6.好奇心
《赤い花》について話して以来、人狼は黙したまま空を見つめるようになった。
魔物の頭で魔物なりに考えることが色々とあるのだろう。魔女狩りの剣士として働いていた頃の私ならばそんな事は思いもしなかったが、今やそんな思考に至るくらい、人間以外の者と触れる機会は増えていた。
名も知らぬ人狼は輝く金髪を揺らしながら、しばしば溜め息を吐いた。何を考えているかは分からない。だが、しばらくそうして落ち着いたのか、やがて彼女は急に私に視線を戻し、再び口を開いた。
「お前を襲わなかった理由を言ってなかったな」
軽く笑んでみせ、彼女は穏やかな表情を見せた。それが偽りだとしても、攻撃性なんて微塵も感じさせないものだった。
「簡単な事だ。好奇心さ」
「好奇心?」
思わず問い返す私の声に、人狼は笑みと共に応じる。
「本職を投げてまで聖地巡礼する若者に興味を持っただけの事だ。それも、塵の中で戦おうとした希有な男。退屈な私にとっては貴重な暇潰しなのさ、お前は」
「興味をもたれるほどの事はしてないさ」
そう答えたものの、引っかかるものがあった。
このまま人狼が私の旅を傍観するとして、ある地点からは傍観など出来なくなっていくことだろう。魔物は人間達が信じているほど異質なものではない程度の事は私でも知っている。欲望に走り過ぎる者もいれば、自分を律する事の出来る者まで様々いるところは人間にも似通っている。
この女人狼はどうか。
一晩以上話して来て、彼女の人柄のようなものは大体分かってきた。きっと、この先、私は彼女に軽蔑されることだろう。所詮、この女は獣のようなもの。獣に軽蔑されるくらいならば気にならない……といいたいところだが、その光景を想像すると、何故だか胸に引っかかるものがあって具合が悪かった。
「どうした、人間。体調でも崩したか?」
「いや、何でもない」
人狼の問いに答えつつ、私は太陽の傾きを見た。
いい加減、移動しなければならない。これ以上、ここに留まっていても、私の目的がかなわないだけだ。それではいけない。何のために《巡礼》をしているのか考えれば、こうして人狼と遊んでいる暇なんて本当はなかったのだ。
そんな思いと共に立ち上がると、人狼は首を傾げた。
「もう行くのか? そろそろ塵が降るかもしれないぞ?」
「塵の事は塵が降ってから考えるよ。いつまでもこの何にもない場所でキャンプをしたいわけじゃないからね」
そう答えて荷物をまとめると、人狼の突きささるような視線が私を見据えた。
物影で横たわる彼女が襲いかかってくるような気配はないが、それでも人間としての血が騒ぐような猛々しい視線だった。身を削がれるような視線の下で全ての荷物をまとめ終えると、人狼の方が真っ先に口を開いた。
「また無駄話をしに来るよ。嫌でも来てやるから覚悟しな」
変に懐かれたのだろうか。
奇妙な想いと共に視線を戻すと、人狼はすでに物影の奥へと吸い込まれそうになっていた。そんな彼女の目を見つめ、私はふと呼びかけた。
「お前――」
私の声に、人狼の目が反応を見せる。
「名前はあるのか?」
その問いに、人狼の瞳が揺らいだ気がした。
彼女の反応を見て、私は慌てて付け加えた。
「名乗り遅れたが、私はゲネシスという。元魔女狩りの剣士ゲネシスだ。国教の為の生贄を守る小さな村で生まれ育った」
それは、初対面の人間に対して行うべき慣例の挨拶だった。
そんな私の挨拶が理解出来たのだろう、人狼はやや困惑したようだった。理解出来たからこそ、意外だったのだろう。
「人間の名前なんて覚えるつもりはないが……」
そうは言ったが、人狼は戸惑いつつ答えた。
「答えてやろう。私の名はカリスだ。覚えても、覚えなくてもいい」
「カリス……」
その名前を繰り返し、頭に刻み込んだ。
魔物に名前を訊ね、その名前を覚えるなんて事は今まで一度だってなかっただろう。あるとしても、それは魔族。今から殺す魔女や魔術師に対してのみだった。人間を騙し、喰い殺すような人狼に、正体を分かっていて名前を訊ねる日が来るとは思わなかった。
カリス。
その名前を噛み砕き、ゆっくりと吸収する。
「また会いにくるよ。《人間》」
カリスはわざと強調するようにそう言うと、あっさりと影の中へと潜り込んでいった。姿が見えなくなると同時に、彼女の存在はもはや私には分からないものとなってしまった。いまや、この場に居るのかいないのかも分からない。
分かろうとしても無駄な事だ。単なる人間であり、魔力を一切有していない私には人狼の気配を追う事なんて出来ない。
だが、それでも、私は確かに人狼と会話をし、名前まで聞きだしたのだ。
それは、非常に奇妙な事だった。カリスという人狼との出会いは、この先もきっと忘れられないものとなるだろう。
歩み出した私は、ふと《この先》とやらについて考えた。
馬鹿らしくて渇いた笑みが漏れだす。私はきっと、私自身がしようとしている事について一切信じちゃいないのだ。当然だ。今からすることは、世界への背徳に等しい。壮大過ぎて、現実的でない。成功する確率は殆どないと思っているし、そう思わない者は馬鹿だとしか思えなかった。
だが、万が一成功すれば、それは私の願った未来の訪れであると同時に、きっと私という存在の崩壊の第一歩となるだろう。それくらい罪深いことをしようとしているという自覚はあった。
それでも、ただ、それでも、この方法に縋らずにはいられなかった。
たとえ、カリスに軽蔑されたとしても、先に進まずにはいられなかった。それが、孤独な私に残された、最後の光に等しかった。