5.恐ろしき魔女
その魔女が姿を現したのは、風が更に強まって私の視界を奪いそうなくらいになった頃だった。
その前にミールを連れてさっさと立ち去りたかったが、棒立ちになる少年の力は驚くほど頑なで、引きずって歩む事すら困難だった。
そうしている内に、風の中に人影は現れ、やがて、人間である私にも伝わるほど強烈な魔力の気配が冷たさと共に流れ込んできたのだ。
ミールの手をしっかりと握り、私はその人影を睨んだ。
女だ。遠目でも分かる。魔女だ。目を瞑っても分かる。ミールをここまで引き寄せ、怪しげな曰くつきの城に我々を引きこんだ張本人が、こちらに近づいて来ている。
魔女ならばこの魔性の剣で斬るのみ。だが、彼女の存在がはっきりとすればするほど、緊張は増大していった。
敵いそうもない。大物も大物だ。万が一、奇跡的に倒せれば、馬鹿にならない報酬が得られてしまうだろう。それも非現実的なものだ。
片手でミールの手を握ったまま、もう片手で剣を構える。
威嚇にしかならないその体勢に、魔女が戸惑う様子は全くなかった。やがて、魔女の姿ははっきりと見えてきた。
若い。だが、魔女の外見をそのまま実年齢に当てはめてはいけない。
「綺麗な子ね」
エメラルドのような美しい目を煌めかせて、魔女はミールを見つめていた。
「天使のように綺麗。今だけの美しさよ」
その声は少女のようで、表情も、仕草も、雰囲気も、全てが幼く見える。だが、魔女より漂うオーラだけは、禍々しさを飛び越えてむしろ神々しいほどで、一体、何年の時を生きているのか分からなくなってしまうほどだった。
そんな魔女の視線が、やっと私へと向いた。
「初めまして、魔女狩りの剣士さん」
にこりと笑って彼女は言った。緊張が更に強まった。私の正体に気付いていながら、全く恐怖を覚えていない。余裕を有したまま、私達の前に立っている。
――まさか、私の持つ剣の正体を知らないわけではあるまい。
「もちろん、知っているわ」
私の思考を読むように、彼女は言った。
「それで斬られれば、わたしだって即死してしまうでしょうね」
愛らしく首を傾げながら、魔女は言った。
「でも、わたしは恐れない。もはや恐れるものなんてない。いつ死んだって構わないもの。それよりもわたしは、そこにいる男の子が欲しい」
彼女が指をさす先で、ミールが震える。
その震えが伝わってきて、私は思わず吠えるように叫んだ。
「それ以上、来るな。化け物」
「化け物?」
透かさず、魔女は問い返してきた。
その美しい緑の目が揺らぎ、笑みとは反した感情がわなわなと生まれ、顔に浮かび上がっていくまでがよく分かった。
「どっちが、化け物?」
魔女は恨むように私に言う。
「その剣で人間に害を成さない者までも殺してきたのでしょう? 命乞いをする者、逃げ惑う者、怯え震える者を追い詰めて、金のためだけにその命を奪い取ってきたのでしょう?」
私の心を揺さぶるように彼女は言う。
その言葉に負けないように、私は頭を振った。
「お前達は悪だ。我々を惑わし、狂わせ、破滅に追い込む悪魔だ。だから、私はこの剣を持っている。来るなら来い。ミールは渡さない。お前の事もきっと斬り捨ててみせよう」
魔女は私の言葉を黙って聞くと、しばらくじっと私の目を見つめた。
何かを探っているのかもしれない。だが、そうだとしても、余計なことは探れないだろう。私の心の中には今、目の前の魔女に対する警戒心と闘争心ばかりが占めている。そんな私を探ったところで、何かが手に入れられるわけでもない。
やがて、魔女は溜め息混じりに視線を落とした。
「……そう」
やけに大人びた声で、彼女は言う。
「そんな風に思っていたからこそ、あの子を葬れたのね」
「あの子?」
私が問い返すと、魔女はやや視線を強めた。
その目には怒りが込められている。
「都での事をわたしは知っているわ。この城にいながら、ずっと、わたしは愛する友を見守ってきたの。ずっと見ていたわ。あなたが命乞いをする無力な少女を廃屋で殺して、残虐にも薬にしてしまうまでを、しっかりと見ていたのよ」
都。廃屋。無力な少女。
すぐに誰の事を言っているのか分かった。ろくに抵抗も出来ずに死んでしまった相手。都の廃屋で殺した無力な少女といえば、ミールを迎えに行く直前に仕留めた白髪の三つ編み少女しかいなかった。
愛する友、と言っただろうか。
「私への復讐か?」
私の問いに魔女は答えない。ただ、その目に宿る静かな怒りの心は時間を置けば置くほど大きくなっていき、はっきりと私への殺意を持っているようだった。
言葉にせずとも、彼女の意思ははっきりと伝わってくる。
「ならば、私を襲えばいい。この子は関係ない」
「いいえ、剣士さん」
愛らしい声で魔女は答える。
「わたしはその男の子が欲しいの。だって、これが――」
魔女の目が怪しく光る。
「わたしに課せられた魔女の性なのだもの」
その言葉が私の魂を揺さ振ってきた。
やはり、思った通りだった。そして、恐れていたことでもあった。
私への恨みからではなく、純粋に魔女の性の為にミールに興味を持つ。それは、腹を空かせた猛獣がか弱い草食獣に興味を抱くのと同じ事だ。それも、相手は私を恐れていない。これほどまでに魔女狩りの剣を見せつけているのに、全く恐れる気配を見せないとはどういうことだろう。
勝算があるためなのか、それほどまでに怒りが強過ぎるのか、もしくは、魔女の性に取り憑かれた結果なのか。
いずれにせよ、私が気を抜いていいはずもない。
ミールの手を握りしめたまま、私は必死に考えを巡らせた。素直に突っ込んでいくのはあまりにも愚かだ。これほどまでに巧妙で強大な魔術を放つ相手に、正面から突っ込んで勝てるわけがない。だが、ミールの身体はすっかり固まってしまい、私の力でも引っ張るのは困難だった。
ならば、どうするべきか。
私はじっと魔女の目を見つめた。
「来るなら来い。ミールは絶対に渡さないぞ」
言葉で彼女の動きを揺さ振る。
あちらから来た所を斬りつけるしか術は無かった。だが、魔女もそれは悲しいほどに分かりきっている事なのだろう。私の表情を目に映すと、慈しむかのように柔らかな笑みをその目元に浮かべた。
「勇敢な御方ね。もっと早く、少年の頃に出会いたかったわ」
そう言うと、彼女はそっと片手をあげた。
さり気なさすぎる動作だった。だが、その手の動きに合わせて、私がこれまで狩ってきた魔女が有するものとは比べ物にならない気配が、緊張する私の肌を思いっきり突き刺していった。恐ろしい力は人間である私の目にも捉えられる光となり、それらの光は形を成して蛇のように私とミールとを見比べた。
私は剣を構えたまま、その偽りの蛇を睨んだ。来る。襲いかかって来る。外敵を見つけた蛇が鎌首をもたげるように、魔女の放った光が私達へと狙いを定めている。
「ミール!」
私はミールに声をかけた。だが、次の句は間に合わなかった。
矢のように光は動きだし、私の身体には触れもせず、真っ直ぐとミールのいる場所へと飛び込んでいくのが辛うじて見えた。直後、決して軽くはない衝撃が、ミールの手を掴む私の手にも伝わってきた。
すぐにはそちらを向けなかった。
頭が混乱して、全てが間に合わない。ただ、魔女の冷たい眼差しだけが私の視界の端で薄暗く光っているように見えた。