4.善意の説得
巡礼。その言葉を最初に持ちだしたのはグリフォスの方だ。だが、その言葉を使い続けているのは私だ。不適切だろうと思いながらも、気付きながらも、「巡礼」という言葉と共に私は破滅への道を歩いている。
もう既に目の前にいるこの狼は悟っているのだろう。
騙されたわけではない。騙されたとは、もはや言えない。全てを理解し、全てを把握したうえで、私はグリフォスに導かれているのだから。
だが、カリスは首を横に振る。
「お前が理解していると言おうと、騙されているのは変わらない」
そう言って、彼女は周囲を見渡す。その何処にもグリフォスの姿は無い。姿を消している間、彼女が何処でどうしているのかは分からない。見ていると言っていたのは確かだ。しかし、カリスにも彼女の気配が正しく捉えられているわけではないようだった。
人間以外の何者でもなかったサファイアの身体を引きずった彼女が、どうやって人狼から姿を隠すほどの力を発揮しているのか、私には想像すら出来なかった。
「巡礼だなんて……」
吐き捨てるようにカリスは言った。
「あの女は人食いだ。私のようなただの魔物ではなく、お前の愛した人間の女の身体で同じ人間を喰っているのだぞ? そんな化け物の言う事を聞くのか?」
「グリフォスが何者であれ、ミールを甦らせる力があると言うのなら頼りたい」
私は正直に答えた。
「たとえ彼女が化け物であっても、サファイアの尊厳を穢しているのだとしても、どうしても彼女を拒む事は出来ない……」
濁りのない言葉と共に見つめると、カリスは口籠った。
その目は、私を蔑んでいるのだろうか。けれど、それにしては彼女の目に、見る者を圧倒するような獣らしい威厳が宿っていなかった。
「人間よ」
やけに力を失った声でカリスは言った。
「その悪魔は神獣に害を成す存在だ」
警戒しているのは私ではなく、私の影に潜む女。カリスの嗅覚が、グリフォスのことをどう捉えているのかは分からない。確かな事は、彼女がわざとグリフォスに聞かせるような口調でいることだった。
「お前を巡礼に誘ったのも、何か狙いがあってのことだろう。人間、その悪魔を連れて聖地に向かうな。各地の巫女に邪をもたらす事になるぞ」
「ならば、カリス」
私はぽつりと言葉を漏らした。
「止められるのならば、止めろ」
投げ捨てるように放った言葉。それは、着飾りも無い本質に近い私の言葉だった。何もかもがどうでもよくなっていると言っても過言ではない。
カリスもそれが分かっているのだろう、低く唸りながら彼女は頭を抱えた。
そんな彼女に続けて宣言した。
「私は私自身を止める気はない。禁忌を侵し、この世の全ての者に恨まれようとも、私はミールの未来を諦めたくない」
「お前は騙されているんだ」
カリスは呟くように言う。
「カリス、お前には出来るか?」
私は訊ねた。
「その鼻でキュベレーを見つけ出すことは出来るだろうか?」
「――恐らく……出来ない」
カリスは答えた。
「だって、お前の義弟はもう――」
「グリフォスならば出来る。あれが悪魔というのならば、その傘下の者ならば、出来るのだろう。たとえ神に抗う事になったとしても、私はサファイアの形見を救いだしてやりたいのだ」
悪魔に魂を売るとはこういうことだ。
カリスの説得など虚しい。何故なら、彼女が向かい合っている今の私は、すでに魂の全てをグリフォスに捧げてしまっているのだから。
全ては頷いた時に決まってしまっていた。
私の剣に新しい力が宿った時に決まってしまっていた。
ここ数日間話しただけの人狼がいくら説得しようとも、私の決断が揺らぐことはあり得ない。たとえ、生き物としての善意に訴えかけられているとしても、絶望の淵で悪になびいた私には何も響かない。
「分かったか、カリス」
剣を片手に私はカリスを見つめた。
月光があっても、お互いの顔はよく見えない。いつもならば共に囲む温かな炎も、今は生んですらいなかった。
カリスはただ私を見つめていた。
その顔に浮かぶ感情を何と表現していいのか、私には判断がつかない。ただし、私を単に責めているわけでも、憎んでいるわけでも、呆れているわけでもないように見えた。例えるならば、憐れんでいる、とでも言うのだろうか。
そんな人間のような狼を見つめながら、私は魔女狩りの剣を握りしめた。
「もしもお前が私を力で阻むのならば、私は全力で抗う。今の私はこれだけの為に生きているのだ。私を止めたければ、私を殺すといい」
はっきりとした言葉に、人狼であるはずのカリスは怯んでいた。別に恐れて怯んでいるわけではない。彼女の目は揺らぎ、感情の高ぶりがその身体を僅かに震わせている。
そこに人間を無慈悲に喰い殺す獣はいなかった。
いたのは、破滅に向かう同胞を引き留めようとする善良な民のみ。
不思議なくらいに、カリスは人間臭い反応を見せてくれた。
「そんな事を今さら言うな」
低く脅すような口調でカリスは言った。
「私だって生き物なんだ。心もあれば、魂もある。これまで会話をし、交流を深めてしまった相手を喰うなんて事が出来るわけがない。それともお前は、愛玩として絆を深めた獣を簡単に殺す事が出来るのか?」
面白い問いだった。
その為なのだろうか。多くの人狼は人間の振りをするが、人間と深くは関わらない。深く関わったと思っても、それは人間側の一方的な思い込みに過ぎない。人狼というものは人間を常に見下し、深く知ろうとしないらしい。だから、神の教えを説く祭司は、人狼を魂も心も無い存在だと主張した。
そんな存在の一人であるカリスが、そんな問いを投げかけて来るとは。
だが、もしかしたら、彼女は私よりも人間らしいのかもしれない。
「さて、どうだろうね」
そうとだけ答え、私は溜め息を漏らした。
「ともかく、私の決意は変わらない」
乾いた心と言葉と共にカリスに視線を送ると、思考の渦に惑わされて恐れる弱々しい人間の女のようにカリスは獣の目を私に向けてきた。
そんなカリスに私は告げた。
「こんな私を見つけてしまって、お前は不運な狼だったな」
その言葉に、カリスは項垂れた。