6.天涯孤独
「ミール……」
私はもう一度、声をかけた。
だが、返事はない。吐息すら感じられない。握り続けている手は急激に冷たくなっていく。最初、その姿に異変はないように感じられた。けれど、時間が経つにつれて、ミールの身体は静かに、そして急速に、時間を止めてしまったかのように動かなくなっていった。
その目は見開かれたまま。髪もまた風に遊ばれやしない。その手からは力が抜け、どんなに強く握っても先程までのように握り返してはくれない。
「ミール……!」
返答はない。返答する気配も無い。私の声が届いているのかも分からない。
ミールは、石になっていた。冷凍でもされてしまったかのように、時間だけを止められてしまったかのように、動かなくなってしまっていた。
小さく笑う声が聞こえ、私は目を見開いたまま魔女へと視線を戻した。
「何をした……」
私の声に魔女は更に目を細める。
「ミールに、何をしたんだ……」
答えはせずに、魔女は再び手を挙げる。
その途端、ミールの全身が淡い光に包まれ、露のように消えてしまった。握っていた手が虚しく空を掴んだ。
ミールを奪われた。その事実を理解するのには少しだけ時間がかかった。分かった時にはもう何もかもが遅く、ただ私の耳には耳障りな笑い声が聞こえてくるばかりだった。
今一度睨みつけると、魔女はやっと声を放った。
「安心して」
最初は愛らしく見えたその顔立ちも、今や醜いものにしか見えない。
「これからはわたしがあの子を可愛がってあげるわ」
「化け物……」
自然と口から漏れた言葉は、私の行動を誘発した。
剣を持って逃げることしか考えていなかったが、ミールを失った事で恐れと緊張、そして怒りが暴走しはじめたのだ。
気付けば私は走り出し、魔女に斬りかかっていた。
しかし、魔女は目に捉えるのも難しい動きでそれを避け、私の背後へと移動した。人間には出来ない動き。それでも、私は怯まなかった。目の前でミールを奪った彼女に一太刀加えることしか考えられなかった。
「ミールを返せ!」
剣の切っ先が魔女を狙う。
けれど、魔女には届かない。
「ミールを返してくれ!」
涙が出てきそうになった。悲しいからだろうか。いや、少し違う。怒りが治まらず、心が引き裂かれそうだった。
たった一人の家族。サファイアの遺した義弟。
これまでずっと頑張って来られたのは、彼のためだったのだ。若く、優秀な少年の未来の為に、私は命を張って戦ってきた。
幼い頃より教えられた正しさを信じ続けて、魔女を狩ってきたのだ。
それなのに。それなのに――。
私の剣を避け続けていた魔女が、突然光を放った。その光は私の腹に直撃し、耐えきれない苦痛を与えてきた。まるで鈍器で殴られたかのようだった。思わず怯み、地面に伏せる私を、魔女は冷たく眼差しと共に立ち尽くしていた。痛みをこらえつつ見上げてみると、魔女は無表情のまま私を見下ろしていた。
「返して」
先程までとは打って変わって、彼女の声からは感情が消えてしまっていた。
「ナキを返して」
――ナキ。
私の脳裏に少女の姿が過ぎった。命乞いをした白髪の少女が。魔女としての力は弱く、その抵抗すらも人間でしかない私を追い払えなかった。その結果、彼女の命はこの剣に吸い取られ、身体は解体されて薬となった。かの薬は既に売人に引き渡され、金に代わっている。ミールと共に暮らす生活費となるはずだった金に。
ナキ。そんな名前だったのだろうか。
「返せないでしょう?」
魔女は無感情のまま声を放つ。
「だから、ミールも返してあげない」
「返してくれ……」
罪があるとすれば私であって、ミールではない。
仕返しをされるべきは私であって、ミールではないのだ。
けれど、分かっていた。魔女の性というものがどういうものなのか。穢れた欲望の前では、どんな正義も、どんな正論も効力を失い、ただ力のみが全てを左右するのだ。
私は敵わなかった。
目の前の魔女に、敵わなかった。それが全てなのだ。
「ナキを愛していたわ。長く生きているとね、親しい人どころか知り合いさえもどんどん減っていくのよ。そんな中で、ナキは長く生きていた友達だった。彼女は心優しくて、自分の力で他人を傷つけるのが恐ろしいと思うような子。だから、わたしはいつも彼女を見守ってきたの」
あなたが、と、魔女は顔を覆った。
「あなたが来た時も、見ていた。守ろうとした。守ろうとしたのよ。けれど、出来なかった。遠過ぎたの。傍にいてあげればよかった。それかいっそ、このお城に閉じ込めてしまえばよかった。この数日間、何度も、何度も後悔したわ。身を引き裂かれるくらい」
――だから。
獣のような目が光っている。そっと座り込み、私の顔を覗きこむと、冷たい手が私の頬へと伸ばされた。
「あなたにも同じ想いをさせてあげる」
微笑みつつ、彼女は立ち上がる。
痛みの薄れた私が動き出す前に、彼女はあっさりと背を向け、自分の城へと戻ろうとし始めた。
「待て」
私は必死に呼びとめた。
慌てて立ち上がると、目が回りそうになった。だが、それでも一歩、二歩と踏み出して、私は魔女を追いかけようとした。
「待ってくれ」
行かせてはいけない。
そうは思っても、彼女を追いかけることが出来なかった。ゆっくりと歩いているようにしか見えないのに、魔女の姿はすでに私から遠ざかり、彼女の城もまた霧の向こうへと消えようとしていた。
「行かないでくれ」
私は懇願していた。
懇願するしかなかった。ミールの居場所を知っているのは彼女だけ。そして、ミールに掛けられた魔法を解けるのも恐らく彼女だけなのだ。
全ては彼女が握っている。恨みを晴らすのならば私にして欲しかった。ミールは解放して欲しかった。どうしても、そう頼みこまずにはいられなかった。
だが魔女は、私にそんな虚しい説得をさせる暇すら与えてはくれなかった。
「ミール!」
もう目にすら出来ない少年の名を呼んだ時、魔女の姿が完全に霧に包まれた。同時に、城も包まれていき、何も見えなくなった。すぐに追いかけてみても、霧は深まるばかりで、何も見えなくなってしまった。そして、ようやく周囲が再び見えた時には、私の周りは木々だけになってしまっていた。
消えてしまった。魔女も、城も、そしてミールも、何もかもが私の未来への希望と共に消えてしまったのだ。
「返してくれ……」
吠えることしか、出来なかった。
「返してくれ!」
嘆くことしか、出来なかった。
しかし、どんなに喚いても、城が再び現れる事はなかった。