3.亡き人の思い出
グリフォス。
彼女が現れた時の衝撃を、私は今でも忘れられない。
まるで頭を殴られたかのような痛みが生まれ、私の思考の巡りを強く滞らせた。その青い目の導きだすものは、全て諦めて忘れようとしていたはずの思い出ばかりで、堪らずに私は一歩、二歩と彼女に近寄ってしまった。
グリフォス。そう名乗った彼女は、そんな私を恐れもせずにただ見つめていた。
現れたのは霧の城が消え、私がただ一人茫然と取り残されていた時のこと。ミールと魔女が消えてしまったすぐ後の事だった。
「全て見ていたわ」
「サファイア……」
思わずそう呟いてしまった私に、グリフォスは悲しげな眼差しを向けた。
「そう、この顔はサファイアというのね」
間違いなくサファイアの声で、彼女はそう言ったのだ。
「でも、今のわたしはグリフォス。あなたの知っているサファイアではないの」
「しかし、君の姿はまさしく――」
「ゲネシス」
サファイアと同じように彼女は私の名を口ずさみ、言いかける私の言葉を遮った。
「サファイアというこの女は、あなたにとても会いたがっていた。だから、わたしは彼女の身体を借りたのよ」
「……借りた?」
「あなたの名前を知っているのも、すべて彼女の記憶のせい。ねえ、ゲネシス」
間違いなくサファイアの声で名を呼ばれ、私の魂は震えた。
もう耳にしないとばかり思っていた声の響きは、私の現実を歪ませるのに十分過ぎるほどの魔力を秘めていたのだ。
「あなたの義弟、この子の弟を取り返したいのでしょう?」
強い口調でサファイアの姿をしたグリフォスは言う。その言葉は私の心を掴んで離さない。魔女よりも恐ろしいとさえ思った。けれど、愛しいサファイアの姿はその恐れすらもかき消してしまうのだ。
「出来るわ。わたしなら、あなたに協力出来る」
サファイアの姿で、グリフォスという名の女は言った。
「出来る?」
私の問いに、グリフォスはしっかりと頷いた。
断言のようだった。可能性ではなく、自信を持って彼女は私に言うのだ。
「わたしになら出来る。あなたが協力してくれるのならば、ミールを取り戻す道を切り開いてあげる」
「お前は、何者なんだ?」
ただの女ではない事は聞かずとも分かる。
そうでなければサファイアの姿なんてしていないだろうし、私の名前も当てたりしない。そして、こんな奇妙な取引を持ちかけてきたりもしないだろう。
その姿はまるで幼い頃より祭司に聞かされた悪魔のよう。
「わたしはグリフォス。その本質は死霊。サファイアの無念を聞き入れ、あなたを助けに来た者よ」
タナトス。死霊。
その言葉だけが私の頭に刻まれていく。人間でもなければ、魔族や魔物でもない。死者の姿を借りた得体の知れない存在が、私に語りかけてきている。
しかし、そうだとしても、このグリフォスという名の女を拒む事が私には出来なかった。
「助けに来た……」
その言葉のせいだった。
グリフォスは頷き、霧の城の消えた場所を指差した。
「あの向こうに城はある。その城主の名はキュベレー。美しい少年少女を石の人形に変え、手元に置きたがる悪しき魔女よ」
「キュベレー……」
その名を噛みしめ、私は震えた。
魔女が潜んでいるがための縄張りだ。だが、そこまで恐ろしく、悪しき存在であったとは知らなかった。あの魔女を噂する人々だって、その名までを知ることはないだろう。
「石化の魔術を解くには、キュベレーの血が必要よ」
けれど、と、グリフォスは言った。
「あなたには出来ない」
「何故……」
「キュベレーは隠れてしまっているもの。この霧をどんなに進んでも、彼女のもとにはたどり着けないわ」
「諦めろ、と言いたいのか?」
私の睨みにも、グリフォスは怯んだりはしなかった。
「方法がないわけではないの」
そう言って、グリフォスはそっと自分の胸に手を当てた。
「わたしになら、キュベレーの魔術を祓える。魔女を見つけ出し、その血を黒く染め、心臓をミールに当ててやれば、全ては元通り。石化の呪いは解け、美しき少年の未来は守られるでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、目が覚めるような思いが生まれた。
「本当なのか……?」
藁にもすがる思いとはこういうことだろう。
私は思わずグリフォスへと歩み寄った。
「本当にお前の力で奴を見つけ出せるのか……?」
「わたしの力さえあれば。でも、今のままでは駄目なの」
悲しげにグリフォスは言った。
「あなたに協力したくても、今のわたしは中途半端な存在に過ぎない。本来の力がなくては、キュベレーの魔術には敵わない。だから――」
そう言って、サファイアの目でグリフォスは私を見つめてきた。
「だから、あなたにお願いがあるの」
「お願い?」
問い返す私を見つめるその目は、確かに生きた輝きを持っているはずなのに、まるで空っぽのような印象しか宿していなかった。
それはかつてサファイアが見せてくれたものとはだいぶ違うものだ。けれど、そんな違和感も、サファイアの面影と再び話せているという懐かしさには敵わない。
そして、ミールを取り戻せるかもしれないという言葉の魔法の前には抗えなかった。
「どうしたらいい? どうしたら、お前の力は戻るんだ?」
喰いつく私を見て、グリフォスは笑みを浮かべた。サファイアならば絶対に浮かべないような類の笑みだ。ほくそ笑んでいるとはこういう言葉はこういう時の為にあるのだろう。だが、そんな表情を見ても、戸惑いは全く生まれなかった。
ミールを取り戻せる。その期待ばかりが先走った。まるで、溺れかけている時に浮きとなるものを投げ入れられたような思いだ。
必死な私を見つめながら、グリフォスは細い線のような声で告げた。
「巡礼よ」
それは短い回答だった。