8.聖地巡礼
火は燃え続け、空を瞬く星達を脅かすほど明るい光を放っていた。
その炎の熱で温まりながら、私は距離を放して座るカリスと共に同じ空気を吸っていた。こうして人狼とゆっくりと同じ空気を吸える日がくるなんて思いもしなかった。
そう、きっと、今よりずっと若い頃に思い描いていた未来とはかけ離れているだろう。
私の中で長く思い描かれていた未来。それは、サファイアという名の女とその弟ミールを始めとしてささやかだが温かい家庭を築いているだろうという未来のことだ。
サファイアが死ななければ、私はきっと魔女狩りの剣士という道に興味すら抱かなかったことだろう。
ミール。
元気だったころの彼の姿が頭を過ぎる。サファイアとの婚礼が成し遂げられなかった以上、正式には弟ではないが、サファイアの死後も血のつながった弟のように可愛がってきたのだ。サファイアによく似た弟。同じ血を継ぎ、サファイアに似つつも日に日に男として成長していく彼の姿。
だが、そんな彼は今、時間の全てを止め、息や鼓動すらも止めて、冷たくて暗いじめじめとした城に閉じ込められている。
「聖獣達の元を参るのは、まだ幼い義弟の為さ」
「義弟?」
「あるおぞましき魔女のせいで石に変えられてしまった。見た目こそ少女のようだが、私程度の剣士では到底敵わないような大魔女だった。せめて、義弟にかけられた呪いを解きたくて、聖地巡礼をしているのだよ」
「気の毒な話だが、果して神獣がそれを叶えてくれるだろうか」
カリスの疑問はもっともだろう。普通ならば、泣き寝入りか、心中覚悟で仇を討ちにいくことだろう。私だってそうだった。仇を討つべきだと思いながらも、目を背けられない力差を身体の奥底にまで刻み込まれ、しばらく立ち上がることが出来なかった。
そんな自分を愚かだと責め、意気地なしだと罵った。
だが、そんな私の前に、彼女は現れたのだ。
「呪いを解ける唯一の方法を聞いたんだ。だから、ジズとベヒモス、リヴァイアサンの元へ向かい、それを試す。真偽がどうであれ、試さないまま野たれ死ぬようなことはしたくなかったからね」
「方法を聞いた?」
カリスは妙に喰いついてきた。
「一体、誰に」
「女だ。人間の女。だが、魔性の力を兼ね備えている。彼女の言葉はきっと確かで、どこまでも辛辣な力を持っているのだろうよ」
「人間の女……」
不審に思ったのだろう。カリスは低い唸り声を発し始めた。
「その女、どんな外見をしているんだ」
「何故そんな事を聞く?」
私の問いに、カリスは一瞬だけ警戒したような目を見せたが、私の姿を捉えるとすぐにその表情を和らげて、答えた。
「今日喰った女がそいつだったりして、と思ったのさ」
からかうような言葉に私は思わず笑みを漏らした。
「そんなことはない」
そんな事は、あり得ない。
彼女が人狼なんかに喰われるなんてことは、ないだろう。人狼どころか、それよりもずっと素晴らしい力を持つ魔物ですら、彼女を捕える事は不可能だ。そのくらい異質な存在。もはや彼女を人間とするのは間違っているのだろう。
「ほう、断言か」
カリスは言った。
「一体どんな女なのか、興味を惹かれるところだよ」
「別に話す様な特徴は無い」
嘘だった。
「ただ世間一般の人間達よりもずれた世界で生きているというだけの、何の変哲もない村出身の女に過ぎないさ」
これも、嘘。
カリスはどう見ているのだろう。
見た目は人間と何一つ変わらないその鼻で、私の嘘すらも嗅ぎ分けてしまうのだろうか。そうだとしても、私はわざわざ訂正する気にはなれなかった。人狼にうそつき呼ばわりされたとしても、無駄に彼女の事を教える気にはなれなかった。
「まあいい」
カリスは声を低めて言った。
「義弟と言ったな?」
「正式に私の妻となるはずだった女の弟だ」
問われる前に私は答えた。
「名前はミール。恋人によく似た綺麗な少年さ」
「妻となるはずだった……」
カリスが呟くのを聞き、私はふとサファイアを失った日の事を思い出してしまった。あれは、もはや何年前だろう。そんなに前ではない。けれど、あれ以来、一年一年が重たく、短く、果てしなく、私の全てを狂わせるように震えている。
正確にいつだったかも思い出せないほど、私の現実は形を亡くしていた。
「殺されたんだ」
私はカリスの姿を目に焼きつけながら、答えた。
「人狼に喰い殺されたんだ。夫婦の誓いを立てる、その前の日に」
その瞬間、カリスの目が大きく見開かれた。
その宝石のような目に浮かぶ感情は何者だろうか。魔物のくせに、まるで人間のような良心でも宿っているかのように、彼女は憐れみに似た色を浮かべて、私を見つめていた。
「人狼に、か」
カリスは――その人狼は、噛みしめるように言った。
「恨んでいるか?」
「当り前だ」
「全ての人狼を?」
確認するような調子。カリスの顔に映し出されているその表情の意味が、私にはよく分からなかった。私に出来るのは、ただ正直に答えるのみ。
「さあ、分からない」
それが答えだった。
「ただ、あれ以来、私の生活は大きく変わった。農夫でもやって一生を慎ましく終えるはずだったのに、喪に服した後は、すぐにミールを信頼できる家に預けて私は一人都会に出た。それが魔女狩りの剣士になったきっかけだ」
「何故、魔女狩りなんだ? 殺したのは人狼なのに?」
「復讐なんかではないからさ。自暴自棄になっていたという方が正しい。農夫では手に入らない額の金を稼ぎ、その全てがミールに残されるのならば、いつ死んでもよかった。初めはただの兵士になろうと思ったのだが、たまたま頼った人物が魔女狩りの剣士だった。ただそれだけだ」
サファイア。彼女の顔がぼやけた状態で過ぎった。あれほどまでに愛した女の姿もまた、遠い過去のものになっていく。それは本当に恐ろしい話で、身体の内部が引きちぎられてしまうのではないかと思うくらい、苦しい事実だった。
「死んだ女がそんなに恋しかったのか」
カリスが唸るように言った。
「哀れなものだ」
「何とでも言え。所詮、お前達人狼にとってみれば、他愛も無いつまらない出来事なのだろうさ……」
サファイアを食らった人狼を、私は見てもいない。
私が見たのは彼女の亡骸。無残に喰い荒らされ、美しい目を見開き、涙と唾液を始めとしたあらゆる体液を滲ませながら、藪の中に隠されていた、愛する女の姿だけだ。
恨めども、彼女を喰った人狼はとっくに村を立ち去っていたのだろう。
サファイアの死後、人狼による被害はぱたりと息をひそめてしまった。
「つまらなくはないさ」
と、カリスが妙に声を落としてそう言った。
「こんなことを言えば、きっとお前は怒るだろうけれど、それでも、この感情を表すとすれば、そう言うしかない」
そして、カリスは両目を閉じ、ゆっくりとその言葉を口にした。
「お前の気持ちが分かる」
私も同じようなものだ、と。