1.怪しげな導き
朝、目を覚ましてみれば、カリスは姿を消していた。
何も疑問に思う事はない。相手は人間の女ではなく、大地を気ままに生きる人狼なのだから。むしろ、私の傍に居座り続ける方が自然の理に反していると言ってもいい。
そうは理解していても、昨夜カリスと語り続けた感覚はそう簡単には消えてくれず、微かな物音に対してもカリスの気配を探ってしまう自分に気付かされ、自分でも呆れてしまうほどだった。
人狼などに構っている暇はない。
私は自分に言い聞かせ、支度を整え再び旅立った。向かう先はジズという魔物を守護する神獣の元。かの女に言われた通りに進み、向かう。その地点はそう遠くはない。
可能な限りの速度で、私はジズの膝元である鳥の町を目指した。
人鳥。哀れにも聖獣ジズの血を引いて生まれ落ちた民。彼らは人のような姿を持つと言うが、人間である私にとってみれば魔族に変わりない。
そんな彼らが多く生息しているという町とはどういうものか。
初めて向かう聖地に想いを馳せ、私は先へと進み続けた。どれだけ進んでも、集落一つ現れやしない。私が進んでいる道のせいでもあるだろう。見えてきたとしても、そこに滞在する気など、私には全くなかった。集落で獲得したいものなど何一つない。それよりも私は、一刻も早くジズの元へと向かいたかった。
カリスはそんな私を今も何処からか見ているのだろうか。
いくら人狼であっても、私の内心までは見抜けないだろう。私の目的、私の心情に気付いた時、はたして彼女はどう動くのか。
興味がないわけでもなかった。ただ、今はどうだっていい。
進み続けるうちに、時間は過ぎていく。あとどのくらいで鳥の町に着くのかさえも謎のままだが、間違いなく近づけているのならば問題なかった。
時間はあっという間に過ぎ去り、ただ黙々と進むだけで一日は終わりを迎えようとしていた。西の山の向こうへと消え去ろうとする太陽を目で追いながら、静かで悲しい黄昏の世界の中で、私は只一人、立ち尽くしていた。
今日はここまでだろうか。
辺りは何もない。岩肌がむき出しのごつごつとした山道だ。平原も林もなく、ジズが住まうという聖なる山までの道が続いている場所。
あと少しと言う事だけは分かる。そんな場所だった。
西風が吹き、夜の訪れを告げて行く。そんな中で、私は風と共に現れた奇妙な香りに気付き、視線を動かした。
「あなたか……」
私の口から言葉だけが零れていく。
さほど苦労せずに、その香りの主は見つかった。青い目。薄暗くなっていく世界でも目立つその色の目が、私を見つめている。
人間の女。この場所に一人でいるには不自然すぎる存在だった。
けれど、私にとってはそんな事はもはや気にならない。それ以前に、私にとって彼女は異常過ぎる、見逃せない特徴があった。
「お疲れじゃないかしら、ゲネシス?」
歌うようにその女は訊ねてくる。
私は首を横に振った。
「全く。夜であっても進みたいほどだよ」
そう言うと、女は笑いつつ私を咎めるように視線を向ける。まるで、飼いならした獣をしつける主人のようだ。だが、別に気にはならなかった。
「夜は魔物の数が多い」
女が言った。
「わたしであっても守りきれない程に。ゲネシス、あなたが願いを叶えたいのならば、昼に進み続けなさい。焦る事は無いわ。わたしと、あなたなら、いつだって目的を叶えられるはずだから」
「……はず、か」
目ざとくその言葉尻を掬いあげてはみたものの、女は余裕そうに笑っただけで何も言ってはこなかった。やはり、気の抜けない相手だ。しかし、そうと分かっているのに、私はこの女の姿に気を惹かれずにはいられなかった。
何故なら、彼女の姿は――。
「ミールを助けてあげたいのでしょう?」
女が言った。
「それなら、あなたが信じるべきはただ一つ。わたしを信じなさい。わたしだけを信じなさい。狼の視線なんて気にしては駄目よ」
まろやかな口調で言われ、私はぞっとしてしまった。
その表情には私を責めるようなものは一切含まれていない。しかし、その声には毒が含まれている。魔女狩りの剣に込められた即効性のものではない。狙った相手をじわりじわりと揺さ振って来るような恐ろしく密やかな毒だ。
「見ていたのか」
カリスの黄金の髪が頭を過ぎっていく。
「わたしはいつだってあなたを見ているのよ」
そう言って笑う女の姿は、かつて傍で何度も見てきた大切な人の姿そのものだった。
そのもののはずなのに、大きく違う。人格が、意識が、魂が。同じ姿をしていても、中身が違えばこんなに違うものなのだろうか。それでも、彼女の仕草で想い起こされるのはいつだってその大切な人の面影なのは何故だろう。
死人は帰って来ない。
何度そう自分に言い聞かせても、今、目の前にいる女の青い目に見つめられていると、それだけで意識がぶれていく。
「あなたが見ているもの、あなたに接触するもの、あなたが過ごす時間、全てを見守っているわ。腐った塵の降る時だって、同じ。姿を消していても、あなたの傍にいるのよ」
「カリスと話している時も見ているということか」
「ええ、そうよ。カリスが変な気を起こした時は、わたしが守ってあげる。だから、安心して、あなたは進み続けなさい」
女の強い言葉が、私の行く手に道を敷く。
迷いなんて元々なかった。サファイア亡き後、ミールを立派な青年にする為に生きてきた私は、もはやこれしか縋るものがないのだ。
と、その時、はらりと雪のようなものが女の肩へとかかった。その途端、鼻を抉るような悪臭が空より舞い降りてきた。
女もまたそれを見つめ、顔を歪める。
「ああ、忌々しい時間がまたやってきたわね」
そう言って、彼女の姿はぼやけていく。私の目が霞んでいるからだろうか。いや、それだけではないだろう。人間の身体しか持たない女だが、彼女は人間にはない力を持っている。人間の身体が拒むこの塵を逃れるために、怪しげな術で姿を消してしまうのだろう。
私はというと、その場でただじっとしていることしか出来なかった。
辺りは段々と当り前の景色を失い、白と黒だけで彩られる味気ない世界へと変わっていく。全ての生き物が塵の中に埋もれ、人間には受け入れられない悪臭に沈んでいく。
この中を動けるのは魔物か、魔族。
中でも魔物だけは俊敏に動くことが出来る。彼らが喜ぶこの腐った塵。忌々しいと女が言った通り、匂いが鼻を刺激する度に、私の中には苛立ちと不安とが積み重なっていく。
そんな塵の世界で、ゆっくりと私に近づいて来る者があった。
いつか見たこの光景。
私は覚えている。あれは確か、カリスと初めて会った時だ。その時と同じような光景が、塵に蹲る私の視界に生まれていた。
白と黒の世界に浮かび上がる黄金。
金の髪を持つ女が、平然と歩いている。
――カリス……。
悪臭のせいで、なかなか声も出ない。彼女は表情を殺したまま、私へとただ近づいて来る。ただ、何かが不可解だった。彼女の表情だろうか。私を襲おうという気配はないが、何故だか彼女の顔には、恐れのようなものが浮かんでいたのだ。
カリスが立ち止まり、私の顔を覗きこむ。
悪臭を堪えつつ、私はようやく口を開いた。
「カリス」
名を呼んでも、カリスの表情は変わらない。その代わり、彼女もまた口を開いた。
「話がある、愚かな人間よ」
その目には、警戒心も浮かんでいた。