虹彩の娘 3
時間は僅かにさかのぼる。
狩人達は粛々と雪中を行進していた。総勢十人、雪象に荷物を括りつけその巨体を風除けにしながら歩いている。ここ二日は太陽の姿を彼らは拝んでいない。この地方に、晴れ間などないのだ。
「ちくしょう、ガセじゃねえのか」
寒さと雪に耐えかねた男がダミ声で叫んだ。放った声も、こぼれた呼気も、一瞬で氷風に流され消え果る。体力を無駄に使うその行為に後ろにいた男たちが渋面になった。とはいえ、分厚い装備に覆われているせいで表情は誰にも見えなかっただろう。
確かに精神力の方が限界に近い。誰しも感じていることだ。白ばかりが続く景色に、先の見えないことへの恐怖を抱えていた。彼らはそれぞれ経験を積んだ狩人である。自分の体力がどこまで持つかは把握しているからこそ、この先がわからない状態が恐ろしい。行きがよくとも、帰りのことを考えれば無茶はできない。狩というものは、生きて帰れればこそ、である。
情報では、ここまでの吹雪ではないはずなのだ。
「ガセじゃねぇよ、研究員筋からのリークだ!」
先程叫んだ男の前にいた人物が、ほがらかな声で叫んだ。
「絶対これは儲けになる! 帰りたきゃベーグ、てめえ一人で帰ればいいさ。お帰りはあちらだ!」
轟々と唸りを上げる吹雪の中において通るその声に、ベーグはむっつりと押し黙った。そのようすに、男は哄笑した。男の目は見えない。厚い眼鏡で覆われている。
帰りたくとも、既に帰り道さえもわからないのだ。
唯一この雪の中でも方向を見失っていないのは、先程帰れといった男のみである。他のものは、ここではぐれると命がない。
なぜその男がここまで発言権を持っているのか。それはひとえに男の能力にある。
「なあ、嵐は本当に抜けるのか」
他の声が男に問いかけた。
「ああ」
男は手に持った透明なビンを振る。雪中を行進するのに不似合いなそれ。ビンの中は、空洞にしか見えない。にも拘らず、蓋は一部の隙なく閉められ、呪語が刻んだ封紙が口を覆い、さらにその上から封じのロウを垂らしている念の入れようだ。だが、狩人たちは分かっていた。あのビンが、彼らにとっての命綱であるということを。
「さぁ。どっちに行ったらいいかい? お前なら、全部分かっているだろう?」
男の声は粘つく砂糖水のようであった。狩人の中で数人がグラスと呼ばれる眼鏡を装着している。グラスを装着すると、あるものが見えるようになるのだ。
ビンの中には精霊種がいた。緑の丸い光として、ふわふわと親指程度の大きさで漂っている。
普通の人間では目視できないそれは確かにビンの中にいる。男は精霊種を閉じ込めていた。ビンを精霊の居場所として持ち運んでいるのだ。
精霊種は土地に憑くものである。
しかし、それをはがすことが出来る者たちがいる。
それが精霊使いと呼ばれるものたちである。ただ、彼らは大きく二種類分けられる。
一つは精霊の友といわれるもの。
精霊種に媚を売り、気に入られることで力を貸してもらうものたち。精霊の同意を得て、彼らは行動を共にする。ただし、もう一つの側からは精霊の奴隷と貶められる。
もう一つは精霊商人といわれるもの。
精霊を捕縛し、使役させる。もしくはその労働力を売却することにより利益を得ているもの。労使の協定を結んでいるものもあれば、強制労働の場合もある。おおよそは精霊の同意を得る使役ではない。そしてもう一つの側からは奴隷商人と呼ばれてさげずまれる。
男の声に反応し、ビンの中の精霊種が一定の方向を指し示した。男はにんまりと笑う。精霊は嘘をつけない。
「そうかそうか、御褒美を上げよう」
ビンの口に手を当て、僅かに魔力を流し込む。久しぶりの食事に、精霊種は震えた。本来は精霊種は適した土地に存在するだけで、力の補給は出来る。しかし、このような密閉された場所で何も与えられなければ、静かな消滅が待っているのだ。
男は後述の精霊商人である。精霊種を捕縛し使役していた。精霊種には縦の繋がりしかなく、横の連帯は薄い。一個体捕縛したとしても、それを助けに来るものはない。さらに言えば、人間社会においての精霊種の地位は低い。ひとの姿形をしていたとしても、いや、だからこそ根本的に違う精霊と人が相容れる事はない。だからこそ、公にはできないながらも精霊を商品として扱うことが出来るのだ。
「あとどれぐらいか、それに聞いてくれよ」
先程からわめいているベーグが騒ぐ。
「残念! こいつは会話できねえ。遠くはないらしいからてめえがくたばらないうちに着けばいいな」
男はビンを丁寧にしまいこみながら言う。男の名前を一行の誰も知らない。精霊使いは精霊から身を守るために厳重に名を秘す傾向がある。
その言葉に落胆を示したのはベーグだけではない。
「大きな狩には、苦労がつきものだろうさ。そのほうが喜びもでかいってもんだ」
男が含み笑いをする。陰湿な響きだ。
狩人たちは一つの目的のために集められた。イリスの狩である。生きて捕縛できればよい。出来なくとも、そのバラバラにした破片を集めることが出来ればいい。そう依頼を受け、それぞれに集められたものたちだった。統率はない。普段からここで活動する者たちである。厄介な精霊種をしとめるほか、精霊商人の依頼で捕縛に関わる場合もある。どちらにせよ、闇に属する職業とも言えるだろう。
「さあて、どんな精霊種なんだか」
男がにやけながら言ったその時。
全ての音が消えた。
狩人たちは反射的にそれぞれの武器を抜き放ち、円陣となり警戒する。
吹雪の唐突な消失。
それと同時に、舞い上がっていた雪がはらはらと涙のように地上に落ちてくる。
空はまだ白く濁っている。
まるで、嵐のような風などなかったかのような、唐突な静寂。
「ねえ」
鈴を転がすような声が、男達に降りそそぐ。
一斉にその方向に武器が剣呑な光を放ちながら向けられる。
グラスを所持していないものは、音の源の方へ、グラスをかけたままのものは、正確にその方向へ狙いを定める。
「有限種、何をしているの?」
グラス越しに見えたのは、少女だった。
ただし尋常の容貌ではない。滝のように流れる白銀の髪、雪花石膏より透明感のある肌、僅かに色をつけた虹彩とその大きな眸を覆う長い睫毛。完璧なバランスで配置された小作りの花。惜しむらくは唇に笑みがないことか。あどけない危うさをやどした美貌である。彼女は一枚の白いワンピースのみを纏っていた。袖はなく、飾りもない。なめらかな布地を胸の双丘が押し出している。すらりと伸びた手足は幼さをのこすものの、十分鑑賞に堪えうる。その姿を見た男達は別の意味で生唾を飲み込んだ。もともとこのような土地である上、団体行動ばかりである。いくらモノがモノであるといえ、極上の女が目の前にぶら下がっていたら一瞬理性が揺らいでしまうのも仕方がない。
雪の中、平然と立つ少女は、精霊種以外ありえない。
だが、あまりにも人の形に近い。
これは儲けになる。
精霊商人の男が舌なめずりをしながら、腰の空き瓶を探る。へらりと緊張感をうかがわせない交渉用の笑顔を貼り付けた。
「こんにちは、初めてだな」
高まり行く緊張感の中、男だけが悠然と動いた。一歩円陣から足を踏み出し、精霊種に近づく。
グラス越しに見える精霊種は攻撃色を示していない。男はこの中では、最も精霊種に精通していた。そのための余裕である。
「珍しい嬢ちゃんだな、人間の言葉を知っているのかい?」
「それは答えではない」
「ああ悪かった、謝る。ここには調べ物に来たんだ」
男の言葉が適切だったのかは分からない。少女はふうん、とつまらなさそうな声を上げた。
少女の形をした精霊種は、舞うように一回転くるりとその場で踊る。白皙の素足が雪の上に跡を残すことはない。雪色のワンピースが風をはらんでふわりと舞い踊る。その様子が見えた者たち、そして、そのワンピースの裾が翻ったということの意味に気付いたもの達に緊張が走る。ゴクリと喉を鳴らす。
本来、精霊種は空気の抵抗など受けない。彼らの姿は全て彼ら自信が形作っている。よって、人間の衣服のように、服の裾が翻っているとしたら、それは精霊種がすべてそのように振舞っているのだ。
「ここは嬢ちゃんの土地かい?」
この土地の主の精霊だとすれば、交渉次第ではこの旅の成否にも関わるだろう。それほど、土地の主の影響は強い。
「それは、私の場を聞いている?」
男達に興味がなさそうに振舞っていた精霊が、ふいに視線を合わせた。
「ああ、そうだ」
「ふうん」
答えにならない答えを返しながら、少女は男へ問いかける。
「それはなに?」
繊手がまっすぐに一点を指差した。男の懐である。その内側には先程まで握り締めていたビンが収納されていた。男の懐の内で、中の精霊種が弱弱しく明滅する。その色は緑。色の指し示す属性と、少女の纏う色に共通点はない。眷属ではない限り、精霊種は同種属に対して驚くほど冷淡である。その事実があるからこそ、男は深くは考えずに言い放った。
精霊種との会話では、口にしてはいけないことを。
「これ? これは俺の友達だよ」
男の返答に、少女は笑った。それはそれは楽しそうに。薄い唇がゆるく弧を描き、はんなりと眸が細められる。
「嘘ついた」
グラスをしていないものは幸いだっただろう。その笑みを見ずにすんだのだから。
グラスをしていたものは幸いだっただろう。その笑みは、あらゆる者を凍らせるほど美しいものだったから。
狩人たちが少女の異変に気付いたのは、全てが終わる一呼吸前だった。
魔法銃の弾丸より早く、弓弦が鳴るより前、精霊種の攻撃色が雪原に波紋のように奔る。
遅れて、男達の絶叫が響き渡った。
少女がビンを岩に叩きつけた。鈍い音を立ててビンが砕け散る。
中から零れ落ちた緑の光は、弱弱しく今にも消えそうだった。
少女が伸ばした手の先に、恭しく口付けるように一瞬だけ光が触れる。それだけで光は白く染まり、輝きを増した。
少女は人形のような表情で見詰める。しばらく会話するように光が明滅した後、消える。消滅ではなく、あるべき場所を探しに出て行ったのだろう。
雪象に少女は目を合わせる。人間より動物の方がまだ精霊種にとっては意思の疎通がたやすい。雪象はその意思を汲み取り、ゆっくりと今までの道を戻り始めた。重い足音が遠ざかって行く。やがてそれすらも消え果て、静寂が舞い戻る。
少女はしばらく空を眺めていたが、
「つまらない」
と有限種の言葉で零し、二、三歩行ったところで空中に消え去った。
彼女が背を向けた場所には大きな氷柱が聳え立っていた。
その中には、断末魔の絶叫を上げる男達が、苦悶そのままに閉じ込められている。幸いなのは、彼らの命が尽きており苦しみはそれ以上受けることがない。
吹雪のせいで彼らは気付いていなかった。
周囲には同じような氷の壁が林立しており、その中には同じように氷付けの人間が有限を終えていた。
遺体ばかりが眠る氷原に、もう何も動くものはない。