5.赤い花の噂
翌朝、重たい瞼をどうにか開けた先に澄みきった青空が広がっているのを見つめ、私は慌てて起きあがった。
気付かない内に世界はすっかり昼間を迎えようとしている。私の知らない場所ではもうすでに沢山の者たちが今日という日を満喫しているだろう。
そんな朝の訪れに、私は全く気付かなかった。
こんなにも深く眠ったのは久しぶりかもしれない。夢を見たはずなのだが、その内容すら思い出せないくらい眠っていたのだ。それほどまでに私は疲れていたのだろうか。
「起きたか」
茫然と空を見上げる私にそう声をかけてきたのは、今やもう見慣れた人外の女だった。見れば、昨日と全く同じ位置で寝そべりながら、人狼の女は私を眺めていた。本当に襲ってこなかった。それは、願っていた事でもあったが、意外な事には違いなかった。もしも私が剣に自信がなければ、眠ることをずっと我慢していたことだろう。そのくらい、人狼というものは嘘つきなのだ。
だが、彼女は違った。
「魘されていたようだぞ。悪い夢でも見たか」
「さてね、覚えていないさ」
答えつつ、私は女を見つめた。昨日と同じ位置に居るが、ずっとその場でじっとしていたわけではないらしい。彼女からは鮮血の臭いがした。この場で寝ぼけている私には目もくれず、どこかで朝飯をも喰らってきたらしい。
それは恐ろしく奇妙な事だった。
「お前はどうして私を襲わないんだ?」
「なんだ? 喰って欲しかったのか?」
私の質問に応じる気配も無く、人狼の女はけらけらと笑った。そんな素振りのせいで、ますます彼女の思惑が気になった。ただの気紛れなのか、何か深い理由でもあるのか。
「質問に答えろ、狼」
「お前が私の質問に答えてくれれば教えてやってもいいぞ?」
人狼はにやりと笑いながらそう言った。まるで昔馴染みの友をからかってでもいるような態度だ。何故だろう、そんな人狼のことが、まるで人間の知人にでも思えてくるようだった。危険な感情だと我ながら思う。油断や親しみこそが人間に対して親しげに話しかけてくる魔物の狙いであることも多いのだから。
だが、この女人狼が全く私に襲いかかって来なかった理由はどうしても見えてこない。
「分かった」
私は肩の力を抜き、彼女に告げた。
「聞きたい事を言うがいい」
そう言ってやると、人狼はさっそく口を開いた。
「じゃあ聞こう。《赤い花》について知っている事を知りたいんだ」
「それはもしや私を襲わなかった理由か?」
「それもあるが、それだけじゃない。そんな事よりも、教えてくれ。《赤い花》っていうのは、どうして金持ちが欲しがるんだ?」
「興味があるわりに知らないんだな?」
思わずそんな言葉を投げかけると、人狼の表情がやや歪んだ。不本意だったのだろう。人狼というものは誇り高いと聞いている。だが、彼女はその不快な気持ちを理性で抑えこんだようだった。血の気の多い低俗な人間よりも賢い人物なのかもしれない。
「魔女狩りに関して、私は素人だからね」
人狼はそう答え、大きく伸びをした。腰には魔女狩りの剣が見える。狼の姿の時には何処かへ消えるその剣は、《赤い花》を仕留める為だけにあるのだろうか。
「知らずとも興味があるのは金の為か?」
「まずは質問に答えてくれ。私は《赤い花》が欲しがられる理由を聞いているんだ」
透かさず跳ね返され、人狼の睨みを受けた。荒々しいが、やはり理性的だ。彼女は私が想像していた魔物の印象よりも少々理知的な人間に近いのかも知れない。
そう思う事にして、私は答えた。
「万病の薬と言われる魔女の心臓の中でも、《赤い花》は最高級と呼ばれるからだ。理由は沢山あるが、大きくは三つ。一つ目は香りと味の良さ。魔女狩りの剣で殺した魔女の肉は血抜きをして加工しなければ人間にとっても劇薬でしかないが、きちんと処理をすれば問題はない。だが、多くは食料品の肉と違って味が損なわれてしまう。薬として食すにしても、味と香りの良さは好まれるそうだ」
答えつつも、私はやや懐疑的だった。
そもそも私は《赤い花》を見たことがないのだ。情報源が本にせよ人にせよ、又聞きでしかなく、この目で見つめ、鼻と口で感じた結果ではない。
それでも、人狼が求めている以上は、続けるしかなかった。
「二つ目は希少価値。資産と自由を持て余す人間の多くは珍しいものを欲しがるものだ。昔は味と香りだけで乱獲された《赤い花》だが、今はどちらかというと味や香りよりも希少価値が理由の事が多い。喰えるように加工していても、喰わずに家宝として大事に保管する金持ちもいるくらいだ」
そういった金持ちは必ず自慢をする。
昔、幾らで買った《赤い花》だと。地位と名誉のある人物は特に、その《赤い花》を仕留めた剣士の名前もブランドとして記録するらしい。実際に見たことはないが、見習いの頃に私を指導した師はそう言っていた。
「欲望の為だけの独占か……」
ふと、人狼の呟きが聞こえた。顔は空を見上げつつ、彼女の目はどこか遠くをうつしているようだった。
「私もそちらなのだろうかね……」
「三つ目の理由は薬としての効能だ。若返り、無病息災、それだけならば他の魔女の心臓と変わらない。《赤い花》が好まれる大きな理由は、彼らの魂が込められているからだと言われている」
「魂?」
「《赤い花》は子に受け継がれる。受け継いだ子は親と同じように多彩な魔術を使えるようになる。だから、《赤い花》自体にこそ彼らの本質たるものが封じ込められていると言われているのさ」
「くだらない迷信だ。だったら《赤い花》でない他の魔女や魔術師はどうなる? 奴らだって親よりその魔力を受け継ぐのだぞ?」
「さて、真実は知らない。ただ《赤い花》を求める者たちはそう信じているのさ。これで分かったか? 《赤い花》の求められる理由」
私の問いに人狼は素直に頷いた。
「よく分かったよ。人間共も我々と大して変わらないな。見た目こそ同じような姿をしている魔女や魔術師の心臓をよく喰おうと思ったものだ」
「お前はどうなんだ?」
私はじっと人狼を見つめた。世間話に暇を潰している下町の女ぐらいにしか見えないが、その正体は罪のない人の生き血を平気で啜るような魔物なのだ。そんな魔物もまた、恐らく《赤い花》を狙っている。
「《赤い花》を何処かで温めているのだろう?」
私の問いに人狼はやはり口を閉ざした。あまり触れられて欲しくないのだろう。もしくは、私を警戒しているのかもしれない。
「隠さずとももう分かっている。前も言ったが横取りなんてしないさ」
「そうして欲しいところだ。あれは私のものだからな」
観念したのか、人狼はそう言った。やはり、何処かで温めていたのだ。だが、本物だろうか。今の今まで、《赤い花》なんて見たことも無かった。世間で恐れられるような強大な魔女がいても、それが《赤い花》であるというわけではない。むしろ、町の隅っこで呑気に生活をしている老婆が《赤い花》であるという場合の方が多いかもしれない。そのくらい、息をひそめているのが《赤い花》というものなのだ。
だがどちらにせよ、私はその人物を知らないし、この人狼は《赤い花》だと信じている。それだけが確かな事実だった。
「本物だとすれば興味がないわけじゃないが、人狼が隠し持っている宝を奪おうなんていう勇ましさは持ち合わせていないよ」
「どうかな。欲望という者はいつだってすぐそばで息をひそめているものだ。あの女を目の前にしたら、その剣で切り開いてみたいと思わずには居られないかもしれないぞ」
あの女。その言葉を口にする人狼の口調にはやや棘があった。殺さずにとって置いているのは、決して情が移ったからではないのだろう。むしろ、彼女の言葉には敵意すら含まれているように感じた。
もしくは、必死になっているような――。
「そこまでして金が欲しい理由は何だ?」
思わず出た問いに、人狼はやや目を細めた。
「金じゃない。私が欲しいのはその女の命だ。《赤い花》はついでに過ぎない」
恨んでいるのだろうか。きっとそうなのだろう。
その横顔は、まるで人知れず他者を呪い、苦悩する人間のようでもあった。