虹彩の娘 1
その『ひと』が生きるのは、白い雪が降り続く間だけ。
「いつ、手指が落ちるか恐ろしくなりますね」
凍傷が恐ろしい。
正直な心境を述べたニイに、老婆は声を出さずに笑った。笑顔になると、顔がクシャリとなる。皺に埋もれた眸は、年齢に沿った英知の光を宿している。
「慣れない方は、とくに保護魔術の残存時間に気をつけなされ」
老婆の忠告に、ニイは神妙に頷いた。地元民の意見には従ったほうがいい。それは今までの旅の中において実感している。
ここは大陸地図の北に位置する常冬の国、プルイーナである。
自然環境は厳しい、としか言いようが無い。
常に雪と白い氷で覆われた大地は、人も動物も拒否をする。
そこに生きる人々は、先の大戦で逃げ延びた一族だとか、はたまた迫害され流れ着いた流浪の一族であるとか、推測だけを述べれば枚挙の暇が無い。結局のところ、真実は果ての無い白い闇に消え、人々の記憶にも残ることが無い。
ニイは与えられたカップを両手に持ち、背中を丸めて暖を取る。くゆる香茶の匂いに気分が落ち着いてきた。チチと呼ばれる薬草を煎じた茶である。これはこの地方で貴重なビタミン源だ。独特の鼻に抜ける香気は好みが分かれるが、ニイは生来味にこだわりをもたない男である。飲めればいい、と考えている。
木すら貴重なこの地において、燃料は家畜である雪羊とよばれる動物の糞のみだ。氷はあるものの、水を得ることが難しい。食料自体が貴重品となるのだ。一片たりとも無駄に出来ない。
家は氷をくりぬいて作られているが、気密は高く、断熱効果も十分なようだ。しかし、不慣れなニイには、毛皮を敷き詰めている床からも冷気が上がるように思う。
カップから手指にじわりとぬくもりが移る。まるで氷が溶かされるように、指の自由が僅かに戻ったように感じる。しかし、これも束の間だ。ニイはカップに口をつけた。急がねばこれもすぐに冷えてしまうだろう。
ニイの宿を提供してくれた老婆は、どうしてここで生活を続けるのかという質問に、簡単に答えた。
愛する土地だから、と。離れる気は無いと笑った。
ニイは学者である。精霊種の研究が彼の仕事であった。
この北限には、大陸中央部に生息しない古代生物がほそぼそと生き延びている。それを観察しに来たのだ。一応、表向きの理由はそう記されている。
本来は、亜熱帯に行く心積もりで準備をしていたのだ。ニイのあずかり知らぬところでそれは白紙に戻され、知らぬ間に北限への派遣が決定していた。
考えるだけで、気が重い。胸中から吐き出した息は、白く濁り空気へ溶ける。
元々は違法物を扱う商家から、イリスの羽が見つかったとの知らせが発端だった。イリスはすでに二百年前に絶滅が確認された精霊種であり、たおやかな乙女を模していたとも言われている。それらを描いた絵画は残っているものの、生体の情報はほぼ残っていない。イリスは魔術師の間では効果の高い道具の材料として取引されていた。人間が根絶したといえよう。
しかし、発見されたのは採取されて十年も経過していない羽だった。残存魔力の鑑定からその結果がはじき出されたのだ。
イリスが、まだ実在しているかもしれない。 その後の調査でその羽の出所は北限だろうと推測がついた……そうだ。そのあたりはニイは伝聞でしか知らない。
人間の傲慢により狩りつくされたイリスが、まだ生き延びているならば、是非保護しなくてはならない。すぐさま調査を派遣する段取りが決められたのだ。本人の意向は無視した形で。
そんな上層部の思惑により遊戯板の駒よりも軽い扱いで、ニイは北限に飛ばされることなった。古代生物の調査と言う名目はいつも後からかけられる看板のようなものだ。
上司に呼び出され命令書を受け取り、便利屋か何かと誤解されているのかもしれないと漠然と考えた。こういった辺境調査が命じられる背景には彼の体質が大きく影響していることであるが、本人からすればそのようなことは知ったことではない。唐突な辞令は勘弁してくれと喚きたくなる。今回は特に論文の仕上げをしようと考えていた矢先であった。記述しようと紙とインクを持ちこんでいたが、想像以上にプルイーナの環境は厳しく、インクはあっという間に凍ってしまった。頭の中だけで文章をこねながら、考えるのが精一杯である。
「明日は出かけなさるのかね?」
老婆の問いに、ニイは、
「いや、嵐を待つ」
と答えた。老婆は怪訝な顔を崩さなかった。ただ、一言、
「そんな中に出て行けば、死ぬぞ」
とだけ忠告をする。随分親切だとニイは感嘆する。
「一応、仕事だから手を打っています。大丈夫だ」
そう返しても、老婆の曇り顔は晴れなかった。彼とてそのような場所に好んで出かけたくは無い。ただ、生活と研究費がかかっている上に、自分の探究心も抑えられないのだ。ここまで来たら、研究のためだと開き直るしかない。
この話題はこれまで、とニイは立ち上がる。
「もう夜じゃぞ」
北限は大体夜である。夏でも昼の時間は極めて短いのだ。ましてや今は春である。
老婆の言いようにニイは苦笑する。自殺志願者と思われたか。
「この時間であれば、極光が見れるでしょう」
その答えには老婆も得心がいったようだった。さほど怪訝な顔をせず送り出してくれた。
外は相変わらず吐息まで凍る。
空には揺らめく光の帯が美しく夜空を演出していた。極光、北限に現れる美しい光の帯は、今日も空を壮大に彩っていた。それを観察し、ニイは顎を撫でる。考え事をするときに出る癖だと自覚をしている。顎を撫でれば、ザラリと砂を指で引っかいたような感触を覚えた。髭が随分伸びてきたようだ。伸ばした方が暖が取れるかと真剣に考えてしまう。
ニイは元々体毛が濃い方ではない。既にこの地に足を踏み入れて一週間経過する。風呂に入れない代わりに、においも押さえられている。ただ、温暖な気候で暮らしていたニイにはここの気候は厳しすぎる。
さくさくと粉のような雪を踏みながら、しばらく散歩をする。空気は恐ろしく澄み切っており、普段空中に漂うはずの精霊種さえも見受けられない。このような静寂をニイは気に入った。北限の環境は厳しいものであるが、彼にとっては素晴らしい土地にも感じてしまう。ただ、永住する気は全く起こらないが。
音すら凍りそうな静寂の中、
「ねえ」
可愛らしい少女の声が滑り込む。
ニイは思わず飛びのき、腰の武器へ手をかけた。ただし、抜くべきかどうかはまだ判断できない。
ニイは背中に氷の塊をねじ込まれたように感じた。全く気配も感じなかったのだ。
振り返った先にいたのは、少女だった。
淡い闇の中に、彼女は白く輝くように見えた。
ここが、故郷であればそのいでたちに全く疑問をいだかなかっただろう。しかし、ここは北限だった。
彼女は白いワンピースだけを身にまとい素足で雪の上に立ち、微笑んでいた。
頭髪は周囲の氷のように透き通り、白い肌に纏わりついている。くるぶしまで覆い尽くすそれは美しい。
人ではない。
「ねえ、なにをしに来たの、有限種?」
彼女は小首を傾げてニイに問いかける。敵対反応は出ていない。言語による交渉も可能か。ただし、精霊種によりこちらの嘘を見抜くものもいる。精霊種との交渉にはとにかく経験が必要なのだ。
外見から読み取れるのは、おそらくこの地に属する精霊種であるということだけ。現地人からこの存在に関する警告は無かった。とすれば、突発的に現れたものか? ニイが探しに来たイリスとは違う種族だということはわかる。イリスとは、色が違う。
ニイは、一言だけ返す。
「虹を見にきた」
嘘ではない。イリスは虹に関する精霊種である。その輝く羽はつねに虹を宿し、あらゆる属性に通じるという。探せといわれているわりに、ニイのような下っ端には本物のイリスの羽を見せてはくれなかった。
少女は、ふうんと気の無い返事をして、雪の上を跳ぶ。足跡は残っていない。実体ではないのか、とニイはその体重移動を観察した。かなり上手に人間に模している。
「有限種、私と遊ばない?」
彼女……というべきなのだろうか。精霊種は厳密には雌雄を持たない。下手な答えを返せず、ニイは硬直する。精霊の戯れで命を落とす人間は数え切れない。言質を取られれば命どころか魂まで絡めとられるのだ。
「……断ったら?」
緊張にひりつく喉でそう返せば、少女は愕然とした様子でニイを見た。そして、後一歩の距離まで近づいてくる。ニイの武器を握る手にも自然と力がこもった。
「……ヤ?」
少女は泣きそうな顔でワンピースを握り締め、こちらを見上げている。こうしてみると、かなり整った顔立ちの精霊種だった。大きな目の周りには、長い睫毛が淡い影を落としている。小さな唇は精霊種ゆえか、色は無い。頬はわずかにまろやかな曲線を描いている。
「三日」
そう言い放ち、少女はきゅっと唇を噛締めた。その言葉の真意が読み取れず、ニイは怪訝に少女を見るしか出来ない。
「三日、私と遊んで。遊んでくれるだけでいい。有限を縮めることはしない」
有限を縮めるとは、精霊種独特の言い回しである。つまり、命の補償はする、ということらしい。
「具体的に、なにを」
「私に、お話してほしい。外の土地の話を」
珍しい内容に、ニイは熟考した。そもそも精霊種であれば、イリスの情報を持っているかもしれない。ただ、精霊種との取引や約束は対等でなければならない。イリスの情報を欲張り、自らの身の安全を確保出来なければお笑い草にしかならない。
「条件がある」
少女はじっとこちらを見詰めてくる。
「有限のみではなく、身体の安全も確保したい」
「わかった」
「それと、一つだけ聞きたいことがある。それが何であろうとも答えてくれ」
「私の名前以外でもいい?」
「ああ」
精霊種にとっては名前は命と等価である。その条件に彼女はほっとしたようだ。……つくづく、人間っぽいな。ニイはそれに警戒を深めながら、彼女の次の言葉を待った。
「じゃあ、じゃあ、おしえて! 海の底にはキラキラした魚の精霊種がいるってホント?」
子供のように目を輝かせて質問をする少女に、ニイは嘆息した。つくづく調子を狂わされる。
「ここ! ここ座って! 有限種は疲れやすいって聞いた」
岩の上に座らされ、その前に少女はぺたりと座り込む。岩の上は不思議と暖かい。冷気をいくばくか遮断しているようだ。目の前の精霊種がなにかをしたのだろう。ますますもって不審だ。だが、口頭での簡易契約とはいえ、対価は必要だった。ニイは諦めて話を始める。ただ、武器に手をかけたままではあるが。
精霊種の質問は、大抵他愛も無いものばかりであった。海底の魚の話に満足したと思えば、あたたかいということはどういうことかと来た。
ニイは困惑しながらもそれを表に出さずに話を続ける。もっとも、分厚いフードと幾重にも巻かれた襟巻きのせいで顔などほとんど見えないのだが。
「……あたたかいというのは、そうだな、有限種にとっては生命の危険が無い程度の快温だ」
聞いているのか聞いていないのか、すぐに全く違った問いが来る。
「じゃあ、毛むくじゃらの精霊種っている?」
精霊種に精霊種を語る事態が来るとは、さすがに想像したことが無かった。
人類だけとってみても文化によって生活が違う。土地が違えば常識が違う、そういったものと似ているのかもしれない。自分の専攻分野について語るのはまさに学者の本領発揮であるが、それよりも目の前の精霊種の正体も探らなければならない。少なくとも冷気、雪、空、風、水のあたりが順当か。話しながら観察する。視認できる色は白、もしくは銀、透明。精霊種は特質を隠すことが出来ない。おおよそ見た目どおりだと思ったほうがよい。
彼女に該当する種はすぐには出てこない。とすれば、亜種か変異種の可能性も考えられる。さすがに希少種はニイの頭の中に入っているので除外する。
そもそも精霊種が完全な人型をとっていること自体が珍しいのだ。
キラキラした眼差しでこちらを見上げる少女の姿をした精霊種をみながら、胸中で深い溜息をついた。
厄介なことになった。
精霊種と有限種は、そもそもの生命自体の発生が違うものだ――今の学会ではこれが通説となっている。ニイもそれに異論は無い。むしろ、全く違う世界の生き物だと言われたほうが納得するだろう。ある日、二つの世界がぶつかって一つになったとでも言ったほうが、一番納得がいくそうだ。それほど二つの種における差異は大きい。
精霊種とは、空間に束縛された種である。おおよそは土地に憑き、もしくは何らかの属性に依存する。寿命は無い。時の縛りを受けないのだ。
逆に有限種とは、時間に束縛された種である。寿命があり、大体は生殖により数を増やす。精霊種のような属性は無く、空間には束縛されない。
双方が雑じることは、まず無い。せいぜい、契約行為をはさむ間柄ぐらいだ。だからこそ、精霊種が話かけてきたこと自体、異常に近いともいえる。
ただ、それは普通の人間にとっての異常であり、ニイにとってはそうではないのが頭が痛いところである。
「それで、精霊都市はどうやって作られた?」
俺は教師じゃない。歴史ははっきり言って専門分野ではないが、何とか解説する。ちらりと空を確認すると、極光の傍に見える星の位置が随分動いていた。
話しはじめてから、数刻は経過しているだろう。じわりと足先の感覚に異常を覚えた。
まずい。直感でそれを感じ取る。
保護魔術の時間切れである。ひとまずの話の区切りをつけ、
「……話は途中だが、そろそろ時間切れのようだ」
と告げる。唐突に話を終了するニイに対して、彼女がどう出るか。
未だに握ったままの武器におのずと力が入る。手袋がギュっと革の擦れる不快な音を放った。指先の感覚が痺れている。小一時間以上警戒し続けているのだから仕方が無い。
精霊種によっては気まぐれに契約内容を変えるものがいる。ここではさすがに口頭での簡易契約しか出来なかったが、本来は誓書という書面で契約を交わすのが一般的だ。ただ、そのような荷物を散歩の時間に所持しているはずが無い。精霊種の力を借りることを主とする精霊術師なら常備しているだろうが、しがない学者のニイにとっては関係が無かった。
ともかく今は、目の前の精霊種である。ニイの断りの言葉に、神妙に頷きながら、
「そうか、仕方ない。続きは二日目になる」
と終了を了承する。あっさりとした引き際に、その様子を観察するが、やはり攻撃色は見受けられなかった。
「では、明日に」
ニイの言葉に、彼女は破顔した。無邪気な笑顔である。
それがあまりにも人間めいており、逆にニイは警戒を深めた。
だが、こちらの懸念に対しても彼女は頓着せず、あっさりと踵を返した。軽やかに地を蹴るだけで、ニイの腰より高く飛び上がる。華奢なくるぶしがあらわになった。そしてそのまま精霊種は雪に溶けるように消えた。
ニイは強張った指を動かしながら、ようやく武器から手を離した。
人間らしい精霊種など、関わるとロクなことがないのだ。
本来は精霊種と有限種が交流することなど、ほとんどありえない。ここまで行動を『写している』意図も、どこから得た知識なのかも、警戒対象であった。大体は精霊術師と契約を解除したのちの精霊か、はたまた契約主を食い殺した精霊か。もう一つ最悪の場合は、有限種、それも人類にちかいものを食った精霊種か、であった。種族によっては取り込んだ相手の知識を吸収できるという風説もある。ただし、それは正直眉唾物だった。
実験をしたものもいる。可愛らしい精霊種に恋をした精霊術師が人間をそれに食わせたという。しかし、精霊種の力は増大せず、何も起こらなかった。事件が発覚するまで何十人もが命を落としたというのだから、狂気の程が知れるだろう。
逆に精霊に恋した人間の男が、精霊種になりたいがため精霊を殺して食ったという事件もあった。しかし、彼の体質は変わらず、こちらも全くの無駄だったというオチがついている。
戯曲の題材にも上らない、歪で実りの無い恋である。相手がどれほど美しかろうと、ニイにとっては精霊種はそういった対象には決して見ることが出来ない。
とにかく、それほど両者の溝は埋まることはない。なのに、あの精霊種は状況の異常ささえなければどう見ても女の子、だ。
精霊種一つ見えない空を眺めながら溜息を吐けば、呼気に含まれる水分が一瞬で凝固し、音を立てて消えていった。