8章
◇
事務所の扉は、防火扉風に作ってあって、一応一見さんがわからないようにカムフラージュしてある。
「失礼しますー」
声をかけて、その扉を、少しだけ重い気持ちとともに引いて開けた。
中では、それぞれのレジを閉めてきた従業員たちが入金をしたり、タイムカードを押している。
沙希が入ってきたところで、気にとめる者はいないのだが、後ろの二人の警察の姿がみなの視界に入ったようで、沙希を見る目まで変わった。
「どうしたん? あんたが犯人だったの?」
入金作業をしながら、綺麗な声で毒を吐いてるのは、食品レジで会話していた牧野だ。
そんな物騒な台詞に、二十四の瞳どころか、三十六くらいの瞳が沙希に向いた。
「んなわけないでしょー……」
脱力して反論すると、みなも、何だ冗談か。という雰囲気で今度は警察官を見る。
どうやら、そこにいる人の半分以上の者は、昼間に何があったのか知っているようだ。
警官たちは、そんな視線を一向に気にすることなく、沙希を促す。
沙希が、どこへ案内すればいいのだろうと視線をめぐらせると、店長が奥から歩いてきた。
「遅くまでどうもすみません。では、こちらへ……」
と店長が案内しているのは、更衣室の奥の会議室だ。
そちらなら、この時間利用する人はもういないし、むやみに通りすがる人もいない。
少し安心して歩きだすと、後方からまた声がした。
「犯人が連行されていきまーす」
エレベータガール風な揶揄に、どっと笑いが起きた。
沙希は、ちょっと振り返って、遠くからだが、今日子に裏拳をお見舞いしておいた。
4
人が刺されるという大きな事件だった割には、翌日の地元紙にも載ってなかった。
被害者が命に係わるほどの怪我ではなかったからだろうか。
沙希は昨日、指紋を採られたついでに、犯人のこともきいてみたのだが、逃げてしまったとのことで、現在追跡中で詳細不明としか教えてくれなかった。
ただ、逃げる時に遺留品があり、それを元にして何とかなるかも、と言われた。
遺留品は、ニット帽と靴らしい。
それをみたら、覚えのあるお客さんのかも知れないと食い下がったが、警察官たちは、
従業員さんたちにご協力願うような事態であれば、早めに情報提供を要請します。とだけで、それ以上の情報は教えてくれなかった。というか、そこまでの情報しかその時点ではなかったようだ。
◇
午後出勤の沙希が更衣室に行くと、ほぼ同じ時間帯で働く惣菜売り場のおばちゃんが、目を輝かせて、沙希に近づいてきた。
「ちょっと、あんた昨日指紋とられたんだって? 人が刺されたのと関係あるの?」
「え? 何で知ってるんですか……」
女性ってのはそこそこ情報通なものだが、どうしてこの時間帯のおばちゃんがそれを知ってるのか。
「いろんな人が話しとるよ」
「まじで……」
「あんた、犯人見たんか?」
「いいえ。その時間はレジにいましたし。私の自転車を犯人が触って倒したらしいんです。それで、指紋とられたんですよ。なんか変な誤解が廻ってるってことはないですよねぇ」
「誤解かどうかわからんけど、なんかあんたが関係あるってのは聞いたよ」
「はあ……そうですか。とりあえず、そういうことなので……」
「ほぉ。そうかね。でも犯人捕まってないんじゃろ。気をつけないかんねぇ」
「そうですね……。どんな感じの人なのか、あとで教えてくれるといいですけどね」
「そうだよねぇ。ほいじゃぁ」
「あ、お疲れ様ですー」
沙希はちょっと会釈も入れて見送った。
女性の更衣室ってのは、着替える手よりも口の動きの方が早いようだ。
自分もうわさ好きなので、批判はできない。
◇
「昨日事件があったなんて知らんかったわぁ。どうなったん?」
売り場についた途端に、川西さんの飛びつくような声。
「いや。私も詳しくはわからないんだけど。川西さんこそ、犯人のこと何か知らないですか?」
「いや、まったく。逃げたとしか知らんわ。刺されたのはどんな人なんかもわからんわ。新聞みたけど、載ってなかったしなぁ」
「そうなんですよ。新聞に載ってたら、店長さんにもいろいろ聞けそうなんですけどね。本当にたいした怪我じゃないってことなんでしょうかねぇ」
「さぁなぁ。あんたが犯人推理すると結構当たるから、ちょっと考えてみいな」
「え……。あぁ……」
万引き犯は、よくプロファイリングが当たるし、推理しなくても結構その場で捕まえてしまうけど。
でも、それは本を盗られた場合に限ってだ。今回のはどうだろう。
とりあえず聞いたのは、刺されたのが若い男性で、刺したのがおばさんだとか。
遺留品が、ニット帽子と靴だっけか。帽子みせてもらえば、常連かどうかわかるんだけど。ただし、このショッピングセンタの中でも、本屋に定期的に来てる常連じゃないとわからない。
自分はあんまり関係ないし、警察にコネもないから、そんなの見せてもらえないだろうしなぁ。
でも、犯人がまだうろついているなら、本当に危険だ。今度また違う人が狙われるかもしれない。
「うーん。ヒントが少なすぎて、私にはわからないわ。刺された人も、大したことないんならいいんでは?」
「いや、そうは言ってもな、自転車置き場やろ。私らみんなあそこに止めてるんやで。今度はあんたの帰る時間とか狙われたらどうするんよ。相手もはっきりわからないと警戒できんやろ」
「それはそうですけど、とりあえず私はいつも後ろ振り返りながら帰ってますから……」
「え? そんなことしてたん? さすが、モテる子は違うなぁ」
「あの、モテてたら、二十代のうちに結婚してると思いますよ……」
「いやいや。あんたは相手の範囲を限定しすぎやろ。妥協も必要やで」
「いえ……。本当に、えり好みするほど、モテてないですから……」
「現にストーカーにあってるのになぁ」
「いや、あれは何か変ですよ……」
「今日も来るんかいな……」
「来たら、事務所いきますんでよろしくおねがいします」
「そうやって事務所行ってる間に万引きされとったら、私の責任重大やん。あんまりここから離れんといてなー」
「はいー。わかりました……って、川西さんももう一人で捕まえられると思いますけどねぇ」
「いや、たとえわかってもなぁ、犯人がいるって判った途端に、心臓がどきどきして、そいで手も震えてきて、どうにもならんのよ。何か私が悪いことする前みたいになってしまうわ」
「悪いこと、したことあるんですか」
突っ込むところじゃないだろう、と制止する脳よりも口が早かった。
「あるかいな。ものの例えやん」
川西さんは、頬を膨らませて漫画のパックをかけている。
「ですよね。私も、初めて犯人を確認した時とか心臓どきどきしましたし、捕まえた後に身震いもしましたから」
「そうかー。吉村さんにもそういうのがあったんね。じゃぁ、慣れればなんもなくなるんやな」
「まあ、多分。でも慣れるほどに本を盗られたくないんですよね」
「あぁ、確かにな」
「それにしても、ほんま物騒なこと起こってもうたなぁ。また詳しくわかったら教えてな。吉村さんなら、よく警察の人と話してるから聞けるやろ」
「いや、あの。世間話とか一切ないですから。犯人の情報は余分にきいたりしてますけどね」
「そこや。そういう突っ込み精神で、今度の犯人も早いとこ捕まえてもらうように言うか、詳しいこと聞いてな」
「はあ……。警察の人に会うことがあればそうしてみます……」
自分は、そんなに警察と仲良しに見えるようだ。いいのか悪いのか、わからないが。