7.二夜
日が経つのは早い。
特に、年を取るにつれて、子供の頃の時間の流れとの違いに驚いてしまう。
今日一日も果てしなく歩いたはずなのだが、気付いてみればもう日も暮れて、炎をおこして暖をとるような時刻となっていた。
歩き続けて、段々と目的地は近づいてくる。
その道中、カリスは姿を見せなかった。私はただ黙々と一人で歩き、ここから一番近い場所にあるジズという聖獣の縄張りを目指し続けた。
空の獣ジズは魔物達の守護者だ。寄り添う巫女も魔物で、その末裔は鳥と人の間をした魔族なのだという。彼らの住まう場所をこの目で見たことがないわけではない。ただ、じっくりと滞在したことはない。三獣に関する場所では、魔女狩りの依頼や魔女に関する情報もあまり漏れださない。その理由は空の獣ジズと地の獣ベヒモスが、それぞれ魔物と魔族を守護しているからだと言われていた。特に、ベヒモスの御前では魔女狩りが御法度なのだと言われていては、堂々と仕事も出来やしない。私も以前はそれを肝に銘じていた。以前は、だが。
「《赤い花》か……」
忘れかけていたその単語がふと口から漏れたのは、めらめらと燃える炎を見つめている時の事だった。歩き疲れ、今日もまた野宿をするところだった。村も町も付近にはない場所で、私は昨日のように火をおこして暖をとっていた。
孤独な私の周りで世界は夕闇に包まれている。月が出るまではこの不安定な空気が流れ続けるのだろう。そんな世界に優しく抱きしめられながら、私はふとその言葉の示す人物を想像していた。
《赤い花》。
その心臓を見たことがある剣士は、誰もが見惚れると言っていた。
「どんな姿なのだろう……」
「やっぱり横取りするつもりなんじゃないのか?」
声がして、私はゆっくりとその主を捜した。
警戒する気にはならなかった。からかうような口調だが、誰なのかはすっかり覚えてしまっていたからだ。私と暇をつぶし、名前まで名乗っていった酔狂な女人狼の姿は、すぐに見つけることが出来た。
彼女――カリスは気付けば案外近くに居た。勝手に焚火に当たり、美しく整った顔立ちが温かな色に染まっている。だが、いかに美しい人間のようでも、夕闇の中で目にする彼女は、人狼である事を思い出せば思い出すほど不気味だった。
それでも、警戒心は抱かなかった。
彼女に敵意が無いと伝わって来るからだ。
「横取りなんてしないさ」
私は素直に答えた。
「ただ興味があるだけのこと」
「どうも不安な受け答えだ」
カリスは溜め息混じりにそう言って視線を逸らしたが、ふと表情を変えると、私をもう一度まっすぐ見つめ、再び口を開いた。
「人間、お前は――」
「ゲネシスと名乗っただろう?」
透かさず口を挟むと、カリスは面白くなさそうな顔をした。
「うるさい。たかだか餌に過ぎない奴らの名前など覚える気はない」
「まあいい。それならば私もお前の名前を覚えないでおくよ」
からかう気持ちでそう言うと、カリスは軽く舌打ちをした。だが、それ以上状況を変えるつもりはないらしい。カリスは私から目を逸らすと、「そんなことよりも」と、冷静に話を戻してしまった。
「人間、お前はせっせと聖地を目指しているようだが、ジズが人間を保護していないことも知っていて進んでいるのか?」
「もちろんだ」
私は答えた。
「それを分かってジズに会いに行く人間なんて多いだろう。聖地ではいつだって巡礼者で溢れていると聞くが……」
「ああ、そのようだ。しかしな、人間共は気付いていないようだが、魔物を守護しているジズの巡礼者はその半分以上が人間のふりをした魔物だ。残り半分も、恐らく魔族が多く混じっていることだろうな」
含み笑いを見せるカリスだが、その表情には大した悪意は見られない。子供のような悪戯染みた感情しか含まれていないようだ。
昨日出会った時は私を喰おうとしていたなどとはとても思えない。
「ほう、それは初耳だ。覚えていたら周囲の巡礼者でも見てみるよ」
「そうしてみろ。だが、魔女を見つけて斬りかかるような真似はしないでおくれよ。あの場所は神聖な場所なのだからな」
「もちろん」
私は薄情にもそう言った。
「それはよく分かっている」
カリスは、この女人狼は、どこまで私についてくるつもりなのだろうか。その瞬間を、目にすることなのだろうか。目撃し、目の当たりにし、今、この瞬間に交わした会話を思い出すだろうか。そして、どんな思いを私に対して抱くのだろうか。
どうであっても、私にはどうだってよかった。
「そういえば、聖地には何故行くのか聞いてなかったな」
ふとカリスが言った。
空では既に星が光っている。長くて短い夕闇の世界はとっくに消え去っていて、夜の音と空と風が辺りを月の支配する世界へと変えてしまっていた。そんな夜の訪れを密かに感じながら、私は答えた。
「教えるとは言っていないぞ。どうしてそんなに知りたいんだ」
冷たくあしらうと、カリスは意外な表情を見せた。怒るわけでもなく、笑うわけでもなく、何故だか寂しそうな表情を見せた気がしたのだ。それは、魔物が誰かを騙そうとして見せる表情ではなく、人間が何かに対して見せる心細い表情によく似ていた。
「そんな目をするな」
私が言うと、カリスはやっと我に返ったらしく目を逸らした。
昨夜も、今朝も、このような目をしていたのだろうか。私の知らないところで、こんな目を私に向けていたのだろうか。そうだとしたら、非常に奇妙な事に違いなかった。
「仕方ないな」
私はカリスに言った。
「少しだけ教えてやるよ」