なのはなもえる
1
いちめんのなのはな……
いちめんのなのはな……
いちめんのなのはな……
耳のどこか、奥の方でそんな言葉が響く気がした。そのせいか、私はゆっくりとまどろみから目を醒ます。
客のまばらな車内に、薄い春の陽射しが満ちているのが見える。バス特有の深緑のシートがそこに並んでいる。乗客には、寝ている人もいれば本を読みふけっている人もいて、窓の外を見ている人もいた。私は、それを一番後ろからそれを眺めている人だった。
一人がけのシートで私は、小刻みに揺れている吊り革を眺めていた。そのせいか催眠術でもかけられている心地になって、自然と目を細めた。
『行き先の……せいなのかな』
バスは、広い田園風景の中を通り過ぎて行く。
確かに、これから行く場所のせいなのかもしれない。『小学校の頃の教科書に載っていたんだけどね』と昔教えられたその詩を、今更に思い出すっていうのは――目で見えないつながりが、今日の行き先との間に潜んでいるからだ。
「……いちめんの、なのはな……か」
窓の外を見やる。
もう四月だから、田植えは近い。水の張られた田んぼが折り重なって続いて、先の方には鈍い浅緑の丘がうねっている。遠く、遠くになればなるほど景色は陽炎にぼやけて、空の中に薄らいで行く。
「……いちめんのなのはな、いちめんの、なのはな。いちめんのなのはな……かすかなるむぎぶえ」
その空の頼りない薄青が、まるで私の意識までをも薄めて行くようで、流れて行く景色を見ていると尚更、頭のぼんやりした辺りへ代わりに詩の言葉が浮かび上がって来た。
私も、その詩はどこかで習った覚えがある。やっぱり小学生の頃にだ。書いたのは詩人の山村暮鳥。『いちめんのなのはな』という節が延々と続く間に、ひっそりと別な言葉が入っている、そういう詩だ。初めて目にした時のことは覚えている。ページの上の平仮名の繰り返しが幼心には退屈で、何の趣向なのか分からなかった。
「いちめんの、なの、はな…………ひばりのおしゃべり」
でも今なら、分かる気がする。
かすかなるむぎぶえ。
ひばりのおしゃべり。
少し諳誦して、その二句は思い出せた。『いちめんのなのはな』の間に、それらが忍び込まされている。でも、後もう一つあったのがこっきりと出て来ない。
「……いちめんのなのはな、いちめんの、なのはな……いちめんのなのはな」
私は、力のない声で何度も呟いてみた。別に思い出したからって何になる訳でもない。なのにやめられないのが、不思議には思われなかった。
――三本杉ー、三本杉です。
瞬間、体ががくりと傾く。アナウンスの拍子にバスが揺れたんだろうけど、勢いで意識まで飛びかけたのは私の気のせいなんだろうか。いや、そうじゃないかもしれない。
顔を上げた時、視界に飛び込んで来たバスの光景は妙にまぶしかった。それはあまりにも白くて、唐突で。まるで驚くことさえできない。だけど、その中でただ一つ目に留まったものがある。
無地の中の染みのように、行く手にぽつんと浮かぶ停留所。陽炎に滲んだそこには、人影が一つ。こっちに向けて白いシャツの腕を振っていた。ほんの、数秒のことだったと思う。
不意にその袖の白さだけが、目の中に凝縮して来る。
それで気付くと、周りは薄暗かった。
「……え?」
思わず、声を洩らす。
無理はない。
薄青く翳っている、狭く見慣れた室内の風景。見間違えようもない、確かに私は私の部屋にいた。
『夢……?』
北側の窓辺にある、自分の机の前。そこに私はいた。椅子に座って、机の上に組んだ腕を乗せている。寝ていたらしい。
何がどうなってるんだろう。
私は顔を上げた姿勢のままで考える。何でここにいるんだろう、さっきまでバスの中にいたのに。その時私に起こった不思議を、私の頭は上手く処理できずにいる。さっきのは、何だったんだろうか。
寝惚けた頭は結局、多分夢なんだろうという結論を出す。夢、だったんだろう。変にリアルだったけれど……あんなことが起きるのはやっぱり夢だ。あの人が今、ここにいる訳はないのに。
私は独り合点して、やおら椅子を立った。でも、夢の気分が抜け切っている訳じゃない。
確か、本棚に昔の教科書がしまっておいてあるはず……一番下の、普段使わない段に。そこへ手を付ける。
机の脇にある本棚は、丁度窓からの死角になっていて暗い。その上埃臭い。部屋の中はみんなそうだ。
服が投げっ放しのベッドの上。
その上の壁の、二三日忘れ去られた日めくり。
開け放した南側の窓、そこへカラカラと音を立ててぶら下がっているハンガー。
加えて、窓からでも年中日がささない部屋の中は、まるで海の底のようだった。みんな私の無精癖のせいだけど、今はそっとしておいてほしい。
「あった」
教科書類が押し込められた、随分奥にそれは潰れていた。
小学五年生、国語。
表紙にはデフォルメの鯨の絵がある。
私は机に戻ってそれを開く。窓の外の、切り取られたような一面の空の碧を光代わりにして、目次を辿った。
「……十二、ページ」
開くと、そこに確かにあった。
風景、純銀もざいく。
そんな題名だった。
見開きの上半分に数連。下半分には、一面の菜の花畑の写真が載せられている。
少し、口元が緩んだ。菜の花には昔から馴染みがある。
そしてその時前の方で風が吹く感じがして、見上げると窓の外は――青空の下の一面の菜の花畑だった――
――今度は言葉すら出なかった。私はその瞬間に、菜の花畑の真ん中にいたのだ。
「……」
私は立っていた。立ち尽くしていた、って言う方が正しい。地平線まで丘のようにうねりながら続く、一面の眩しさの中に私はいた。
風がそよいでいる。
辺りには、茎の間を縫って紋白蝶が舞っているのが見える。
いちめんのなのはな。
人はいなかった。
『……夢……なの?』
そう思った。でもそれもすぐやむ。
この風のにおい。清々しさ。
むせかえるような花の波。
少し暑いくらいの陽射し。
この全てが全て、幻なのだろうか。
2
多分、『我に返る』とか『夢から醒める』とかっていう感覚は、こういうものなのかもしれない。とにかく突然過ぎて惚っとする他ない。何で自分はここに、と思っても、答えは浮かびはしない。目が醒める時にはいつも、ついさっきまで見ていた世界なんてすぐ曖昧になるからだ。夢から現実に戻ってくるその境目なんていうものも、またどこにあるか分からない内に通り過ぎていて、それは近付いてもいつの間にか姿を消す、丁度逃げ水のようなものだと思う。
「さっきのが、夢……」
ポツリ、と言葉が出た。
足下には、仕切りもない土の径が細く続いている。その時の菜の花は満開の頃で、それが見渡す限りの地上を埋め尽くしていた。時折のそよ風にさわさわと波立つとそれはまるで海で、乾いた土色の線が一筋、うねる波の中に取り残されている。私の足は、こっとり、こっとりと緩やかな調子で、無意識にそこを先へとたどり始めた。これが現実なら、さっきのは夢。そう考えるしか私にはできなかった。
花の海の黄色。空の青。少しだけのぞいている葉の浅緑と蝶の翅の白が、波の狭間で貝のように揺れる。絵の中に入り込んだような色彩に、私の思考は半分、薄く溶かされてしまったようになっていた。何がなしに後ろを向いても、花の波はやっぱり視界の果てまで続いていた。そしてその中には、誰の人影もない。他の町からも見に来る人がいるとは聞いていたけれど、そんな楽しげな、菜の花畑のお客さんは姿も声さえもなかった。ただ、菜の花を揺らす風の声だけが耳に涼しい。
別段不思議には思わなかったけれど、足下の径はどこまでも途切れなかった。畑のうねりに合わせて曲がっていて、先がどうなっているかはいずれにしても分からない。けれど多分、この景色の果てまで続いている。そう感じた。菜の花の波だってまだずっと続いているし、そもそも果てなんてあるんだろうか。そう思っていた。
私はしばらく歩き続けた。何の目的もない。満開の黄色の花にはしゃぐこともとどまることもしないで。視線を、黄色の海のかなたに奪われながらゆっくりと小径をたどる。きちんと働いていたかさえ怪しい私の意識が、はっきりと形をなし始めたのは、そんな途切れのない散歩を大分続けた後のことだった。波の表を吹き渡る風に醒まされて行くかのように、私の脳裡は、一歩、一歩のその度に確かになって行った。ほんの少しずつ、僅かにではあったけれども。
そうだ。
私は大学二年の春休みを使って、ここへ来たんだ。朝から電車とバスを乗り継いでやっと。そうだった。バスの中があたたかだったから、きっと眠気で脳がはっきりしないのに違いない。だから、目的地のこの丘に到着する前から、今までずっと私は半分夢の中に。そう分かってしまうと私は、尚更ぼんやりと歩いた。
着ている白のワンピースが裾で茎葉に振れる。径の細さのせいだ。そのそばで私はとりとめもなく、さっきの続きめいたことを頭に呟き出した。
菜の花には馴染みがある、って言ったけれども、それは物心付く前からのことだ。毎年、花が咲くのを楽しみにして、庭先でその青い茎の先を飽きることなく見詰めている。それは昔から変わらなくて、いくつかも分からないくらいの小さい頃にもそうしていた覚えがある。記憶の奥のほうで、そんな、幸せな思い出が薄れて揺れている。菜の花の花言葉は、その光景そのままを表すかのように――『小さな幸せ』。幼い頃の思い出は、言葉の通りの明るさに満ち溢れていた。それは思い出してみるとはっきり分かる。
――でも、それを言うなら、残りの花言葉は?
そう考えた途端、私ははたと昔を思い返すのをやめた。
胸の中に一つの言葉がせり上がる。一つ。一つだ。花言葉は後一つあったんだ。それを思い出してしまった瞬間、私の背中をいやな寒気が這い上がった。
実を言うと菜の花の花言葉は、『小さな幸せ』の他にももういくつかある。全部は思い出せないけれど、はっきりとした影を持って浮かび上がってきたのは、一つだけ。それが、私を突然暗がりの中に落とし込んだ。
その一つ二つ、菜の花の花言葉というものは、私が今日まで辿って来た過去を密かに暗示しているんじゃないだろうか。果てにはそんな想像が、私に取り憑く。
私自身のことだけど、本当に突飛な思い付きだった。大体、昔からそういう神秘めいたものを積極的に信じようとはしなかった私だ。菜の花と私――花言葉というだけの結び付きが、そんなに私の未来を指し示しているなんて私は認めたくない。でも、突飛な思い付きが次第にふくれ上がって、心の中をいっぱいにしていくほど、私は焦った。
もし宿命や運命なんていうものがあるとするなら、それは私にはどうにもできないものなんだろう。それは、もう経験済みだったことがまざまざと頭の中に浮かび上がる。あの人のことでの追いかけっこに、私はいまだに勝ててはいなかった。
私は数秒間で、それを思い出してしまった。情けないくらいに簡単に。私は口を閉じた。
そういえばこの場所、この菜の花の丘だって、あの人と私が付き合っていた時によく来た所だった……昔、その『そば』にいた時に。今更にそう思い出した。記憶を霞ませていた熱が、風で全部引いて行ってしまっていた。
私は歩くのをやめる。
見上げた空は、春らしい頼りない青色。春は、いつも頼りなく霞んでいるという絵が、私の頭の中にはある。私はその、曖昧になった所をただじっと見上げていた。
今日、この菜の花の丘へ来た目的を思い起こした頃には、もう声を出す気もなくなっていた。過去に区切りを付ける為にやって来たはずなのに……。自分がばかみたいに思えた。
刹那、後ろで風がざわりと騒ぐ。
振り返ると花の波の向こう、霞んだ丘の上に、二つの人影が見えた。
知っている。
私はあの二人を知っている。
顔は見えないけれども……私はそれが誰かを知っていた。
急に、周りの音が全て消え去る。
向かい合った人影――男女は口吻をしている。白い服の女性がこっちに振り向こうとした時、私の息は止まった。
そこはまた、部屋の中だった。
「…………」
言葉はすぐ出せそうにない。我に返った瞬間、私は自分の部屋にいた。自分の机の前に、いた。
目が乾いているような気がする。ひんやりとした、青い日陰の部屋は存外に心地よかった。
手元に目を向ける。そこにはやっぱり、教科書がある。両の手で広げられている。かつては本物そのままであっただろう菜の花畑の写真が、何となく色褪せて見えた。
やめるはひるのつき。第三連、それが思い出せなかった残りの一つだった。
『病めるは……私も病気なのかな』
我ながら他人事じみていた。
しばらく、私は意識のない目を教科書に向けていた。
その後、小さくあくびが出たのを区切りにして私は一階へ降りた。教科書は机に放りっ放し。それに、いやに気怠い。今まで寝過ぎていたせいだろう。
私の目当ては牛乳だった。一階、割と片付けられたキッチンの、冷蔵庫の前に立ってそのドアを開ける。
一階に人はいない。大方みんなどこかへ出かけているんだろう。火の消えた後のような一階は、キッチンも、ダイニングも、玄関も二階のと同じ影を帯びていた。ただ、小綺麗な(それは几帳面な母が掃除を欠かさない成果で、どうやら私はその性格を受け継がなかったらしい)のと庭に面した大窓から日光が少なからずさし込むので、私の部屋よりは、人の住む所という感じがしていた。
私はマグカップについだ牛乳を、その場で喉に飲み込む。
『そういえば……奏之さん、牛乳嫌いだったな』
ふと思い出す。
私は牛乳が好きだ。何かにつけてよく飲む。覚えている限り、小さい頃からそうだった。どうしても飲めないあの人――奏之さんとは、考えてみるとまるで逆だった。
私はまた、一口で飲めるだけの牛乳を飲む。
『あの詩を教えてくれたのも……だったかも』
勉強でさえ要領の悪い私だ。それが、あんな詩を諳んじられる程に覚えていたのは、なぜなのか。理由はそういうのぐらいしかない。
私はますます飲んだ。冷たさが喉の奥を、どんどん滑って落ちて行く。無性に牛乳を飲みたかった。自棄酒みたいなものかもしれない。四口目にはもう、カップは空になっていた。
「……仕方ないや」
すぐさまカップをゆすぐと、私は奮然と二階へ引き返した。
牛乳を飲もうが何をしようが、妙に空っぽなこの頭の中は埋まらない気がする。さっきから妙な白昼夢ばかり見ている原因は、きっとそこにあるんだと私は決め込んだ。嫌だった。自分の部屋に入るなり、机に近付いてその抽出しを勢いよく引っ張り出す。
もう徹底的に、やってみるしかない。どうしてまた、奏之さんと付き合っていた頃のことを夢に見るんだろう。それを考えると、私は俄然力を入れて探し始めた。奏之さんがいた頃に撮ったやつの中でも、特に大切に残してある『あの』写真をだ。
どうせ元から汚い部屋だ。この世界がもしまた夢の中だとしたら尚更いい。散らかったって構わなくていい。やるだけだ。私はことの他黙り込んで、机の抽出しという抽出しを開け、中身という中身を引っ掻き回した。その手は本棚まで及んで、一番上に積み重ねてある小物入れから何からを全部掻き回した。着ていたワンピースが埃まみれになっても、私はてんで構わなかった。けりをつけたい、ただそう思うことにして。
あの場所は、その頃行った菜の花畑。元は奏之さんが教えてくれた穴場だった。そういういい場所を知ってるから二人で見に行こう、って、あの時奏之さんが誘ってくれたのを私は覚えている。でもそれももう、随分前のこと。その日何があったのかさえ、記憶の海の底に沈んで見えない。もっと言えば沈めたのは他でもない私だ。抽出しを探っている間、どうしようもなく胸が詰まった。
「ん……え、あ、あったぁ!」
結局――何十分経ったか知らないけれど――本棚の真ん中の段の、隅に放って置かれていた本の間に、それは茶封筒に入れられて挟んであった。
「これだ……」
奏之さんが焼き増ししてくれて、それを挟んだまま。しかもその本は山村暮鳥の詩集。私は怒る前に呆れ返って、それでやるせなかった。
震える指をなだめすかしながら、その封筒を手にして中から写真を取り出す。中身は、ただ一枚きりだった。
「奏之さん……」
入っていたのは案の定のもの、で――奏之さんと私が、暮れ時の菜の花畑をバックに並んで写っていた。高二の頃のあどけない自分と、大学一年生の大人っぽい奏之さん。二人が、笑顔で並んでいた。思い出す。それは同時に、奏之さんと私とで写真に写った、『最後』でもあった。
私は、今までのこと全てが頭の中でごっちゃになって、訳が分からなくなって……それで泣きたい気持ちになっていた。
確かに。確かに奏之さんは私より年上で、私自身、奏之さんは何倍も年上の人に思えていた。それに奏之さんには、奏之さんなりの過去がある。私に分かりっこない、それでいて触れることの許されない『過去』が。だから私が、私なんかが奏之さんと付き合うなんて……そう、何度も自己嫌悪になった。今でもそれは途切れやしない。
あの時だってそう。私は聞いた。見た。
――お、奏之、新しい彼女か? ――
――いいのか? 美人の彼女が死んだってばかりなのによ――
――いや、どうせまだ引きずってんじゃねぇの?
見ろよ、あの娘――佳子に結構似てるぜ――
――不安になって振り向くと、奏之さんは苦笑顔だった。それも悲しそうな、寂しそうな、今まで見たことの、ないような。
忘れられる、訳がない。
苦しくて、思わず深く息を吸った。
でも、思い返してみると、楽しかったことがない訳じゃない。そう、初めて……私のバイト先の喫茶店で出会ってから、それからずっと奏之さんは、私に優しく接してくれた。思い出したようにたまのことだったけど、色んな所に連れて行ってくれもした。この菜の花畑だってそう。買い物なんかにも、オトナが行くような上品なカフェにだって、私は奏之さんに連れられて初めて行った。
そしてそんな時はいつでも……奏之さんは笑ってくれていた。遠慮しがちの私だったけど、それに合わせてくれたのか、奏之さんはしつこくしないで、静かにそばにいてくれていた。栞ちゃんが嬉しそうならそれでいいんだ、って、私がどじを踏んでもどんなことしても、笑って私を見ていてくれたっけ。そんな優しさに触れている時間が、私には何より幸せだった、そして大好きだった……。
なのに。
なのに。
なのにどうして私は、あの時、私は……。
私は一人、目を袖で拭った。まぶたが布地にこすれて痛い。
部屋の中は相変わらず暗がりだった。昼も夜も変わらない。窓の外の青空が、情け容赦ないくらい明るくて、色鮮やかだった。その薄闇が、私の心の中に忍び入ってきて何かを形作るようにも思う。そして浮かぶのはいつだって、菜の花の波の音を遠くに秘めた、あの時の夜闇しかない。
素直に、懐かしがれない。折角探し当てて出したのに。
私は、潤んで見えなくなった写真をおもむろに裏に返す。奏之さんと私の名前が書かれていた、覚えがあったからだ。
返すと、そこの端っこには『奏之&栞』ではなく『奏之&佳子』とあった。
驚いて表を見るとそこには、昼間の青空の下で奏之さんと――白い服に白い鍔広帽の女の人が笑顔で並んで写っていた。
立ち上がって来た風に目をつぶると、私はまた元の通り菜の花畑にポツンと立っていた。
『また……』
もう、うんざりだった。
嫌だ、っていう気持ちと抑え切れない苦しさとが、胸の奥で渦を巻いている。菜の花の上を渡って来た風に吹かれても、それがほぐれて行くことはなかった。
「疲れてるのかな……」
もしくは私が、過ぎた時をよっぽど印象強く覚えているのか。今自分のいるこの場が、夢の中なのかそうじゃないのか分からないなんて……どちらの意味にせよ、私はよっぽどの重症なのに違いない。
正面からの風に、私は目を閉じてそっと身を任せる。
風は、陽気盛んな空の下を吹いて来たとは思えない程涼しくて、服の袖や前髪を揺らして通り過ぎた。
私は少し震えた。
やっぱり私に、奏之さんとの恋なんて無理なんだろうか。
あれこれと考えるにつれて、私の中ではその後ろ暗さがふくれ上がって行く。奏之さんには奏之さんの昔がある。昔の人、がいる。
私は薄く、まぶたを開いた。周りの景色が、日の翳りの中にいるかのようにまるで明るく見えなくなっていた。花の絨毯の照り返しは、ますます強くなっているのに。
さっきのが夢だったかどうかなんて、もうどうだっていい。記憶へけりをつけにこの丘へやって来た、っていう目的が今更に脳裏でゆらゆら揺れている。けれどもそれだって……言ってしまえばこの私自身だってこの景色だって、夢の中、のものかもしれない。
結局私は、どう頑張ったって”あの人”の代わりにはなれない。そして奏之さんは、”あの人”を忘れられないでいる。だからきっと、私と一緒にいたのだって。『面影』、を求めている――それしか考えられない。いつか言っていた。栞ちゃんはアイツに似ている、って。
ただそれだけ。一緒に過ごした季節の、分け合った思い出の、質も量も遙かにあの人に届きはしない。
私は思い出す。あの、最後に一緒にいた時の奏之さんの表情を。とても、遠い目をしていた。気付けば分かることだ。その視線の先に、誰の姿を見ていたかなんて。そしてそれはきっと私じゃない。
私は一人で納得しながら、うつむいてまた歩き出す。騒ぎ始めた風が、体に苦しい。菜の花の丘の上は、とっくのとうに居辛くなっていた。
『帰ろかな……』
そう思いかけた時――急に真正面から風が駆け降りて来て、いたぶられるように私は後ろへ振り返った。その先にはあの場面。若い男女が向かい合って口吻を交わしている。ほの暗い空を背景に、それは浮き立って見えた。
私は虚ろな心地で氷解した。向こうに見えているあれは、きっと『過去』なのに違いない。奏之さんとあの人の過去が……あそこに今、映し出されているんだ。
心の底が冷え固まって行くようだった。
騒ぐ風の中、私がそれを遥かに眺めていると、唐突に女の人が振り向こうとする。
白い服に白い鍔広帽のその人が、振り返った時に見せたその顔は――私の顔だった。
3
その次の瞬間、私はあからさまなぐらいに意識が飛ぶ。瞬きした間に、背中が震えた刹那に……かくりと体が崩れる感覚がして、それを感じるともう景色は切り替わっていた。
「――どうぞ」
そして、見知らぬドアを開けようとしている所だった。手は冷たいドアノブをひねり、そのまま奥へ扉を開く。意思が上手く働かないでいる。
入った所は、小さな病室のような所だった。
「入って」
陰になった窓際のベッドの方から、声をかけられる。女の人が一人、そこに体を起こしてこちらを見ている。少しだけ、ドキリとした。
その誘いに乗った訳じゃないけれど、私はふわふわと歩いてその脇のパイプ椅子に腰掛けた。
病床の向こう、四角の窓には色硝子を眺めているような、碧の色だけが広がっている。
「初めまして、かしらね」
ゆったりと私に微笑みかけるその人。病床も病室も、その表情もそれに似つかわしくなくほの暗かった。多分、外の鮮やかな碧のせいだけじゃないと思った。
「そうですね」
私の口は、思いとはうらはらなことを言う。
だってそうだ。ここは夢の中、夢の中だとはっきり分かる。みんな不自然だ。この人も、ここにいる――いられるはずがない。
ベッド、その枕元のサイドボード、サイドボードの上には、鮮やかな菜の花の一束が、硝子の花瓶に生けられている。それから、ベッドのそばにパイプ椅子一脚。
物がそれしかない風景の中で、私は恐ろしいぐらい無頓着になって女の人と向かい合っている。さっきの、菜の花の中に見た”私”が何なのかすらも分からないでいるのに、まるで切り換えたように冷静になれている。私はどうかしたんだろうか。何も考えられやしない。
「お体、どうですか」
「そうね。割合いい方かしら、最近は」
また、微笑みがこぼれて長く伸ばされた黒髪がサラリと揺れる。本当に屈託がない。白くくすみのない肌が、水色の仕着せを通して映えている。
私は自分で自分が、何をしているのか分からなかった。目は佳子さんを捉えながら、どこか遠くの方を見詰めている。ああ、端から見るとこういうのが無表情っていう感じなんだ、と自分ではっきり分かった。
柔らかい口調で、佳子さんは続ける。
「奏之さんはどう? 私はなかなか会えてないんだけど」
「今は……中南米です」
「中南米?」
佳子さんはおかしそうに目を細める。
「福祉大の研修とかで、いきなり……しばらく前に行ったっきりです」
「そう。奏之さん、鉄砲玉みたいな人だから」
まるで驚きは最小限で、笑いを含ませながら佳子さんは喋った。
「前にもあったんですか」
「そう。奏之さん、ボランティアだって言って結構外国に行ってるの。中学校の頃から、いろんなのに参加してね。ほら、海外協力隊みたいなの。アメリカ、は中南米じゃなくてアラスカにも行ったって言ってたわ」
大陸全部回ってるんじゃないかしら、なんて微笑む。
悪いけど、それなら私だって聞いたことがある。まるで冒険物語でも披露するように、奏之さんは自分の体験を話してくれた。私は私でその話に、子供のように心をときめかせていた。それが今でも、胸の中に小さなあたたかみになって残っているのだ。
「私も少し、行ったけどね」
でも、それを言おうとした言葉の先は佳子さんに見事に制された。反論が喉に突っかかる。
「どこへ、行ったんですか」
「ヨーロッパ、かな。東欧の方の」
返事はそれだけだった。私へ、真正面から目線を差し向けながら。
私は何も言えない。佳子さんは、どんな話題も完ぺきな答えでおしまいにしてしまった。もう私に喋ることなんて、ない。
この人は、私の前に奏之さんのそばにいた。
どれぐらい、私より奏之さんについて知っているんだろう。
少しの会話の中にもそれは表われているような気がして、さっきまでの暗い気持ちがふと胸の中をよぎった。
観念しちゃいなさい。
涼やかな笑顔がそう誘っている。
「そっか……あ、なら、聞きたいことなんてない? 私、奏之さんのことならいろいろ知ってるわよ」
「結構、です」
佳子さんはまた、そっか、じゃあいいんだけど、って、子どもっぽくてかつ、巧妙なつぶやき方をした。目を細めて、さもまぶしそうに窓の外へまなざしを向けるのも、とても複雑に計算された動作のようだった。
「じゃあ、私も聞いていいかな」
何ですか、と応じる声は、震えるのを隠すので精一杯だった。おまけにとげだらけだった。
「……思い切って聞いちゃうけど。上手くいってるの、奏之さんと」
とどめ。その一言が頭に浮かぶ。言い終えると、その成果を確かめでもするかのようにゆっくりとこっちを振り向く。
本当に意地悪だ。私は見えないところで、やる方のないにぎりこぶしを固める。
「まさか。しばらく会ってないんですよ……佳子さんには届かないです」
「ご謙遜」
佳子さんは明るさを持ち前の雰囲気に包んで私と話している。
じゃあ、その私はどうだろう。無表情なんかじゃ、いられない。
ひととき沈黙が広がって、その中に菜の花が鮮やかに黄色をくゆらせる。部屋は痛いくらい静かなところだった。
「ね」
「……何ですか」
「緊張してるでしょ。あなた」
それで私は、グッと正気に引き戻されたって言っていい。私が奏之さんの、元の彼女だから、とよどみなく続ける。
「図星じゃない」
今にも崩れそうになりながら彼女を見ている私には、大いにそれが利いた。喉までせり上がってきていた言葉が、慌てたように渦を巻き出す。
「そう緊張することないのに。私はあなたのような人、好きよ? だからくつろいで話せてる」
「うそ!」
私はガタッと立つ。顔が熱いのに気付く。でも、佳子さんの笑顔に見詰められていると、黙って座るしかなかった。
「……うん。少し嘘。ほんとはちょっぴり妬いてる」
やっぱり。
「でも、それ以上に好きになろうっていう努力をしてる。努力しよう、って意識してる。自分の気持ちを見詰めた上でね」
それが私の結論、と結んだ彼女を、私は訝しげに上目遣いで見た。
……変な人。それが第一印象って言ったら、そうなのかもしれない。
突然、ノックの音がした。飛び上がる。
「あ、来たみたい」
明るい声の彼女を尻目にして、私は、
「私が出て来ますね」
と素早く席を立った。うん、という返事も聞かずにノブを握る。部屋にはいたくなかった。胸がざわついていた。
「自信を持って。頑張っていってらっしゃい」
何を言ってるんだろう、この人は。
うつむき通しの顔を、目だけ上げた。すると、ざわつきが一瞬、体中を駆け巡って、そして私は玄関にいた。
「…………え?」
ただぼうっと、佇んでいる。そこは確かに三和土、私の家の玄関だったのだ。
前にも言った通り、夢から現実に帰って来る時程、唐突で、物事があやふやになることと言ったらない。ぽうん、と記憶の外に放り投げ出されたように、不条理なくらいに全てを思い出せなくなってしまう。脳裡の、見えぬ奥底の方に消えて行く。もっとも、その時は前よりもそれが酷かった。私はついさっき自分に起こった出来事が、まるで幻か何かのように思えていた。
『……何してんだろ、私……』
と言うより、もう記憶すらしていなかったのかもしれない。波のように迫ってくる見渡す限りの菜の花も、あの小さな部屋の片隅で私を見詰めていた、謎めいた淡い微笑みも……。確かにどれも私が目にしたことだけど、その輪郭はもうあるかないかぐらいに揺らめいている。
埃の打ち沈んだ玄関は物音一つしない。私はまるで、『玄関』という静物画の中に描かれた人物でもあるかのように、やっぱり立ち尽くしているしかできなかった。
チャイムが鳴ったのはそんな頃合だった。
佳子さんの部屋ではノックの音がしたけれど、さもその続きのように気付けば鳴っていた。ピン、ポーン、という高い音が無機質に響く。私が応えられたのは、それを二三度程も鳴らせてしまった後だった。緩やかに、ドアを開ける。
「……はい」
「あ、やっと出てくれたね」
私はハッとして目の前を見た。聞こえてきた声で、何より驚きが胸の中に溢れかえった。信じられ、なかった。
「奏之……さん」
「しばらくぶり」
元気だった、と奏之さんは照れたように笑った。
4
「随分待たせちゃったね。ごめん」
そこには、長らく見ていなかった笑顔があった。私をそっと包み込んでくれる、例えば、春の町並みを撫でて行く風のような――私の、一番好きだった笑顔。
本当に……奏之、さん?
あの日以来、ずっと見ていなかった奏之さんの笑顔が、私の瞳いっぱいに映り込んでいた。
「もう、だいぶ遅くなっちゃったけど……やっと、準備が済んだから。行けるよ、ウン」
まるで、何も言えなかった。
分かる――私には分かる。奏之さんは、あの頃と全然変わってない。どことなく人なつっこい、この優しい声も表情も。
昔と、どこも変わってない。
そう分かると、ほっとしたり、まだ驚きが収まらなかったりで、言葉を口にする気すら起こらなくなってしまった。
空を背景に、逆光で暗くなっている奏之さんの顔を、吸い込まれるように見詰める。外に出てみて分かったけれど、もう日が相当傾いていたらしくて、空の色も周りの空気も、密かに夜のそれになり始めていた。
「……栞、ちゃん?」
もう一度声をかけられて、私は少しびっくりした。どうかしたの、と言いたげな表情で、奏之さんがじっとこっちを覗き込んでいる。何でもありません、と咄嗟に、うつむいて顔を隠しながら答えるのがやっとだった。
「お久しぶり……です」
話したいことは数え切れないくらいある――でもその時、言えたのはそれだけだった。
奏之さんはというと、そんな私の変な言行に少しキョトンとしていたけれど、
「うん。久しぶり」
と、柔らかく返してくれた。続けて、
「……ふふ、口にミルク付いてるよ」
と言われて私はすっかり赤くなってしまった。私ってば、何をやってるんだろう。奏之さんの前なのに。
慌てて袖で口元をゴシゴシ拭うけれども、気恥ずかしさで私はますます小さくなる。後の祭りだ。
「また飲んでたんだ」
「わ、悪いですか」
「いや。僕はホラ、あの臭みが苦手だから」
そう苦笑するので思い出す。そういえば、前にもよく話してくれたっけ――どうにも生まれ付きらしくってね、赤ん坊の頃はそれで母さんを随分困らせたらしいんだよ――なんて。
そこからまるで、アルバムをめくるようにぱらぱらと、思い出がほどけて行く。どうしてこんなに忘れていたんだろう、と思うぐらい、たくさん。
私の胸は、溢れて来る思い出でふっと熱くなり出して、今にも押し潰されそうになって、顔が熱かったのに目頭まで熱くなって来て……。それで、夕闇で紛らせるように目元を隠した。私は今、奏之さんと二人でいる。
そしてしばらく、お互い言葉を出せずにいた後で奏之さんは言った。
「じゃ……出掛けてもいいかな」
それから、私が落ち着けるはずなんてなかった。
泣きおさまらない子供のように、奏之さんに手を引いてもらって駅まで歩いて行った。アスファルトの道路に、奏之さんの一回り大きな影と電信柱の長い影が、ひょろひょろと揺れていた。
私の小さな手は、奏之さんの線の細い手にすっと収まっている。手の温かさが、手の平に伝わる。
奏之さんは、大丈夫、気分悪いの、なんて気を遣ってくれるけど、私は首をかすかに振るぐらいしかできなかった。その、かけてくれる言葉は昔通りあたたかかったけど、どこか端々で、私へ向けられているように感じられなくなりもして、不安が風になって、私のそばを弱く吹いて回った。
駅に着いて列車に乗ったところは、覚えていない。
途切れ途切れの映画みたい、って言ってしまえばいい。時々に意識がふっと切れる時があって、その間に時間が、初めからなかったように無音で過ぎ去っている。ただ、いつも目の前に広がるのは確かな夕闇色で、それに染まった窓硝子に、少しゆがんだ私の顔が映っていもした。
「……大丈夫?」
奏之さんが隣で、何度目かの『大丈夫』を言ってくれる。
「はい」
それだけ、ぽつりと私は答えた。
がたん、ごとんがたん、がたん、ごとんがたん。
夕暮れ時の電車は人が少なくて、車両の刻む音がより正確に耳に届いた。車内灯はとっくについていて、白々と辺りを浮かび上がらせる。冷たそうで、少し曇った網棚。けばけばしい絵柄の中吊り広告と、どこまでも続く吊革の列。素っ気のない、薄紫の長座席。左と右に、それらが無駄なく続いている。
ことのほか、奏之さんも私も無口になった。そうか、今日奏之さんが帰ってきてくれる予定だったんだっけ、なんていうおぼろげな疑問が私の中にただよっていた。
私が着ていたのは、よそ行きの白いワンピース。そういえば部屋の中にいた時から着ていた。どこか別のところでも着ていた気がするけど、思い当たらない。やっぱり初めから、私は奏之さんが来るからって待っていたんだろうか。
久しぶりに会って、私は奏之さんにいろんなことを喋りたい、できれば甘えるなんてしたみたい。そのはずなのに私は、そうできない。私の中のどこかで、何かがためらいのようにわだかまっている。
がたん、ごとんがたん。がたん、ごとんがたん。
ただ、駅で奏之さんが買ってくれていたカフェオレの缶を、開けもしないでじっと両手に持っていただけだった。
その後乗ったバスは最終便で、私たちは一番後ろのシートに並んで座った。
寒いかい、と声をかけてくれた奏之さんの顔が、逆光で暗む。ふるふると首を振ると、安心したように微笑みがのぞいた。実際辺りは薄ら寒くて、春とはいえ田舎の方は夜になると冷えが戻ってくるらしかった。あの丘は、駅から田んぼをよぎって行った先の里山にある。
交わす言葉もなくて、私はバスに揺られている間は外を見ることにした。白く照らされた車内からだと、外は余計に暗く見えて、でも優しい感じがした。
カフェオレをようやく開けて、ちょっぴり口につけると、背もたれにしなだれかかる。まだ缶は両手で握りしめていた。窓には、うつろな顔の私が私を見詰め返している。私、こんな顔してたっけ、とふと思う。映り込んだ影の後ろには、一面紺色の闇が流れていて、それが動いているかいないかぐらいにゆっくりだから、景色はその色に染まっている。じっとその奥を見詰めていようとしても、その先にはあの丘があるんだと思うと、胸の辺りが少し震える。この気持ちは何なんだろう。
「そういえば」
不意に声が降ってくる。
「……今日、久しぶりだったね」
「そう、ですね」
「ごめんね、長いこと会えないで」
「い、いいえ、そんなこと」
ないですよ、と言う終わりの方の声がしぼむ。
奏之さんは――それの返事なんだろうけれども――独り言のように言った。
「ううん。謝らせてくれないか。ごめん」
その横顔は、妙に神妙だった。こんなに落ち込んだ奏之さんはあの時の他に見たことがなくて、私はシートの上で変に縮こまっていた。
それは、私はずいぶん奏之さんに会っていない。何度も会いたくて、会いたくて、でもそれを伝えたくなる度に胸の中で押し殺してきた。こんな気持ち、奏之さんが知ってもきっと迷惑になるだけ、そう思って。きっと奏之さんは、無理にでも自分の胸の内をおさえて私に合わせるかもしれない。今から考えると、奏之さんの心がどこか遠くを向いているところに割り込んでいたんじゃないだろうか。私は。
だから、謝るのは私のほう。私がいけないんだ。
何も言い出せるわけはない。固く、膝の上で両手を握る内に、目尻は熱くなっていた。
それから停留所を二つ三つ過ぎて、バスは小高い夜の丘を上りつめて止まった。
「三本杉ー、三本杉です。お降りの方は、お忘れ物のないようにお気を付けください――」
アナウンスに軽く会釈して乗降口を出ると、かすかに冷たい空気がほほをなでた。着いたね、と奏之さんは背を伸ばす。振り向くと、よどみのない水底のような濃藍の夜景色の中に、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と小さな白い電灯が点を落としたように途切れ途切れ続いている。結構遠くまで来たようだった。
「日、暮れちゃいましたね」
「そうだね」
大きく息をつき終わって、奏之さんが答える。私はというとまたそれきり口を結んでしまった。
「でもいいんだ、暮れてもよく見える場所がある」
見上げたその顔が、明かりのせいか、暗がりの空に白く浮かぶ。
奏之さんはそれから一区切りつけるように、走り去るバスに背を向けて歩き出した。一言の言葉も口にせずに。そんなこと今までなくて、私は追い付こうと小走りになってその後に続くけれども、途中、少し行ったぐらいのところにロープの張られた砂利道が視界をよぎった。やっぱり、というつぶやきが頭一つ上で聞こえる。
「あの……閉まってますよ、菜の花畑」
こんな時間だ。少し考えれば分かることだけれども、とっくに見に来る客足は絶えて、菜の花畑ももう閉園しているに違いなかった。それでもそこを通り過ぎて歩き続ける背中に私はおずおずと声をかける。
「大丈夫。心配しないでいいよ」
今度も振り返りはしなかった。その目は私を見ていなかった。白く見えていたのは横顔で、その無表情を私はどこかで見たことがある気がした。遠い昔に。
奏之さんはそれから足を速めて、道路をしばらく行ったところから伸びる林の中の一本道に入って行った。舗装もされていない、先に続いているのかいないのか分からない林道に、ざくざくと靴音を響かせて奏之さんは分け入った。私は、どうしたらいいのか分からずにいた。
『……怖い』
それは奏之さんに付いて行く。それしかない。けれど、その奏之さんが何かに取り憑かれているかのような足取りで歩いているのを見ると、私は唐突に怖くなった。こんな奏之さんは見たことがない。
なぜ? あんなにも二人でいるのを待ち焦がれてたのに、どうして怖くなるの?
そこに私の知っている奏之さんはいない。誰か別の人が私を闇の中へ誘おうとしている――そう感じられた途端私はさらに背筋が寒くなった。そして、ずっと二人きりで会いたいと願っていた奏之さんの前で、こんな暗い気持ちを抱いてしまう自分が嫌に思えた。
獣道、と言うほどではないけれど、林道はざわざわと鳴る木立の間を貫いて、細く物寂しく続いていた。明かりなんてない。ほのかに浮かび上がる奏之さんの背中だけを頼りに、私は暗がりの中を必死に歩いて行った。足下は砂利と石ばかりで、爪先が痛くなりそうになる。それでも堪えた。
奏之さんが何を考えているかは全然分からなかった。ひたすらに前へ進もうとしている姿はどこかうつむいているようで、それは悲愴感、と言ったら言い過ぎなんだろうけど、永くまとわりつく何かを振り切ろうとしているようにも見える。それが何かを考える度に、私の脳裡には白い影がよぎるように感じた。それは不安の固まりとでも言えばいいんだろうか。私の心の奥にちらついて、だんだんと浮き上がってくるそれは、少し前まで見ていたかのようにはっきりと形を見て取れるのに、催眠術にでもかけられているかのようにそのたび輪郭がゆがんでしまう。それは一つは笑顔。まるで透け通るかのような穏やかさを持った。もう一つは哀しいほどどこまでも広がる、真っ白な波、波、波……。
歩きながら私は、どこかで感じたことのある冷たい空気にぞっとした。まるで既視感のような一種の懐かしささえ帯びた冷たい雰囲気。その正体をきっと、私は知っている。けれどなぜか思い出せない。私自身がそれを拒んでいるかのように。それがどうしてかすらも分からない。何も見えなくなったような闇の中の私が、頼ることができるものは唯一、『大丈夫』、その一言のほかにはなかった。
長い間――それはきっと数分の間だったんだろうけれども――私は黙って林の中の一本道を歩き続けた。そしてその歩みは唐突に止まった。
「そら、ここだ」
その言葉とともに、何もかも押し流すようなひんやりとした風が前の方から吹いてきて、その勢いで私は顔を上げた。
その一瞬、私は、周りにあるすべての息が止まったように感じた。
「わぁ…………」
自然に、ため息とも付かないような声が漏れる。その時私の目に映ったのは、薄く凍ったような藍色の月夜の下、どこまでも広がる菜の花の海だった。
林を抜けたそこは、菜の花畑のはじの方の、丁度丘の裾になったあたりで、丘陵の上に菜の花色の波がうねって広がるのを、一望できる岬だった。
これを見せたかったんだ、と、少し息を切らした声で奏之さんは言う。
「……この場所は、丁度丘の頂上に向かって開けてるんだ。だから、ここまで一面に菜の花が広がって見える」
地平線まで広がっているように見える、そう、静かに言葉を結ぶ。
地平線、ここでは水平線といった方がいいかもしれないけど、私はその彼方から駈けてくる夜の風を受けながら、ただ淡い花びらの海に向かって立っていた。今までの不安や迷いが全部、嘘だったかのように薄れていく中で。
ただ静かであるほかない。静かすぎて、目の中にまで満ちてくるような、広い広い、菜の花の海だった。昼間は菜の花は、むせかえるような明るい黄色だけれども、夜になるとこうも変わるんだっていうくらい、おぼろげな黄色の、むしろ白に近い薄紙を千切って敷き詰めたようになって、それが遠くまで、ざわ、ざわり、と落ち着いた音を立てて広がっている。白い海だった。潤んだような春の夜空の下で、白い花の海面は、この世のものとは思えないような淡い輝きを放っていた。
あの世の花畑みたい。
静かでなんにもない――
風は、海の彼方からやってきて、冷たく柔らかく、私のほほを撫でて過ぎ去って行く。
「……どう?」
「……すごく綺麗」
「ふふ。だろうね」
奏之さんの声は、落ち着きを取り戻しつつあった私の、耳の上に柔らかく響いた。そのそばで、私は菜の花の海に目を奪われていた。
綺麗、という一言では片付けられない、かといって神秘な、とか不思議な、とかいう形容詞でも表し切れない、私の心をそっと溶かしていく風景。きっと、天国なんていうものがあるとしたらこんな景色が一面に広がっているんだろう。世界中で、奏之さんと私しかいなくなってしまったような、この花の海の前で、私はその風景の一部になってたたずんでいた。
そして、静かに思い出した。
私は、ここに来たことがある。
ううん。それどころじゃない。
この風景、この空気は――あの時と全部同じだ。
胸の内側で深く渦を巻いていた、負の思いが溶かされて消えていった分はっきりしてきたんだと思う。私の中で、もつれ合っていた記憶の糸が、一本だけに残ってつながっていた。
きっとこれは、あの写真を撮ったときの日。あの暮れ時に、私はいるのに違いない。どうして忘れていたんだろう。この肌を滑る涼しい夜の空気。頭一つ上から聞こえる奏之さんの声。全部あの日のまま、そのままで、身体全部にしみとおっていた記憶が、一斉に波立つように次から次へとよみがえってきた。
「……でも」
「ん?」
「何だか……悲しそう。誰にも見てもらえることなんてないのに……泣いてるみたい」
それは、私自身に似ていたからなのかもしれない。浮かび上がってくる思い出は、秘めた気持ちを伝えきれずに過ぎていった、あの夜のことばかり。つまりそれは、奏之さんの思いが私には向けられていないんだと分かった夜のことだ。
「……あいつも、同じこと言ったよ」
その声は、周りへ冴え渡っていくかのように話を始める。
「佳子さん……ですか」
「うん。ここ、佳子に教えてもらった場所なんだ……どうにも悲しくなったり、辛くなったりした時に来るんだって」
その言葉言葉が、かすかに震えているように感じたのは私の気のせいなんだろうか。夜の地面を埋め尽くす白い花の波の前でも、その声は確かに響いて来て私の耳に届いた。そして、胸の中をどんどんむなしさでいっぱいにするようだった。
「そう……なんですか」
「結局、どうしてなのかは分からずじまいだね。でも」
今だったら、分かるかもしれない、そう言って奏之さんは言葉を切る。私は、ずっと菜の花畑の方を向いていた。
そうか……
佳子さんもここに――
胸のうちにひとりごちて、私は思った。『まるで私は、佳子さんの後を追いかけているだけみたい』。実際そうなのだ。勝ちようのない追いかけっこ。前に見た奏之さんと佳子さんのキスシーンが、白い波の向こうに見えるようで私は、少しきつく口を結んだ。
私が抱えているは、悲しさとか辛さとかじゃない。苦しさだ。胸いっぱいにそれを詰め込んで、今私はここに立っている。
佳子さんと私とは、まるっきり違っていた。
「病気……だったんですよね」
「うん。元々体は弱かったんだ。それでもこの花畑には来たよ、好きだからってノートにも書いてた」
「ノート」
私が振り向くと、奏之さんはどこかやる方ない表情で微笑みを見せた。
「佳子は花が好きだったから……気に入った花のこととか、豆知識とか、何でもそれに書き留めておいてたんだ。どこ言ったっけかな、今じゃ」
その次に言葉を継ぎ足すこともなく、奏之さんも正面を見詰め出した。途切れた跡にはどんな話も持って来ることはできなくて(私もそのつもりはなくて)、目はまた菜の花の海に持って行かれてしまった。奏之さんの声はどこか、無理に話を終わらせようとしたようだったからでもある。
私にははっきり分かっていた。
今私は、『あの時』にいるのに間違いないことを。
私は『あの時』の再演をしているんだということを。
でも、また戻って来たからって、何になるっていうんだろう?
菜の花の白い海は、月の光の降る下で、時折ざわめいては静まってを繰り返していた。そのゆるやかな調子の中で私の心は、小さな星明かりのように今にも消え入りそうになっていた。疑問をふくらませるほどに。
『頑張っていってらっしゃい』――あの時の佳子さんの言葉は、一体何の為だったんだろうと思った。少なからず何回も。けれど今分かった。
佳子さんは分かっていたのかもしれない。私がこの菜の花畑の夜に戻って行くことを、ひそかに。もしかしたら知っているというより前に、こうなるよう仕掛けた張本人が佳子さんだったのかもしれない。刹那、あの完ぺきな微笑みが脳裏に浮かぶ。
だとしたら、どこまで意地悪なんだろう。これがあの時の追体験なんだとしたら、もちろんどんな展開が先に待ち構えているかも知っているはずだ。なのに、わざと……。
いつの間にか、夜風に吹かれる目許の辺りが熱くなっていた。
「……僕、またアメリカに行こうと思うんだ」
痛いくらいの沈黙が過ぎ去って、奏之さんは口を開いた。アメリカ、ですか、なんて鸚鵡返しの返事しか、私には返せなかった。
「大学の研修みたいなものだけど……ちょっとね。あ、前にしたかな、テキサスに行った話。あっちの方なんだ」
流れる夜風は、いやに冷たい。まるで私を縛るかのように、さっきまでよりも強くなって吹いて来る。それを体に受けながら、私はあの時通りの言葉を待った。そのわずかな時間さえも、心に刺さるように感じながら。
「今は……行きたいんだ」
その言葉は、まるで私には向けられていない、つぶやきのようにも聞こえた。
分かってる。
奏之さんが、心の底では誰を見詰めているかぐらい。分かってる。そしてそれは十中八九私じゃない。私と一緒にいてくれたのも、私の向こうに佳子さんの面影を見ているからなんだ――。
もう何も聞きたくなかった。こんな幻はいらない、もう全部を忘れさせてほしい、今はいない人の影を求められても、私は、私は……。
「しばらく……どこかへ」
――でも。
でも私は好きになってしまった。奏之さんのことが。
私は奏之さんのことが好きだった。
例え別人の影として見られていたって、私にとっては、ずっと一緒にいてくれたこの数年間は何よりも大事な思い出だった。宝物だった。
どうしてもこの『好き』っていう気持ちだけは消せなかった、ううん、消せるわけない! この気持ちを私はどうすればいいのか、私は知らない……。
突然、菜の花の海を越えて来た風が、私の体を包み込んで来る。辺りは夜になって、風が強くなり出していた。
――でももしも、今奏之さんに気持ちを打ち明けられたら?
風に紛れて、そんな声が脳裏に浮かび上がる。
確かに、今打ち明けられたら。これはあの菜の花畑の夜の再演なんだから、何をしたって過去が変わるわけじゃないのかもしれないけど、もしかしたら。ここで私が、自分の思いを口にして奏之さんに伝えたら、奏之さんは……とどまって、くれるんだろうか。
『言えないよ……そんなこと……』
でも私にはその勇気がなくて、苦しさに指を固く握り締めた。そんなこと言ったら、奏之さんはまた佳子さんの面影を引きずって行くことになる。奏之さんの心を痛め付けてしまう――。それだけは絶対いやだった。
『どうしたら……どうしたらいいの……っ』
胸の底で燻る本心が、喉のすぐそこまでふつふつと込み上げて来る。けれどもそれは言葉になんてできない。その苦しさのせいで、奏之さんの顔すら見られない。
私はいつしか泣いていた。めちゃくちゃに二つの気持ちがせり上がって来て、何を解決するすべも持たずに、ただ涙を流していた。巻いて吹く風の中に、一人で。
―― ダメだよ、泣いちゃ ――
どこからか、そんな声が降って来る。奏之さん、なんだろうか。
「でも、私……っ、奏之さんが好きなのに、何にも、何にもできないの……」
―― だったら、泣いちゃダメ。その気持ちが、確かにあるんだったら ――
えっ、とその言葉に顔を上げると、風が急に回り出して景色は闇に遠ざかって行った。
5
気付けば私は、白い布団の上に顔を乗せていた。
「おはよ」
柔らかな声が話しかける。驚いて、身を起こすと、そこは小さな病室の中だった。
「お疲れ、だったのかしら」
ベッド。
その枕元のサイドボード。
菜の花一束が生けられた、硝子の花瓶。
それから、サラリと揺れる黒髪の間にのぞく、穏やかな微笑みの表情。
佳子さんは、ベッドの上で私のことを見詰めて笑っていた。
「あ、え、え、えっと、あの、その……」
私は寝ていたんだろうか。さっきまでのこと、あの菜の花畑の景色がまだまざまざと思い出せるのに、ふと我にかえるとこの病室にいる。この不思議を処理できないまま、私はとにもかくにもベッドに寄り掛かっていたのを謝ろうとする。
でも。
「夢を見ていたのね」
佳子さんは慌てる私の心を見透かしたように笑みをこぼした。パクついていた口が、一瞬止まる。
「そ、その、そんな夢なんかじゃ」
「うなされてたわよ、ひどく」
今度は目を袖でこする私を見て、佳子さんはおかしそうに目を細めた。その様子はまるで、今まで薄暗いと感じていた部屋の景色に溶け込んで私を拒絶しているかのようで、私は起きてすぐのぼんやりした頭にそれを不快に感じた。
「奏之……さんは?」
「奏之さん? 中南米ってさっきあなたが言ったじゃない」
よほど疲れてたのね、と付け加えて佳子さんは言葉を続ける。
「椅子に座ってしばらく話してたら、コテンとうつぶせになっちゃって。寝入っちゃったみたいだからそっとしておいたのよ」
「つ、疲れてなんか……!」
ついさっきまで見ていた『あの夜』のことを、全て否定されているようで私は思わず椅子から立ち上がった。
「それに! 私はドアがノックされたのに答えに行って、だから私はベッドの上で寝てなんか」
「何のこと?」
でも立ち上がったのにもまるで驚いた表情を見せずに、佳子さんは私の言葉を唐突に断ち切った。今度は薄翳りの部屋に似つかわしいくらい、不気味な笑みを浮かべて。
「ノックされた? 私は知らないわよ」
「そ、そんなこと」
「ごめんね、あったとしても全然記憶にないのよ」
――嘘だ。
私は心の中でそう言った。この人はあからさまに嘘をついている。知らないふりをしている。目がそう言っている。あれは私をからかって楽しんでいる目だ。
すがりつく手を邪魔されたようで、私の中には憤ろしい気持ちが渦を巻き始めていた。この人は、やっぱり嫌いだ。
「休んで行くのはいいけど、寝ぼけるのはちょっと、ねぇ」
私は乱暴に椅子に座り直して、真っ向から苦笑顔を睨み付ける。
「寝ぼけてなんかいません」
「どうしたの? 怖い顔して」
「あれは……さっきまでのことは夢なんかじゃないです」
「どういうこと?」
「だ、だっておかしいです! こんなにはっきり覚えてるのに……席を立ったことだって、ドアの所に行ったのだって……! そ、それに佳子さん、いってらっしゃいって声かけてくれたじゃないですか」
「んー……いってらっしゃい? それも覚えてないけど」
「とぼけないで下さい!!」
拳を握り締めて、私は声を張り上げた。
私がこんなに不自然さ、理不尽さを訴えても平然として、むしろ余裕な表情すら笑顔に垣間見せているこの人を、私は許せなかった。
「それに! それだけじゃないです、夢、だって……夢だって、変にリアルでした! あの日の、あの日のままでした」
「あの日って?」
細くなった目がキラリと光るのを見て、その時私は確信した。『あの日』のことを言わせたいんだ。忘れたいくらい辛くて言いたくなくなっている、私の口から直に。
「……あれは、あの日は夢なんかじゃないんですっ」
「へぇ」
「あれは! あれは確かに私の、私の……私が前、奏之さんとあの丘へ行った時のことです」
「……前、か」
意味深に、佳子さんは目をつぶる。何かを思い出すように。きっと、自分の思い出に浸っているのに違いない。そう思って私は口を開いた。
「私の勝手な想像ですけど。佳子さんが見せてくれたんじゃないですか、あの場面を」
佳子さんは、なおさら笑いを堪え切れないような表情になる。
「私? 私が、か……フフ、だったら超能力者かな、私」
やっぱり。あくまで冷静に話を受け流すように見せて、とぼけてみせる。私はなおさら、話を途切れさせない。
「はぐらかさないで下さい。今、私がこうしているのも、多分……きっと夢です」
「だったら?」
けれどもその時の佳子さんは、言葉の空気をがらりと変えていた。
「だったら……どうするの? これが本当に夢だっていう証拠はある? ないでしょ、ほっぺつねってみて」
私は意地になって、自分の頬を思い切りつねる。皮膚が千切れるんじゃないかっていうくらい、痛いだけだった。
「確かに、これが夢じゃないっていう証拠はない。けど、周りの世界が夢だって言っても何をすればいいのか。それ、分かる?」
佳子さんの表情から、言葉から微笑が薄れて、そこには空ろな声のつぶやきが残った。独言と間違えるような。目線も憂鬱そうに遠くに向いていた。
私は、放り出されたも同然だった。からかい尽くして飽きたんだろう、その横顔は明らかに私を拒絶していた。それと同時に、私が見た『あの夜』も私の思いも、全て夢として切り捨てていた。
ほのかに翳りの濃くなる病室の中で、私だけが取り残されて孤立していた。窓の外の、どこまでも透き通って行く青色が一層鮮やかさを増して行く。
少し身構えて、私は拳を固く握った。やり返す言葉を出せない悔しさに、うつむいて黙っていた。
「……分かりません」
小さな声だったけれども、私はしばらくの後に答えを出した。
「だけど、だから……怖いんです。どの世界が夢で、どの世界が夢じゃない、なんて私には分からないです」
うつむいたままで、佳子さんの方は見なかったけれども、何の返事も反応もなかった。
「……でも、夢ってことはいつか覚めるんです。その時……今までの、今までのが夢だったんだって気付くんです」
「…………」
「それが怖いんです。今までのことがみんな夢だなんて思うと……私、奏之さんのことが好きなんです。いくら奏之さんが佳子さんのことを好きだったって、私は好きなんです。どうしようもないんです」
「……そう」
「だから……っ、奏之さんとは今まで色んな時間を過ごして来ました。二人で出かけたり、大学にも連れて行ってもらいました。色んなとこに、色んなとこに……連れてってもらって。でもそれが消えるなんてイヤです。イヤなんです。奏之さんを好きだった時間が、簡単に消えちゃうなんて……イヤ、なんです……」
自分でも分からない内に、私の声は詰まった涙声になっていた。それが分かった瞬間、膝に置いていた両の拳に熱い雫が落ちるのを感じた。私は泣いていた。
もう、限界だったからだろう。苦しさが、一気に目から溢れ出て止まらない。目をつむっても、溢れて溢れて切りがなかった。
―― どうすればいいのよぉ……私……
二つの思いは、私の心にはもうとどめておけなかった。
「本当に?」
「……っ、はいっ」
「その気持ち……確かなのね」
「はいっ」
「じゃ、いいわよ」
しゃくりあげながら顔を上げると、佳子さんの顔には、さっきと打って変わってとても柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「ごめん。泣かせるつもりはなかったの……ちょっと、意地悪しちゃった」
「……えっ」
「その一言が聞きたかったのよ。あなたの気持ち」
ベッドの上で佳子さんは、嬉しそうに、そしてどこか申し訳なさそうに弱く微笑んで私を見詰めていた。その目の先にいる、当の私はまるで訳が分からなかった。呆気にとられたようにぽかんとするしかない。
「……確かに、さっきのは私が見させた夢。なかなかリアルだったでしょ? 大体はここから見えてたから」
そう言いながら、佳子さんは手を伸ばして、そばの硝子窓を開けた。その途端、開く音を打ち消すほどの空気の塊が窓から溢れて来る。咄嗟に腕で顔をかばったところを、『ちょっと外、見てみて』と誘われて、私は言われるがままにふらふらと席を立った。
「危ないわよ、気をつけて」
という言葉を耳にしながら、私は窓のアルミサッシに取りすがって外を見る。なおもぶつかって来る激しい空気の流れの向こうに見えたのは、信じられない景色だった。
「ふわぁ……」
私は、一瞬自分のいるところがどこなのか分からなくなって、足から力が抜けかかった。
窓の外――そこは果てしない大空、と言うのがいいのかもしれない。一面に綿のような雲が何層も敷き詰められた、そこは紛れもない雲の上で、私は窓枠で体を支えながら立って目を丸くしていた。
風に押されながら左右を見ると、両方ともに黒ずんだコンクリートの壁が続いていて、閉ざされた窓が点々と並んでいた。音は風の音だけ。壁の下の方は雲に埋もれて、そのそばで途切れた雲の隙間には、砂粒が詰まっていた。違う。それは砂粒じゃなくて、遥か下方の人間の街だった。
「お察しの通り、私はもうとっくに死んだ人間。ここはあの世」
『あの世』の一言に、驚いて振り返る私。
「えっ!? あの世って」
「大丈夫。あなたはちゃ~んと帰れるから」
逆に明るく気さくに笑いかける佳子さん。でもその実態は幽霊。私は驚くにしても、突然打ち明けられた真実が、全く信じられずに、言葉さえ忘れていた。
「そろそろ閉めるね」
「あ、あ、はい」
声を出してみたけれども、返事になっていなかったんじゃないだろうか。変に周りが気になり出した私は、キョロキョロしながら席に戻った。
「下、よく見えたでしょ? 雲がかかってなければほとんど丸見えよ」
少し前まで刺々しい言葉を突き付け続けていたとは思えない、イタズラに引っ掛かった獲物を見るような、小悪魔じみたスマイルに、私は少し眉をひそめた。何も分かっていないのは私だけだったことになる。
「でもね、いくら何してるのが見えたって……何考えてるのかは分からないんだ」
幽霊って言ってもエスパーじゃないから、と付け加える佳子さんは、何だか寂しそうな笑みを浮かべていた。その言葉は佳子さんが自分に言い聞かせているようにも聞こえて、私は出そうとしていた声を引っ込めた。
「今日はね……あなたと奏之さんのこと、聞きたくてここに呼んだの」
「え……奏之さんと、私のこと、を?」
「うん。もちろん、あなたの気持ちを聞きたかった。むしろそっちの方が大事かな。でも」
今までの強気な態度は、ほとんどなくなっていたように思う。
「こんな時じゃないと聞けないから……ね」
本当に、さっき私が嫌に思っていた佳子さんなんだろうか。まるで別人、と感じる私の胸の中には、重い渦を巻いていた負の感情がいつの間にか姿を消していた。
その時に気付いたんだけれども、佳子さんが足を伸ばしているベッドの裾の方、本当なら膝下があってふくれているはずの毛布は、一切厚みがなくなっていて平たかった。
『本当に、幽霊なんだ……』
それは当然のことなんだけれども、妙に胸に沈んで離れなかった。
6
私が奏之さんと初めて会ったのは――もう知ってるかもしれないですけど、私が高校生の時のことです。その時、私はまだ高一で……奏之さんは高三で、でも、まるで何歳も年上みたいに大人びて見えたのを覚えてます。
その時、私アルバイトをしてたんです。って言っても、そんな大したことないんです。お父さんの知り合いの喫茶店で少しお手伝いさせてもらってた程度で、アルバイトって言うより、手伝いというか職場体験というか……。そこで、奏之さんと出会ったんです。あの町の駅前の喫茶店で、華盛頓ってお店なんですけど……丁度、夏から秋に変わって涼しくなった頃だったと思います。
うちのお店、学校に近いから高校生とか、時たまに大学生とか、よく来るんですけど、その中に奏之さんがいたんです。
『栞ちゃん』
『あ、はい !どうしたんですか、店長?』
『……さっきからさ、あのテーブル席のお客さん、気にしてるみたいだけど。そういうの、あまりしない方がいいよ』
店長は表情を曇らせてそう注意するんですけど、私は納得いきませんでした。
『でも……何だかすごく悩んでるみたいなんです』
『いいんだ。うちにはよく、試験が悪くて落ち込みに来る学生が多いんだ。大方あれもそんなところだろう』
声をひそめながら盗み見るんですけど、カウンターから一番遠い、端っこのテーブル席にいるそのお客さんは、背中が小刻みに震えているのがはっきり見て取れました。
『……それにね。こういう人の集まる店は、どんな人間が来るか分からないんだ。人によっては悩みを抱えているのもいるし、抱えていないのもいる。抱えていたとしても一様じゃない。 ……残念だけど、きっちり相手をしてたらきりがないんだ』
そう言うと店長は動かしていた手を止めて、そっと一杯のコーヒーを私に差し出しました。
『あのお客さんからさ。普通のウェイトレスとして、行っといで』
不承不承、私は、はい、って返事をして受け取ります。
でも私は、それを運びながら考えました。いくらきりがないからって、あんなに真剣に困っている人を簡単には無視できない。そう、心につぶやいていました。周りが、来客のにぎやかな声で満ち溢れる中で、行く手にある学生服の背中だけが、景色の中で妙に浮かび上がっていました。
『……コーヒー、お待たせ致しました』
『あ、ありがとうございます』
複雑な気持ちで声をかけると、振り向いた顔はひどくやつれて、やっぱり悲しそうに見えました。それが奏之さんだったんです。
『あ、あの……コーヒーを』
『…………』
『……あの、お客……様?』
『あ、は、はい、すみません、ありがとう、ございます』
そう言うなり、奏之さんは慌てたようにコーヒーをティーソーサーごと取って、またテーブルに向き直ってしまいました。それっきりです。
ウェイトレスとしては、お客様にご注文のお飲み物を届けて、それではごゆっくり、で終わりです。私も実際、店長に釘を刺されていましたしそれで終わりにしようかなとも思いました。けど、けど放っておけなかったんです。焦って向けた背中が、何だかとても寂しそうに思えて……。
私は、戻ろうかどうしようかウロウロと迷った末に、心を決めて、口を開きました。
『あ、あの、お客様……? どうか、なされたんですか』
今から思うと、私の方がよっぽど緊張していたかもしれません。固まった声を出し切って返事を待つと、いかにも意外そうな、ぽかんと口を開けた顔がこっちに向きました。
『あ、い、いえ、やっぱり何でもないです! お客様が、何か落ち込んで見えたような気がしましたので……勘違い出したら申し訳ありませんっ! 失礼致しました!』
やっぱり、私の方がおどおどしていましたね。でも、これで精一杯の言い訳だったんです。私、元々……人見知りなので。
顔を赤らめながら、そう言葉を並べ立てて早足に戻ってしまおうとした時です。
『ま、待って』
少し、大きく聞こえた気がしました。明らかにさっきの声、奏之さんの声です。私は、心臓の辺りが熱くなり出すのを感じながら、ロボットさながらにぎこちなく振り返りました。
すると、奏之さんはこっちを引き止めるかのようにまっすぐ私を見ているんです。
『あの……ありがとうございます』
少しどもった声で、一言、さっきと同じ返事が返って来ました。奏之さんって昔は、今とは違って人に何か言うのが苦手だったんですね……え、あれ昔から、なんですか……。
私にお礼を伝えて、二三度振り向きながらまた姿勢を元に戻して……それで、その時は終わりなんですけど変に記憶に残っているんです。何だか、私が声をかけた時の表情がとても驚いていたように見えて。その視線は間違いなく、私を射止めていました。
それから、奏之さんは何度か店にやって来たんです。大抵は、最初の日ほどではないにしろ沈んだ雰囲気をまとって来店していました。一人で、ですね。私も一度声をかけてからずっと気になっていて、軽い挨拶とか、元気、出して下さいとか、ことあるごとに話しかけていたんです。
私がウェイトレスをしていて、ほとんどのお客様は接客していても仲間でのおしゃべりに気を取られているか。もしくは……その、ナンパ、って言ったらいいんでしょうか、浮ついた調子で引き止められるぐらいだったんです。けど、奏之さんは違ってました。
私が声をかけるのに、最初は言葉少なに反応していただけだったんですけど、だんだん、『ありがとう』って笑顔を見せてくれるようになったんです。まだ、少し暗い表情は残ってましたけど……とても優しくて、逆に働いていた私を励ましてくれるようでした。変かもしれないですけど、私は……そう感じました。
そんな風に接していて、年が明けて……気付けば春になっていました。私は高二に、奏之さんは大学に進むことになっていました。ややこしいお客にはあんまり深く接しないよう言い続けていた店長も、黙って見ていてくれるようになって、でも私は、その時奏之さんが大学に進学することぐらいは知ってましたから……諦めていたんです。きっと離れ離れになってそれで終わり、相手も私のことを、ちょっとすれば忘れるだろう、って。
でも違いました。
『え……これ、わ、私に……ですか?』
『うん。本当、君にはお世話になったから』
ある日、店に来た奏之さんが一番に私のところへ来て、その、プレゼントをくれたんです。
『わ、悪いですよ! 私が、こんな……それに私ウェイトレスで、その……』
私が慌てて断ると、奏之さんは静かな笑顔で首を振りました。
『ウェイトレスの君、じゃなくて君個人に受け取ってほしいんだ。あ、もちろん、無理に受け取らなくてもいいけどね』
少しはにかんで差し出していたのは、丁寧にラッピングされた、黒い花飾り付きのヘアピンひと揃いでした。
『こんなので喜んでくれるかどうか、分からないけど……。君にはとても励まされたんだ。僕の周りででも、お店の人でも、君が一番僕を気遣ってくれた』
だから、恩返しがしたいんだ、そう奏之さんは笑いかけてくれました。店に来た最初は目を向けられないくらい落ち込んでいたのに、その時はそれまでで一番、穏やかな笑顔でした。
私……もうその時には惹かれていたのかもしれません。奏之さんの微笑みを見て、胸の辺りがとてもあたたかになっていたんです。そんな気持ち、それまで感じたこと、ありませんでした。
その後、私はしばらくして正式に喫茶店のアルバイト店員になって、変わらず働いていたんですけど、奏之さんはずっと通い詰めてくれました。
大学のこととか、自分のこととか、色々物語でもするみたいに楽しく話してくれて……私はそんな時間が好きだったんです。いつの間にか、奏之さんが来るのを心待ちにしていたくらいです。
……佳子さんのことを聞いたのはその中でです。
『……実を言うとね。最初見た時、佳子が戻って来たんじゃないか、って思ったんだ。それで驚いてた』
佳子さんのことは、一番仲がよかった友人って言ってました。けど、打ち明けてくれた表情がそうとは思えなくて……。その時だけ、その話題に触れた一瞬だけですけど、初めに店に来た時のような、寂しそうな笑顔になったんです。
それで、私は全部分かってしまった気がしたんです――。
――私が話を終えると、佳子さんは開口一番でため息まじりの声を口にした。
「……黒い、花飾り付きのヘアピンセット、か」
「はい、こんなので喜んでくれれば、って」
佳子さんはいかにも得心した口ぶりだった。黒いヘアピンがそんなにも私にお似合いだったんだろうか。でもそういう趣向の問題ではないだろう。皆目意味のわからない私は首をひねるけれども、そんな苦笑ぎみの表情になるのも、実は当たり前と言えば当たり前だった。ため息声の後、佳子さんは『それ、私のプレゼントとそっくり』と言った。
「えっ、それって本当のことで……」
「そうね。少なくとも見てくれは同じだったかな。でも新しく買ったものだろうし……私のことをあなたに重ね合わせていたのなら、これ似合うかな、って思い立っても不自然じゃないわね」
奏之さんのことだから、と独り言じみて言う佳子さんは、苦笑ぎみと言うよりも、やるせなさそうな笑顔で窓の外を眺めていた。私はその横顔を見詰める。窓の閉まった、なんの変わりもない紺碧の空に何を見出しているのか。黄昏れているようでもあり、何かを悲しんでいるようでもあり、私はパイプ椅子の上で縮こまるくらいがせいぜいだった。
あのプレゼントは、佳子さんいわく奏之さんの趣味、と言うより私の姿の後ろに佳子さんの影を偲んでいたからの選択だったということらしい。奏之さんの気持ちはそんなにも佳子さんを追い求めている。佳子さんが引きつけているんだろうか。とすると、私はこれまで無駄を重ねてきたんだろうか。
まるで私の方には向かないベクトルに、私は、もうさっきの怒鳴り声の勢いは持ち合わせていなかった。けれども逆に、不思議と全部を受け入れられるくらいに気持ちが固まっていた。胸の内のわだかまりがすっとどこかへ落ちていくような感覚がした。
「佳子さん」
「え、どうかしたの?」
「やっぱり、私……私、佳子さんにはかなわないと思います」
そっと指を固く握って、胸の中に思いを確かめる。
きっと奏之さんが佳子さんを好きでいるのは、これからも変わらない。いくら私に優しく接してくれたとしても、誰かを思う気持ちの矢印は、佳子さん、あなたに向けられているんです。
私はまっすぐ、佳子さんを見詰めた。視線が交差し合うそこに、私は迷いも逡巡も感じてはいなかった。諦め、というよりも奏之さんを、『好き』でいる気持ちが強くなった、そんな風に感じたのだ。
でも佳子さんは、フフ、と含み笑いをこぼして、言う。
「あなたね。やっぱりそう言っちゃうのかな」
別に、私はもうムキになっているわけじゃない。確かに諦めている気持ちは多少なりともあるかもしれないけど、言葉言葉に刺を感じ取って声を荒げるほど、感情的じゃない。意味深な微笑みの真意が、こっちを気遣っているのか何なのか理解できなくて、私は詰め寄ってみる。
「じゃあ聞きますけど、佳子さんは私の気持ちを確かめたくて、私と奏之さんの場面を見せたんですよね」
「もちろん」
「そしてわざと、奏之さんの話題を話させるまで精神的に私を追い詰めた」
「精神的って……だからそこは謝るわ、ほんとに申し訳ないと思ってるわよ」
「いいえ、それはもういいんです。ちょっと言い方が過ぎました」
「もうっ」
「でも、あの真昼間の菜の花畑もそうなんですよね? 奏之さんを好きでいるなら、その過去にはあんな場面もあったんだって自覚させる為に」
私の話がここまでさしかかると、不意に佳子さんの表情は途切れた。
「え……真昼間の?」
不思議そうな顔だった。首をひねるのはもちろんのこと、身に覚えがないとでも言いたげにベッドの上で目を泳がせて考え込んだ挙句、
「分からないわ、そればっかりは」
と言った。私は目を丸くする。分からないのはこっちの方だった。
「だって……見たんです。日の照る中の菜の花畑で、奏之さんと佳子さんがキスしていたところを」
自分の知らないことだけに、佳子さんは私の言葉に興味津々で耳を立てていた。私はてっきり、最初から最後まで全部佳子さんの仕業と思っていた。そして、それが間違いだったなら、あんなに剣幕張って悪かったな、と声を小さくして話を最後まで続けた。
「ついでに、その時の佳子さんの顔が私に刷り変わっている場面も見ました」
「え、私の顔が、あなたに?」
「そうです。間違いありません」
それを聞くと、佳子さんはいきなり笑い出した。おかしくてたまらないというように。逆に私は至って真剣だ。笑われるゆえんなんて一つもないんだけれど、その分私は理不尽さを顔へ露骨に出して反抗した。
「……何がおかしいんですかっ」
「フフフ、私、そこまで気を遣った演出はしてないわよ」
じゃあ何だって言うんだろう。なおも笑い声が前の方から次々とこぼれて来て、それが済んだかと思うと変に納得したうなずきが目に映った。
「きっとね、あなたが自分でかなわない、かなわないって思っていてなおかつ奏之さんといたいっても考えてるから。だから奏之さんと私がいるシーン、奏之さんとあなたがいるシーンをそれぞれ見るの」
「……私がそう考えていたからですか」
「少なくとも。これ以上、もう嘘は付かないつもりよ、私」
そう言う瞳はさっきの、人を追い詰めるような細く曲がった目じゃなしに、面白そうなことに首を突っ込む小動物のそれだった。
「多分あなた、こういう悩み抜く恋になると相手のことまで考え出して悶々とするでしょ」
それは私という人間を言い当てて、キラキラし始める目付きであるとも言う。
確かに、そうなのかもしれない。
私がああだったら。
あんな風に奏之さんの隣りにいられたら。
でも奏之さんのことを考えると、今まで通りの恋愛像がぴったり合っているようにも思う。
私の全く知らないところでこのダブルバインドは現われて、私を縛って逃げて行く。それをこの人は少ししゃべったくらいで看破するんだから、自分より数倍知的で素敵な人格の持ち主なんだ、と私は観念した。私が恋の駆け引きに勝てっこないのはなおさらのことなのだ。
でもここになって、佳子さんはそれを裏返す不思議な形容詞を口にして私をまた一つ困らせた。
「あなた、私と似てる気がするの。だからこれこれこういう行動をするんじゃないかな、って性格的に読めて来る」
つい数分か前の剣呑な雰囲気はどこへ呑まれて消えたんだろう。佳子さんは明るい笑顔を見せるけれども、私は未だに不思議でいた。
「そ、そんな、似てなんて」
「ううん。だって奏之さんも言ってたでしょう? いい加減、信じるところは信じてみたら」
まるで屈託のない笑い方に、私は逆に顔が熱くなる思いだった。
「……現実ひどく引っ込み思案で出られないところ、いざとなったらどうしていいか分からずに悶々とするところ。どうしてこうも同じなのかしら」
「佳子さん、そんな性格だったんですか」
「親しい人にはね、バレてたみたい。奏之さんにも」
そう言って、またおかしそうに笑う。
結局、同じような性格だからこそ見えていた私の落ち込みように、いたたまれなくて何とかしたくなった。それが佳子さんの真相で、実は始めから私のことをよくよく考え抜いていた、ということだったらしい。どこまで気を遣われているんだろう、私は。ばからしくなって、私も一つ、笑みをこぼした。
そしてひとしきり笑い合った後、佳子さんはこう言った。
「だからね。お願い、奏之さんの支えになれるように、私のことなんて忘れて」
深い息でもつくかのように、佳子さんは言葉を結んだ。
実際はこんな一言だけど、それを口にすると決めた心の内側ではどれだけ辛い思いが重なっているんだろうか。私は、それにいたたまれなくなって席を立つことにした。
「私、もう行きます」
「そうね。そうした方がいいかも」
後に残る景色はいつも、名残惜しいというか、おぼろげだった。元々薄暗い部屋の中は、闇を薄く広く伸ばして、佳子さんを空気ごと呑み込んでいた。
私がドアノブを開けようとする時、私は佳子さんから一冊のノートを受け取った。あせたアイボリーの大学ノート。一番大事にしていた宝物を、私はもらい受けたことになる。
「ここでは……あの世ではね、いらないから。どうせ見る花も何もない」
寂しそうな横顔を尻目に、私は、そういえばと言葉を一つ、加えた。
「佳子さんのこと、忘れません。だって一生のライバルですから」
周りからみたら、みんな吹っ切れた表情なんだろう。でも忘れないと決意したことには変わりない。ありがとう、という涙が一筋、白い頬をこぼれた。
7
客の閑散としたバスの中に、深緑のシートが長く並んでいた。一人がけの座席の最後尾で、細かく揺られる吊り革を眺めて、私は目が覚めた。
いつかと同じ光景。
それは菜の花畑の幻と直結していたことを鮮やかに覚えている。でもそれは、今は違う。手元に残るノートを、私はそっと開いた。
『競争』
『快活な愛』
『豊かな日々』
『小さな幸せ』の他にも、菜の花の花言葉はここに隠れていた。『競争』だけを引くと、佳子さんと私が奏之さんを巡って争ってだけに見えたかもしれない。けれども残り二つは、奏之さんと私に向けられたエールにも思えて、純粋に私は嬉しかった。
バスの走る行く手には、ぽつんと停留所が浮かんで陽炎に滲んでいた。人影が一つ、白いシャツの腕を降っているのが見えた。