6.悪魔と呼ばれる女
翌朝、目を覚ました私の傍にやはりカリスはいなかった。
眠っている間、夜の冷気より子狼の身を温める母狼のように、眠る私の身体の傍にいたのは知っている。気付かないふりをしていたが、本当は半分起きていたのだ。
カリスが何を想っているのか、私にはやはり分かり得ない。それでも、狼姿のカリスから伝わってくる温もりが心地よかった事だけは確かであった。
いなくなる理由は何だろう。
昨日は狩りにでも出かけているのだと思った。或いは、温めているという憎き魔女アマリリスの様子を見に行っているのだろうか。
何処へ消えているのかも気になってはいた。
遠くに離れているのか、もしくは、意外とすぐ近くに潜んでいるのか。そもそも、人狼は姿を消してどのくらいの距離をどのくらいの速さで移動できるのだろう。
考えればきりがない。
その多くは今の私にとってさほど重要でない事ばかりだ。だが、何故だろう。カリスの事が気になり始めている自分に気付かされた。
すっかり日も登りきった中、私は一夜を明かした場所よりすぐそばの高台へと登り、辺りをぐるりと見渡した。目指している方向に聖なる山は見える。そう遠くには見えないが、歩けばそれなりの時間と労力がかかるだろう。
それでも、私には歩くという手段以外なかった。
馬なんて連れていないのだから。
「いよいよ、ジズの山ね」
何処からともなく声がして、私は振り返った。
昨夜の焚火の消し炭の傍、カリスが寝ていただろう辺りに、グリフォスはいつの間にか姿を現している。朝焼けの消えぬ空の明かりに浮かび上がる青いサファイアの目に見つめられると、不思議と心臓が止まりそうなくらいの寒気を感じた。
――悪魔。
カリスがそう呼んでいたせいだろうか。
「あなたが人狼の言葉に動かされなくて安心したわ」
色気ある眼差しでグリフォスは私を見つめる。
朝焼けの幻想的な時間帯の影響もあるのだろうか、迂闊に近づいてはいけないと思うほど、サファイアの姿を借りたその悪魔は美しく見えた。
「見ていたのか、昨夜の事を」
そう訊ねつつ、私はグリフォスの傍へと降りた。
近くに寄ればよるほど、グリフォスが当り前の肉体を持っていることがよく分かる。亡霊でもなければ、目に見えない悪魔の印象とも違う。サファイアそのものであるという肉体を持つグリフォスは、その言葉通り死人が甦って来たとしか思えない。
その結果私の内面に生じるのは、懐かしさと恋しさだけではなく、大きな不安をもたらすような動揺だった。
見れば見るほど怖くなる。
このグリフォスという存在が。
「ええ、勿論」
グリフォスが笑うように答えた。
「生まれた時からの信仰の為に夫の仇の身を守る狂信者。人間を喰い殺し続けるその口で、あなたの心をかき乱す危険な女人狼」
魔術でも唱えるようなグリフォスの口調に、私は段々と不安になってきた。サファイアの身を借りた恐ろしいこの悪魔が、カリスに怒りを抱いていたらと思うと、妙に恐ろしくなってきたのだ。
私はカリスの身を按じているのだろうか。人間を食らう人狼であるはずの彼女の事を。
「カリス。その姿に相応しい美しい名を持つあの女は、もう数え切れないくらい私の邪魔をしてくれている可愛らしい子なの」
優雅に笑いながらも、グリフォスの目は笑っていない。
その視線を捉え続けるのが苦痛に思えて、私はそっと足元へと目を逸らした。
「……数え切れないくらい?」
私の問いにグリフォスの頷く気配が伝わってきた。
「私がしたい事の多くを阻んで、私の姿も絶えず見張っている。すべては夫の仇であるはずの魔女の為。忌まわしき《赤い花》の為よ」
――《赤い花》。
カリスは言っていた。《赤い花》が悪魔の目論見を失敗に追い込むと。その結果、私の抱くたった一つの願いも敵わないだろうと。
「お前はその《赤い花》を恐れているのか?」
私はグリフォスに訊ねた。
悪魔と呼ばれていた女。私にとっては肉体があり、触ることもできる死霊に過ぎないが、カリスが恐れていた通りの力はあるらしい。そんな彼女が絶滅寸前の魔女《赤い花》を恐れるというのだろうか。
「そうね、恐いわ」
あっさりと彼女は認めた。
「力は衰退し、その血すら滅亡しかかっているのに、こうも上手く私の前に現れてしまう事が狂おしいほど忌々しい」
笑みを崩さずにグリフォスは言った。サファイアの姿で、声で、彼女は私の知らない魔女の名を呟き、呪う。
アマリリス。
「わたしがサファイアを選んだのも、彼女が恋しがっているのが優秀な魔女狩りの剣士だったから。後はあなたが頼り。もしもわたしが《赤い花》に屈する事があるならば、あなたは一生ミールと再会出来ないわ」
「屈する……」
その言葉を繰り返すと、苦笑が浮かんだ。
「あるのか、そんなことが力あるお前に」
「今のままでは、ある。かつての《赤い花》が力を失っていったように、悪魔とさえ呼ばれるわたしも力を失ってしまった。アマリリスがもしもサファイアの身体を壊してしまったら、わたしは再び黄泉の国へと引き返してしまう。再び甦られたとしても、《赤い花》の手にかかった身体に戻って来ることは出来ないの」
「つまり、お前が《赤い花》に殺されれば、もう私に手を貸せない、ということか?」
「ええ、そう」
グリフォスは静かに頷いた。
提示された可能性。不安が押し寄せてくるものに違いなかった。私がミールを取り戻すには、グリフォスの力は必要だった。今のままでキュベレーに立ち向かおうにも、その姿を拝む事すら難しいのだから。
だが、それだけではない。
私は単純にグリフォスを殺されるという事が恐ろしかった。何故なら、彼女が借りているのはサファイアの身体なのだ。人狼によって無残に喰い荒らされて死んだサファイアを、もう一度暴力の下に曝すという事はあってはならない。
絶対に、されてはいけない事だった。
「分かったかしら? 《赤い花》のアマリリスは敵。あなたの剣を見れば恐れて動けなくなるような弱々しい魔女。けれど、その本質は、あなたとわたしを地獄に落とそうとする破滅への導師」
そして、とグリフォスは目を細めた。
「その《赤い花》を大切に抱えるカリスも、あなたの敵に違いない」
敵。
その文字が薄っすらと頭に浮かぶ。
グリフォスの強い魔力を伴った言葉と、それに影響される私の心と、そして、一晩の優しい温もりを忘れられない私の肌とが反発しあっているような落ち着かなさが、私の中で現れ始めていた。
そして、その困惑の元にいる私を、グリフォスはしっかりと見つめていた。