8.負の連鎖
巡礼。
自分で言っておいて、その言葉の重荷が少しずつ私の身体に圧し掛かっていることが自覚できていた。神獣に対する敬意が無いわけではない。目の前にいる魔物の女を騙していることに罪悪感がないわけではない。
嘘を重ねれば重ねるほど、苦しみは倍増していく。
それでも、自分を止めること等不可能だった。この苦しみ、この地獄から解放されるには、かの死の国からの使いに頼るしかない。
揺らめく焚火の明かりを見つめながら、私は密かに自分に言い聞かせていた。
これしか道は無いのだと。
「巡礼が終わったらどうするんだ?」
ふとカリスは聞いてきた。
「全ての神に祈りを捧げ終えたら、どうする?」
何も知らない純朴な生き物の目がそこにあった。
私はその己よりもずっと崇高な生き物に視線を返すと、静かに答えた。
「決めてはいない」
本当だった。
決めてはいない。先の事なんて何も分からないのだ。どうせ、自分のやっていることも半信半疑だった。
「きっと何処かで野垂れ死にするのだろうさ」
私がそう言うと、カリスは表情を歪めた。嫌悪しているのだろうか。呆れているのだろうか。どちらにしても、人狼であることを忘れさせてくるような表情だった。
「そんな顔をするな」
私がそう言うと、カリスは目を逸らした。
「別に、しようとしてしたわけじゃない」
そう言って、彼女は野良犬のように微かに唸る。
「ただ、お前を見ていると虚しくなってくる。まるで愚かで醜い私自身を見せつけられているようだ」
「ならば見なければいい」
「そういう問題じゃない」
カリスは必死な面持ちでそう言った。
何故、そんな顔をするのだろう。私にはよく分からなかった。戯れに話しかけてくるだけの人狼が、どうして私にそんな表情を見せるのだろうか。
「お前は似ているんだ」
カリスは言う。
「私に似ているんだ」
「似ている? 人間の私が、人狼のお前に?」
「人間よ、お前、全てが終わったら仇を討つのだろう? 敵わぬと分かっている魔女を刺し違える覚悟で討伐しに行くのだろう?」
違いは無かった。
その為に巡礼していると言ってもいい。ただ単に願ってミールの呪いが解けるのならばどんなに有難いか。しかし、現実は違う。魔女を倒すことこそが、最終的な願いだった。その為にならば、死んだってよかった。
黙ったまま視線で答える私に、カリスは睨みをきかせた。
「そんなの、自暴自棄に他ならないぞ」
はっきりとした口調で彼女は言う。
「石化は死に等しい。魔女を倒せたとしても、その少年が元に戻るとは限らない。況してや、それを確かめる前に命が途絶えれば、元も子もないぞ」
身を乗り出して、カリスは言葉を放つ。
何故、この女は必死なのだろう。
「そんな事よりも、自分が生きる事を考えようとは思わないのか? 事と次第では、私が退屈を紛らわしてやってもいい。人間のお前には一生かかっても見つけられないようなことだって、私にならば見せてやれるぞ?」
何故、この人狼はこんなにも必死なのだろう。
「仇を討つ。その気持ちはよく分かる。私だってそうしたい。そうしたかった。けれど、仇を討って何になる。それで死んで何になるんだ。恨みに支配されて生きるのは、供養にはならない。どんなに嘆いても、忘れても、愛した人が帰って来ないのは変わらないんだ」
カリスはそう言って、空を見上げた。
その目に映るのは、かつての想い人の面影だろうか。アマリリスとかいう貴重種に殺された人狼。もう戻らない命を見つめているのだろうか。
「クロは帰ってこない。クロを愛しているのは今も一緒だ。でも、私は――」
そう言って、カリスは再び俯いた。
「私は、仇を討てない。アマリリスを殺したいはずなのに、殺す未来はもう思い描けない。あの女は魔性だ。私の心すらかき乱して……」
言いかけて、口籠る。
あらゆる感情が渦巻き、その心をかき乱しているようだ。
「カリス」
声をかけると、カリスは少しだけ震えた。
「確かにお前と私は似ているかもしれない。だが、私はお前じゃない。お前の夫を殺したアマリリスと、私からミールを奪った魔女は別人だ」
私の言葉に、カリスは縋るような目をこちらに向けてきた。こんな目で人狼に見つめられる経験なんて、普通はあり得ないだろう。
貴重なその状況を噛みしめつつ、私はカリスに微かな笑みを向けた。
「人狼と共に旅をする。それも面白いかもしれないね。だが、やっぱり私はミールを取り戻せるのなら試したい。出来るかもしれないのにやらないで後悔するくらいならば、無謀だと言われても試したいんだ」
そう、それが地獄の業火に焼かれても償えない罪を背負う事になるような凶行となったとしても。
私の脳裏の片隅で、魔女の高笑いが再生される。その音と共に、ミールが石になっていく光景が、鮮明に甦る。
魔女狩りの剣を返さない理由は、殆どそこにしかなかった。
「もともとはお前がナキという魔女を殺したから――」
カリスはそっと口ずさむ。
責めるようなものではない。ただ、私の話を思い出すために口走っただけのようだった。だが、私の心を抉るには十分なものでもあった。
「仕事の為だった」
私はきっぱりと言った。
「仕方なかったんだ」
それは自分で言って、虚しくなる言葉だった。