3.故郷の夜
生まれ故郷に吹く風は、いつも私を温かく迎えてくれる気がする。
私がこの場所を捨て、新たな都会に拠点を置くとしても、この大地は肉親のように迎え入れてくれるのかもしれない。それは、この村に住まう人々と同じだった。私がこの村を離れ、ミールと共に都で生きると決めた後も、誰一人として私達に辛く当たるような者はいなかった。
温かな村。温かな人々。疑う事を知らない純朴な人々。
そんな人々のもとへ、かつて人狼は現れた。村によっては頻繁に容疑者があげられ、頻繁に処刑が行われるものらしい。見かねた領主が口を出すほど荒れた場所もあると言う。けれど、この村ではそんな事は起こらなかった。
起こらなかったからこそ、人狼は安心して狩りをしたのかもしれない。そして、この村に隠されたものが欲しかったのか、なかなか立ち去ろうとしなかった。誰もがお互いを疑えないまま、立ち上がることも出来ないまま、人狼の脅威に怯えていることしか出来なかった。
人狼が去ったのはサファイアが死んですぐ後の事だ。
彼女の死後、被害はぱったりと消えた。噂によれば、ある旅人の訪れがきっかけだとも言われていたが、真相は分からない。分かっているのはただ一つ。人狼は去り、サファイアは戻って来ないということだけだった。
あれから三年。早くも三年。
この村に戻る理由は、ミールの事以外にはなかった。サファイアの墓も、私やサファイア達の両親の墓も、帰る理由にはならない。私が夜な夜な懺悔する先は、いつだって星空の向こうだ。死んだ人間は蛍のような光となって神の元へと戻るという。或いは、大いなる海のリヴァイアサンに導かれ、母なる海へと帰るのだと。
だが、私が見上げるのはいつだって星空だ。幼い頃から、死んだ者を恋しがる時は空を見上げるものだと教えられてきたからだ。
それに、あまり身近ではない遠き海よりも、静寂と冷たさとちりばめられた輝きに満ちる夜空こそが、サファイアの幻影を投影できる恰好の場所でもあった。
あらゆる星の配列。古の偉人たちが名称づけた夢の光景。
私にとっては何処からでも眺められる墓場。
そんな夜空を見上げる今宵は、孤独とは無縁だった。星を見上げる場所は、家のすぐ傍。そこは、私が長らく留守にしていた家の庭だった。都へと移り住むに当たって、誰かに譲渡そうかと思ったが、村人たちは念のために手放さない方がいいだろうと言われ、そうすることにした場所だ。
かつて、子供だった私が、毎日のようにサファイアと遊んだ場所。
その場所で、私はミールと共に星を眺めていた。
「ねえ……」
瞬く星を眺めながら、ミールは口を開いた。
「あの何処かに、姉さんがいるの?」
そっと目をやった先のその横顔は、驚くほどサファイアによく似ていた。特に、目の輝き。幼い頃よりも更に、ミールの目は姉の目に似てきていた。
「……そうだな」
その目の輝きに気を取られつつ、私は答えた。
「サファイアはいつだってお前を見守っているんだ。サファイアだけじゃない。お前の本当の父さんと母さんもね」
「僕が勉強を頑張って偉くなったら、皆、喜ぶかな?」
「喜ぶに決まっているさ。それに、誇りに思うだろうさ」
私の脳裏にはサファイアとミールの両親の姿が想い起こされていた。母親の柔らかな日差しのような笑みに、父親の豪快な笑い声。幼い日のサファイアを日頃より褒めていたその姿を思い起こせば、優秀なミールが褒められている姿は容易に想像出来た。
二人とも不慮の死だった。私の両親と同じく、災害によって多数の村人の命と共に大地へと攫われていったことが昨日のように想い起こされる。
お互いに両親を亡くして哀しみを共有したあの日。まさか、次に身を引き裂かれる思いをするのが、サファイアの死だとは思わなかった。
「義兄さんは?」
ふと、ミールが私を覗きこんできた。
「義兄さんも、嬉しい?」
「もちろんだよ。ミールは私にとって、自慢の義弟だからね」
そう言い聞かせてやると、ミールはくすぐったそうに笑った。
我が子がいれば、こんな感じなのだろうか。あのまま人狼が現れなければ、もしかしたら今頃、サファイアとの間に子供が生まれていたかもしれない。
その未来を思い描きかけて、半ばで止めた。
叶うことのない夢を描き続けたって虚しいだけだ。それよりも、今ある現実を大切にするべきなのだろう。そう、私に残された道は、ただ一つ。ミールと過ごし、彼の未来を見守っていく事だけだ。それが、義兄であり、養父でもある私の務め。
――サファイア。
私は星空に想いを馳せる。
――お前の弟は健やかに育ってくれた。
これまでは預けた村人家族のお陰だった。私がミールの為にしてきた事と言えば、ただ魔女を狩り殺し、金を作ることだけ。これからも、その役目は変わらない。ミールの学費を稼ぎながら、この剣で彼の未来をも切り開けないか。
それが、私がサファイアの為に出来る弔いのようなものだった。
「いよいよだな」
私はミールに言った。ミールは私をじっと見つめたまま、黙している。
「生まれてからずっと過ごした村だからね、離れるのは寂しいだろう?」
流し目でちらりとその表情を確認して見ると、ミールは悲しそうな笑みを浮かべ、やや俯き気味に視線を落としていた。
「そうだね、やっぱり寂しい」
柔らかな声が零れる。
「でも、僕、学校に行くのが楽しみなんだ。いろんな事を勉強して、いろんな人と出会って、この場所では知れなかった事を知れるっていうわくわくした気持ちが、寂しさよりも上回っているんだ。だから、僕、義兄さんと一緒に都会に行けることが、すごく嬉しい」
その目には再び輝きが浮かび上がる。それは、嘘偽りなんてない、本物の、純粋な気持ちが込められた言葉に違いないようだった。
「そうか」
私は内心、ほっとしていた。
もしもミールが無理をしてついて来ると言っていたらどうしようかとも思った。ひょっとすると、彼は、ただ勉強が出来るというだけであって、姉と両親の眠るこの村で、他の村人と共に農夫をやって穏やかに暮らしたいのではないだろうか、と。
けれど、彼は嘘をついていない。
本当に、純粋な気持ちで、学校に行きたいと思っている。
それならば、私に迷いは生まれない。
「都は広い。この村の何倍も人がいる」
私はミールに言った。
「たくさん学び、たくさん出会える場所だ。その目と頭で色んなことを知るんだぞ」
さり気なく向けた言葉ではあった。だが、ミールはそんな私の言葉をしっかりと受け止め、少年らしい真っ直ぐな眼差しと共に頷いてくれた。
それが、ミールと共に故郷で過ごした最後の夜となった。