100キロババア
どこまでも遠くどこまでも白い月の下。
風のない夜だった。
山あいの高速道路。一台の車が闇の中を駆け抜ける。
黒く血塗られた死者を導く車。それは俗称、霊柩車。
一人の彼が運転していた。黒い半纏にシルクハット。助手席にはおかしな大きさの大鎌が、後部座席まで占領しながらたてかけられている。
彼は目を細め、先に広がる夜を見つめる。そしてそこに誰かを見る。
誰かいた。
車は確かに動き、確かに計器は時速百二十キロを示す。しかし、その機械をして追いつけない速度で、それは走っていた。
車の中はまるで警察車両のと呼ぶにふさわしい装備が並び、その中の一つ、マイクのようなものを取り、彼は口に近づける。そして、目の前にいるはずの誰かに、発声する。
『そこの人、止まりなさい』
スピーカーから拡声された警句が確かに何者も通らぬ道路に透るが、しかし、闇中のそれは止まらない。
輪郭が駆け抜ける。
うまくライトが当たるよう車を傾ける。そして、その姿ははっきりと、見えた。それは赤いちゃんちゃんこをきて、彼は七十過ぎの顔をして、それは車のライトに照らされて、彼は明確な意思を持って逃走していた。
老人が、走っていた。
彼は手元に目をやる。計器は時速百四十キロを示す。ふと、通信を示す赤いランプの発光を見つける。
ボタンを押すとどこかに取り付けられた通信機から、声がした。
『状況確認』
「はい、こちら遠谷巡査」
『現在地は』
先輩死神は無駄を一切省く質問をした。
「現在高速道路○○方面にでます…というより何なんですかあの人、あのご老体にどうして追いつけないんですか」
彼はライトに背を照らされる老人をみながら尋ねる。
『彼はマッハじじいだ』
「…はい?」
『二年前検挙された妖怪、百キロばばあの連れ合いで妖怪の公道使用権利を奪い返す会とかの代表だ』
「げ、またそんな過激派の有名人がなんでこんな田舎に」
『なんでも四国に収監されている法規速度違反妖怪の釈放を要求しているらしい。それ が認められぬ限り高速道路での暴走をやめないそうだ』
「そんな滅茶苦茶な。まあ気持ちはわからんでもないですけど」
『遠谷。同情しても仕方ない。これが私達の仕事だ』
「わかってますよ」
その言葉とともにアクセルを強く踏み込む。
風のような速さで走る翁を追いかける死神の駆る霊柩車。シュールである。
が、追いつけない。逆にどんどん放される。あわてて無線機を取り上げ、
「ちょっ、先輩、そのマッハじじいって何キロで走れるんですか」
『そりゃあ、マッハじじいなのだから、マッハ一だろう』
「………無理です無理。交通忌動隊の管轄じゃないですかそんな速度、いち交通課のひら死神にどうこうできる相手じゃないでしょう」
『まあ、頑張れ』
「いや、応援は? 二年前に百キロばばあ捕まえた萩本巡査はどうされたのです? というか、こういう時こそ警視、あなたのの出番ではないのですか?」
『萩本巡査部長は育児休暇中だ。おかげで今指揮所につめてるのは私だけでな、動けんのだ』
「…萩本さん、お子さん産まれたんですね。っていうか、聞いてないですよ」
「死神の妊娠期間は3週間だからな」
「……。ご出産おめでとうございますとでも言っておいてください」
『了解』
嘆息する。
どこまでも遠く、どこまでも白い月の下。
名は死神、遠谷希生。
彼の追跡は終わらない。