告げる。
まだ年若い青年は闇にそのまま融けていってしまうような黒のみが在る喪服、そしてその背をさらに黒い半纏で包み、その左手に一振りの日本刀を下げ、右手には証明書を掲げる。
『日本国冥府 死神 葬査一課 遠谷希生警部補』
そう書かれていた。
それをしまい、彼女に近づく。
その場所はそう珍しい場所ではなかった。地方都市のど真ん中にそびえるひとつのマンション。その一室の事だった。
部屋の中に絵があった。人狼、鴉天狗、座敷童子、亡霊、鬼、……様々な絵が彼女に近づくたびに目に次々と飛び込んでくる。彼と彼女の間に道を作るように並ぶ様々な絵画。そこにある共通点は唯二つ。この世ならざる人外どもであることと、それらがみな共通して苦痛に満ちた表情をしている事にある。これらはすべて部屋の主の作である。まるで主を守る騎士たちのように、彼を威嚇するような表情を向ける。
妖怪画。
彼女が陸奥六子の名で世に出した作品はそう呼ばれる。
その悪趣味なアーチを抜け彼は彼女にたどり着く。
おそらくは生命活動を行う彼の心臓は。激しく脈打つ。
彼女は微動だにしない。空いている右手で、彼女の右手を掴む。妙にひんやりとしていた。
『遠谷君、よく手の冷たい人というのは代わりに心が温かく逆に心の冷たい人はあったかい手をしているなどと言うよね。僕はそういうくだらない話が好きでねえ』
あの人の言葉を、ふと思い出した。
掴みながら、彼の手は震えていた。
彼女はそんな彼を見ていた。むしろ、それは観察とでもいうような目でみて、そして、急に口を開く。
「なるほど、死神は死を齎かす存在、いかなる時も冷静さえも装うものなのだな」
「……何を言っている?」
拍動は高まり続ける。
「君こそ何をそんなに震えている?」
「震えてなど…ない」
彼女の口がいやらしく曲がる。新しいおもちゃを与えられた子供のように、望んだ結果を得られた研究者のように。素敵な獲物を見つけた犯罪者のように。
「心配なら心配と言いたまえ」
彼は、動けなかった、喋れなかった、視線を合わせられなかった、そして、知りたくなかった。
「知りたいのだろう? 君より先にこの部屋に来た彼のことが」
『君はここにいなさい。決して来てはならない』
「……先輩はどこだ」
「先輩? ああ、やはり彼は君の上司か。そういえば言っていたよ。私が帰らなければ優秀な私の部下が応援を呼びに逃げる。そうなれば貴様も終わりだ。…とね」
『もし私が戻らなければ応援を呼びに一度公社本部に戻りなさい』
「どこだ」
「彼は私が見てきた死神の中で最も変わっていたよ。シルクハットに下駄というアンバランスなファッションという基本は抑えていたし、あんな大きな処刑鎌を扱う死神も見たことはなかった。だからこそ、残念だよ」
「国軋警視は、どこだ、言ってくれ」
右手に力が入る。彼女の華奢な腕では何時折れるやも知れないほどの力で。
「彼は知りすぎたのだよ。あまりに多くをね。彼さえいなければ、私の正体も知られる事はなかっただろうし」
「警視はどこだと!聞いている!」
彼女はやめない。そして彼は、激昂する。
「彼もあんなむごたらしい終わり方をせずに………」
「警視はどこにいるのかと聞いているんだ!!」
『死神要綱、その三十二。死神は決して寡黙である事。言葉は敵との接点になり、弱点となる。過敏な反応、過剰な行動は自らを危険にさらすものなり。だそうだよ気をつけたまえ、そうだ、君も私のように自分のことは『私』と言ってはどうかな?どうも俺と言う響きは攻撃的な気がするよ』
あの人の言葉を、思い出す。
「そんなに攻撃的になるものじゃないよ」
彼の叫びにさえ、彼女はただ事実のみを告げる。まるで、ただ彼がどの程度で心を乱すのかを観察しているかのように。
「あなた、なんなんだ」
彼にとってその日はいつもと同じ夜のはずだった。いつものように人と人ならざるものを分かつ法に従い悪を狩る。それだけのはずだった。そして、彼はあの人とともに帰路についてわけのわからない薀蓄をいやいや、そしてほんの少し心を落ち着けて聞くだけだった。彼女だって、単なる違法な薬によって寿命を延ばしている人間なはずなのだ。あの、最高の死神、国軋悠楽くにぎしゆうらくがどうにかなってしまう理由がどこにある?なぜこうも動悸が激しくなる必要がある。なぜ、彼女の右手に握られるメスが赤く染まっている事実がある?
彼女は、彼の苦悩にきづいてか、気づかずか、おそらくは彼女ほどの人物ならあえて承知で……言い放つ。
「君は私のどこまで知っている?」
「は?」
「私がかの禁術によって二百以上の春と冬を越してきた事は?ただ『智』のみをもとめ生物としての法を破り続けてきた事は?そして人ならざるものを支配する君たち死神に興味を持っている事は?」
手が汗ばむ。
「君たちの仲間を捕らえ虐殺し、それのスケッチこそが私の作品だということは?その被害者の中にはもちろん死神も含まれていることは?君たちの基準で言えば即刻斬殺命令がでるほどの重犯罪者であることは?」
放す。そして構える。
「命あるものは生きるために他人から奪い、命なきものは己の無への帰還を畏れ人にしがみつき、そのどちらでもない私はただ己のために、己の頭脳にあらんかぎりの知識と経験を詰め込むために命をもてあそぶ事は?」
彼女はなぜこうも恐れないのか?しかし、彼にはもうどうでもよくなった。
「君の尊敬する国軋悠楽警視はすでに私によって魂ごと穢されていることは?」
『君はその冷え性の手に比べて随分と熱い心を持っているからね。怒りに任せて相手を殺そうとしかねない。そんなのは、死神っぽくないからね』
ただ、死神としての本懐を忘れる事にした。
「貴様ああああああああああ」
左手に握る凶器は、右手で抜き放たれた。
簡単だった。彼女の服の襟を掴み、床に叩きつける。そして、後は首筋に刃物をそえるだけである。
「嘘だと言え! 先輩がおまえなんかに殺されるはずがない!」
「やれやれ、君はとんだ駄作だな、解剖する気にもならないよ」
「先輩はどこだ!」
「………」
彼は気づかなかったが、その時一瞬、彼女は悲しいような、うらやましいような、そんな表情をした。
「何なのだろうね、その感情は。自分以外のものにたいする執着心なのだろうが、理屈を必要としない感覚というものは。……わからない。人外の極みたる君たちがなぜ揃いも揃ってそんな顔をするのだ。それでは、まるで人間のようではないか」
彼は薄ら寒さを感じた。
絞殺の最中にさえ考察し、刺殺されても思察するであろう、このどす黒い女の精神に。
「さて、君に私が止められるかね。尤ももし、出来ないのであれば君もまた他の死神同様、私の検体となるだけだがね」
「この状態で逃げ切る気か?」
「その国軋悠楽を殺したのは誰だと思うのかね?」
やはり、彼女はこともなげに事実を述べるだけである。
「…あんた、人間でしょう、なんでそんなことできるんだよ」
「君は死神の存在理由が妖怪から人間を守ることだと思っているのかな?おろかな。それほど人間は、弱くもないし、やさしくもないのだよ」
「じゃあ、なんで死神がいるんだよ!」
「私もそれが知りたい。だから、君たちを調べているのだからな」
もう、聞きたくなかった。
どこまでも遠く、どこまでも白い月の下。
そこは画家 陸奥六子の住むマンションの屋上だった。
一人の彼が立っていた。
喪服に身を包む彼の手には刀と、返り血に濡れたこれまた黒い半纏が抱えられていた。
「遠谷」
赤いライダースーツに黒い半纏。死神、紅月初女警部補は闇から融け出てきたかのように、誰にも悟られることなく彼の背後に現れた。
「あ、……初女」
彼女の目はその名のとうり、紅く染まっていた。いまやっと、泣き止んだような、それであった。
「言わなくちゃいけないことがある。病院に搬送された悠楽先輩が…」
「死んだんだろ、知ってる」
「な、」
「手遅れなのは発見した時からわかってたよ。最後を看取ったのは俺だ」
「…行ってやんなくていいの?」
「いい、それより署に連絡して欲しい。遠谷希生警部補は国軋悠楽警視の命令に背き突入。被疑者、双葉宮咲貴を悪意を以って殺害。処罰されたし」
「…長年の友人にそんなことやらせる?」
「頼む」
「……馬鹿」
屋上。強い風が体に叩きつく。
ただ、空を見上げ続ける彼の足元で、赤い彼女は足を宙に投げ出し、夜の街を見下ろしていた。
「すまん……俺は…悠楽先輩を……守れなかった・」
「……馬鹿、そんな言い方すんなよ」
「俺、なんで死神になったんだろう……」
「泣くなよ…馬鹿」
「なあ、俺、…いや、私は、あの大鎌を貰ってもいいと思いますか?」
「な、何、突然変な言葉遣いして………。あの、先輩の使ってたの?」
次の日、遠谷希生警部補は自ら願い出て降格。
交通課に転属となる。
三年前の今日のことであった。