7.願い事
音を立てて焚火の炎が燃え盛る中、カリスは黙って私の話を聞いていた。
その表情からはどんな感情が渦巻いているのか少しも分からない。ただ、彼女は私の話をしっかりと聞いているようだった。
私が語り終えると、彼女は少しだけ表情を変えた。
陰鬱なものに思えたが、やはり何を想っているかは察せられなかった。
「それで全部か……」
カリスが口を開き、私は頷いた。
「そうだ。ミールとの想い出はここまで。築くはずだった未来も、希望も、全てあの魔女が攫っていってしまったよ」
エメラルドの目。愛らしいとさえ思った顔立ち。
彼女の背を虚しく見送ってから、一体どれだけの月日が経ったのだろうか。今もミールは彼女の城にいるのだろうか。
その事を想像するだけで、気持ちは無駄に逸ってしまう。
「ナキを殺さなければ、ミールは無事だった。そう思うと苦しくて仕方ない。私に出来るのは只一つ。ミールを元に戻す事だけだ」
「石化の魔術か……」
カリスは声を低めて呟いた。
「習得の手間は生半可なものではないらしいぞ。神獣に礼拝した程度で解けるものならば、誰もそんな魔術を使わないだろう」
彼女が言わんとしていることは分かった。
だが、私は取り合わなかった。そんな事は、分かっている。礼拝しただけで全てが解決するのならば、この世で嘆き悲しむ人々なんていないだろう。
そんなこと、私だって分かっていた。
「気休めさ」
そう答えることにした。
「懺悔にも近いだろうな。ミールに未来が与えられるのならば、石化の呪いを受けることだって構わない。その気持ちを何か大きな存在に伝えずにはいられないのだよ」
「その対象が三神獣……」
カリスはそう言って唸る。
何か引っかかる事でもあるのだろうか。人狼の鼻は一体何処まで嗅ぎつけられるのだろうか。深い意味はないが、そんな疑問が頭に浮かんだ。
「何かおかしいか?」
私が問うと、カリスは素直に答えた。
「何故、神獣なんだ。お前達人間は、リヴァイアサンよりもずっと自分達に都合のいい絶対的神を崇めているではないか」
「なんだ、そのことか」
溜め息と共に、私はふと魔女狩りの剣を見つめた。
絵に刻まれている紋章は、この国を守る神を象ったものだ。魔女狩りとはその神への忠誠でもあった。神の裁き、或いは、神の恵みとして、魔女狩りの剣士たちは魔女を殺すことを許されている。そう正当化して、魔女の身体から薬を作っているのだ。
「かの神を頼りたくなかったからだ」
「――頼りたくない?」
「魔女狩りは最高神の下で行われる事。その結果生まれる悲劇も、神の御前では尊い犠牲でしかない。魔女に屈して戻してくれと懇願したところで、私に裁きが下るだけだろう。それならば、全ての生き物に平等な聖獣に祈った方がましだ」
私の答えにカリスが黙りこむ。
何を想っているのか、どう解釈しているのか。全てはどうでもよかった。ただ、彼女の眼差しが妙に刺々しいことだけは気になった。
「ちなみに」
カリスが再び口を開いた。
「お前に巡礼を吹き込んだ女は、具体的になんて言っていたんだ」
「どうしてそんな事を気にするんだ」
私は思わず聞き返した。
カリスが私の行動に疑問を抱いている。もしくは、興味を抱いている。それは、少しだけ厄介なことに思えた。襲ってこない人狼が邪魔であるとは思えないが、それでも、彼女には私の行動の真意を知って欲しくないような気がした。何故だかは分からない。ただ、彼女が私に失望するだろうことが妙に嫌だった。
私はどうやらカリスの軽蔑を恐れているらしい。
「別に理由は無い」
カリスは言った。
「ただ、私も巡礼で解決するならば頼りたいだけだ」
その表情を見て、私は警戒を解いてしまった。
最愛の夫を殺された、と言っていただろうか。その仇打ちの為の準備までしておきながら、何かの事情で放棄しなければならない。その辛さが分からないでもなかった。
その上、彼女は葛藤している。憎しみを暴力で解決する事に、だろうか。何をしても最愛の人はもう戻って来ないという現実に対する絶望だろうか。
あらゆる重荷が美しい人狼の女をずたずたに切り裂いているらしい。
「帰って来て欲しいのか」
私はふとカリスに言った。
「愛していたその夫に」
「それはお前だって同じだろう」
カリスは答えた。
「サファイア。その女に帰って来て欲しいのだろう」
「ああ……」
答えつつ、私は黙って思考を巡らせた。
どうか戻ってきて欲しい。そう思ったことは多々あった。ミールと離れ、一人魔女狩りの日々に明け暮れている時も、ふと気を抜けば思い出すのはサファイアとの婚礼が決まった夜の事だった。
手を伸ばしても届かない。探しても見つからない。
失った幸せを思い出すたびに、私の心は血を流す。サファイアを失った時に涙はとうに枯れ、彼女を思い出して生まれるのはただ虚しさばかりだった。
戦っても、戦っても、戻って来ない。けれど、もしも戻って来る術があるとすれば、私はきっとそれに縋りついてしまうだろう。
「だが、死人は帰って来ない」
私の言葉にカリスは静かに頷いた。
「そうだ。死者は戻らない。クロ……私の夫も、憎きアマリリスに殺されたきりだ。私に出来るのは、仇を討つことだけ。恨みの全てをあの女の身体で晴らすだけ。それは全て、私のためでしかない。考えれば考えるほど、虚しさは広がり、苦しみは深まるばかりだ」
そう言って、カリスは深くて長い溜め息を吐いた。
「私が神獣に頼るとすれば、そんな苦しみを和らげる方法をもたらしてくれることだ」
カリスが何を言いたいのか、だいたい分かる。
人狼にしては人間臭い奴だと思った。
「ミールは死んだわけじゃない」
私はカリスに言った。
「石化の魔術は死に等しいが、死ではない。術者を脅すか、何か別の方法を使えば解くことだって出来るはずなんだ」
「そうだな。しかし、その魔女はお前よりずっと強いのだろう?」
「ああ。だから、勇気と力を願う。ミールを元に戻せる力を分け与えて欲しい。私もお前と同じかもしれないな。私自身の為に巡礼するのだから」
私がそう言うと、カリスは口を閉ざした。
その整った横顔が何を想っているのかは、やはり私には分かり辛かった。