7つの夜の夏祭り
7つになるまではけして夏祭りに行ってはならない。朝子は両親からきつく言われて育ってきた。
……それは、朝子がまもなく7つになる頃の話である。
蒸し暑い夏だった。
朝子が住む村は山と山の間に挟まれて、深い谷のようになっている。
熱は山を滑って大地に溜まる。だからこの村は暑いのだ。と、朝子は幼いながらにそう思っていた。
このように暑い盆の直前、山の麓にある神社では毎年夏祭りが行われる。神輿が行き交い、屋台も出る。それは楽しい祭である。
蝉の煩い夕方。祭りまで、あと1時間もない。
家の中は妙に静かである。父も母も、どこかへ出かけたのだ。朝子は家を慎重に見渡したあと、そっと奥の部屋を叩いた。
「ねえねえ、お婆ちゃん」
今年100歳を迎える曾祖母は、最近夢の世界に浸っている。
西日の差す奥の部屋で、眠っているのか起きているのか分からない毎日を送っていた。
それを良い事に、朝子は、
「もう私7つだよ」
と嘘を吐いた。
いや、正確には嘘ではない。朝子は瞳をきょろきょろとさまよわせながら考える。
今夜12時を超えると、朝子は7つになるのである。
あとたった6時間で、朝子は6つの壁を突き破る。
(7つになったらお祭りに行っても良いって、いったもん)
たった6時間だ。もう7歳といっても、間違いでは無い。
これまで夏祭りのたびに朝子は泣いて過ごしたのだ。祭に行きたい。村の子供たちは皆、祭へ行くのに何故自分だけが行けないのか。
祭に行った子供達は深夜遅くまではしゃいで過ごす。その声を家の中に籠もって聞くのは、もう嫌だった。
たった6時間の差くらい、母も見逃してくれるに違い無い。
「そうかい。もう7つか。本当に7つかい」
曾祖母はよく見えない目をこすりこすり、朝子の顔を覗き込む。しかし100歳の彼女には理解できるはずもなく。
「7つだよ」
「じゃあ夏祭りにいっておいで」
そうして彼女は使い古された財布から500円玉を取り出して、朝子の手に握らせる。
「浴衣も着せてあげようねえ」
古びた掌からは想像も出来ないしっかりとした動きで、彼女は朝子に浴衣を纏わせた。
それは真っ白な夕顔が描かれた浴衣。大人びたそれを纏い、朝子は嬉しさににやける。
しかし帯を結ぶきゅっという音が、朝子の罪悪感をほんの少しだけ刺激した。
夏祭りがどこで行われるのか、朝子はよく知っている。山の麓の古い神社である。
家を飛び出し田んぼのあぜ道を走り、夕陽に向かって行けばいいのである。
子供達はすでに浴衣を着て山の麓へ急いでいた。小さな朝子は子供達に巻き込まれないよう慎重に走る。やがて遠くから、
しゃんしゃん
鈴の音が聞こえるのである。
息を詰めて走ってきた朝子は、ようやく息を吐いて顔を上げた。
夕陽は既に落ちて、周囲は闇である。しかし目の前だけ、滲むように明るい。いくつもの屋台が、山の麓に向かって並んでいるのだった。
綿アメにリンゴ飴、熱を放って匂いをたてる焼きそば、カステイラ。
朝子は人々の間を縫うように歩く。
金魚釣りに飴細工、輝くような砂糖菓子。
噂には聞いていた。祭の風景である。このような楽しいことを禁止した母親を恨みもしたし、同時に今回の計画の首尾に朝子は忍び笑った。
しかし、笑えたのはこの瞬間までだ。
歩くうちに、朝子はふと不安に駆られた。
気がつけば、周囲を行く大人も子供も皆、狐の面を付けている。朝子の顔はだんだん青くなった。
祭には祭の掟があるのだ。生まれて初めて夏祭を体験する朝子は、その掟を知らない。
走る子供も、美しい浴衣を着た女も、その腕に抱かれた赤子も、飴細工を作る老人も、皆が皆狐の面を被っている。
朝子はできるだけ顔を見られないように、俯いて歩く。
しかし、そんな朝子の姿を見たのだろう。やがて一人の少年が朝子を指してゲラゲラと笑った。
「やあい、顔を出してやがるぞ!」
「……こっちよ!」
その場の皆が朝子に注目する。その前に、茂みから誰かが叫んだ。
思わずその声の主のあとを追えば、茂みから細い手が突きだして朝子の腕を掴んだ。
夏の鋭い葉が朝子の腕を、顔を薄く切る。しかしその痛みよりも、少年の笑う声がなお恐ろしい。
「走って!」
声の主は叫び、朝子は腕を掴まれたまま必死に駈ける。やがて、大きな木の下で動きが止まった。
息が弾む。それは、助けてくれた子も同じこと。見れば、目の前にいるのは狐の面をかぶった少女である。
彼女が纏うのは、鮮やかな紺の朝顔が描かれた絞りの浴衣。朝子と背丈が良く似ている。同じ年くらいだろう。
さて、このような子が近所に居ただろうか。と朝子は首を傾げる。
少女は夕子の姿を下から上まで見つめたあと、同じように首を傾げた。
「迷子なの? お面も付けずにウロウロするなんて」
少女の言葉は快活で、大人びて聞こえる。
「……」
「危ないなあ。このお祭りはお面がないと駄目なんだよ。ほら、これをあげるから」
彼女は腰につるしてあった狐の面を差し出した。恐る恐る顔に付ければ、熱が顔に籠もる。
面から見る世界は、ほんの少し暗い。
少女は朝子の手をきゅっと握った。
「私は夕子」
「……私は朝子」
朝子ちゃん、と夕子は弾けるような声で言う。そして一緒に遊ぼうよ。と、彼女は言った。
面を付けていれば、誰も朝子のことを笑わない。注目することもない。
朝子と夕子は右手と左手をしっかり握って屋台の間を走る。
夜も深いと言うのに、屋台の周りだけは妙に明るかった。提灯の光が風に揺れて、闇に鮮やかな色が滲んでいるようである。
「夕子ちゃん、鈴の音が聞こえるよ」
朝子は足を止めて夕子の手を引っ張った。彼女の手は冷たく、柔らかい。
誰かと手を握り合って走るなど、生まれて初めてのことだった。朝子に兄弟はなく、どちらかといえば人見知りである。誰かに話しかけるのも恐いほどである。
しかし不思議と夕子の手は握ることができるのだ。
「あれはねえ、神社から響くのよ」
夕子は訳知り顔で言った。
しゃんしゃんと響く鈴の音は、屋台の一番奥から響いているらしい。
「そろそろ御神輿がでるよ、見に行こう」
わあ、と人々の声が上がった。
光の中、あちらこちらと歩いていた人々がさっと道を譲る。その真ん中を、しゃんしゃん音をたてて大きな神輿が進む。
神輿の上には狐の面を付けた小さな子供が座っていた。その子供は鈴の音に合わせ、手にした鐘を涼やかに鳴らすのだ。
こんちきこんちき、しゃんしゃんしゃん。不思議な音色は闇に溶ける。
狐の面を付けた大人も子供もそれを背伸びして見つめるのだ。
神輿は屋台の間をゆっくり進み、やがて朝子たちの前に付く。
「……」
神輿に座る子供がちらりと、朝子を見た。
「近づいちゃ駄目だよ」
夕子が囁いて一歩、朝子の前に立つ。白く冷たい手が、朝子を守るように立つ。
異様な空気に、朝子は慌てて夕子の浴衣を握った。
しゃん、しゃん、しゃん。
しかし、神輿が朝子を見たのは一瞬のことである。
神輿の上の子供は、何事か考えるように首を傾げ、やがてまた鐘を鳴らし始めたのだ。
同時に鈴も鳴り、神輿は何事も無かったように進み始める。
狐の面を付けた客たちも、やがて楽しげに神輿を追い始めた。
神輿が去ると、途端に風景は寂しいものになった。
屋台はすでに店じまい。あれほどいた人もどこへ消えたか分からない。
やがて夕子はその場で小さく手をふった。
「じゃあね、朝子ちゃん、お祭りは終わり。もう帰ろう」
「御神輿追いかけよ」
「だあめ。もう遅いんだよ。もう朝子ちゃんは帰るんだよ」
夕子はくすくすと笑う。彼女は笑って朝子の背をぐいと押した。それは暗い道である。
背を押す掌はやはり、冷たい。
朝子は途端、不安になった。
「やだよ、こわいよ。じゃあ御神輿はもういいから、夕子ちゃんも一緒にかえろ」
祭に向かうときは必死だった。必死だからこそ、周囲の薄暗さに気付いてもいなかった。
しかし今、気がつけば辺りはただただ暗い。振り返れば、巨木が闇に沈んでいる。鎮守の森だ。神社を守る、森の木だ。
「やだ……やだよ」
草履が砂利を踏んで、嫌な音をたてる。
背後の森から強い風が吹き付ける。
神社のある森は、暗く、風の音だけがする。
「駄目」
夕子はまた言った。
そして先ほどより強く、朝子の背を押し出した。
「駄目だよ。私は神様の子で、朝子ちゃんは人間の子になったんだよ」
「え、なあに?」
「お誕生日、おめでとう」
途端、足元が崩れるような不思議な感覚が朝子を襲う。
空中を落下するような不安感。慌てて振り返ると、狐の面を外した夕子が立っていた。
「さようなら、お姉ちゃん」
そこに居たのは、朝子と鏡写しのようにそっくりな少女の姿である。
朝子が目覚めたのは、布団の上だった。
目を開ければ、枕元には母が居て、父が居て、祖母も曾祖母も皆が揃っていた。
祖母も曾祖母も手には数珠。母は震え、普段勝ち気な父さえ目に涙を浮かべているのである。
「神社の前で倒れていたのよ」
母は泣いて朝子を抱きしめた。
「こんなお面を付けて」
母の持つお面は半分に割れていた。朝子はそれを手に持つ。
その体を母が乱雑にゆすった。
「お祭りにいったの? いっちゃだめだって、いったでしょう。7つになるまではいっちゃだめって」
「おいやめろ」
父が止めると、母は布団の上に泣き崩れる。涙の滴が朝子の腕にいくつも流れた。
「ねえお母さん」
朝子は震える手でお面を抱きしめる。
祭の最中響いていた、鈴の音が今も聞こえるようだ。
「……朝顔の浴衣ってお家にある?」
しゃんしゃんしゃんと鳴り響く、鈴の音の向こうに夕子の姿が見えた。
夢うつつに見た夕子は、楽しげに手を振っている。
かつて朝子に妹があったことを聞いたのは、そのあとのこと。
朝子の双子として生まれたその子は、1歳を迎える頃に死んでしまった。それは夏祭りの夜のことである。
子供は7歳までは神の子である。7つを超えた時初めて人の子となる。
妹は神の子になったのだ。双子の魂は引かれやすい。朝子まで神に取られてなるものかと、両親は朝子に祭を禁じたのである。
「あの子も生きていればあなたと同い年だったのにねえ」
しんみりと言いながら、母が出したのは一枚の浴衣。
それには、美しい紺の朝顔が描かれていた。