3.元魔女狩りの剣士
人狼はまだ私の傍に居た。
もう一度塵が降れば、またやって来るかも知れない。だが、そうだとしても、負ける気はしなかった。何度襲ってきたとしても、あの人狼は雄に比べれば大して強くはない。ただ、こちらからも襲うつもりはなかった。黄金の毛皮は美しいかもしれないが、危険を冒してまで欲しいとは思えなかった。
私に必要なのは、今は金ではない。
ゆっくりと進むべき道は、まだまだ広がっていた。
「ここにいるのも魔女を狩るためなのか?」
ふと沈黙していた人狼が再び口を開いた。
私は少々呆れてしまった。人狼と言えば人間にとってはいつの間にか背後まで忍び寄っている死の影。誰もが幼い頃からその恐ろしさを嫌というほど聞かされ、憎むように刷り込まれる。私も例外ではない。いや、それ以上に人狼の事は憎んでいた。
けれど、この人狼の女は自分が人狼である事を隠そうとしないどころか、襲いかかる様子も見せない。その上、人間である私の行動に興味を持っているらしい。
もしかして、魔女を狩りたいという思いが、そうさせているのだろうか。
それほどまでに欲しい魔女とは一体何なのだろう。
疑問に思いつつ、私は答えた。
「それは違う」
騙す必要も無ければ、隠す必要も無かった。
「私はもう魔女狩りの剣士を辞めてしまったのさ。この剣は退職祝いにもらっておいた」
「本当は国に返すべきではないのか?」
「必要ないさ。どうせ返還された剣は廃棄されると聞いた。年々、新しくてよい剣が生み出されるからね。それに――」
「それに?」
「死人の剣を勝手に持ち出しているお前に言われたくないな」
私の言葉に人狼は豪快に笑った。その姿はまるで、冗談の通じる人間のようだ。私はちらりと人狼を見つめた。物影より寝そべり、私を見つめているその姿は、少々だらしのない粗暴な女といったところだろうか。その姿を幾ら見ても、彼女が人狼だなんて分かる手掛かりはない。塵の中を歩いて来なければ、あっさりと狩られていた可能性もある。
溜め息が漏れだした。
辺りでは日が傾き、夜も近づいて来ている。夜間に出歩くのはあまりよろしくない。魔物や魔族はいつも以上に怯え、興奮しやすいからだ。彼らを刺激するような事があれば、たちまちのうちに面倒事が引き起こされる。
今日はもう、移動する時間もないだろう。
「魔女狩りを辞めたのはどうしてなんだ?」
再び問いかけられ、私は深く座り込んだ。剣は持ったまま。日が傾いてきたからだろうか、人狼は少しだけ岩影から身を乗り出していた。
「そんな事知ってどうする」
私がそう答えると、人狼はつまらなさそうに小さく唸った。
「別にどうもしないさ。私も退屈なんだよ。それに、魔女狩りの剣士とゆっくり語る機会なんてないからね。この剣を活用するまでに、色々と知っておきたいんだ」
「それなら私の事じゃなくて、聞きたい事を聞けばいいじゃないか」
思わずそう答えて、我ながら笑ってしまいそうになった。
人狼相手に何を言っているのだろう。言葉を交わせば交わすだけ、まるでこの女の事が同じ人間のようにさえ思えてきた。
「その聞きたい事を聞いているんだ。魔女狩りを辞める理由が、魔女にあるのかどうか。どうして魔女狩りの剣士は魔女狩りを辞めるのか」
「ああ、そういうことか」
私は再び息を吐いた。
人外を相手にしている緊張のせいだろうか。溜め息ばかりが漏れだしてしまう。剣を握る手にもやや汗が滲んでいるようだ。魔物にこうも襲いかかって来ずに話しかけられ続けるなんて経験がない。その分、相手をするのも疲れてしまう。
下手にかわそうとして長引くのも嫌だ。
私はまたしても正直に答えた。
「別に魔女に理由があるわけじゃない。私は今、世界を巡っていてね。聖地巡礼といったところだろうか。全てが終わったら、魔女狩りの剣士として復帰してもいいと思っている所さ」
「なんだ、そんな理由か」
人狼は胡坐をかいて頬杖をつく。まるで別の理由であって欲しかったようにも見える。つまらなさそうに私を見つめるその姿は、まさに人間そのものだった。
「聖地巡礼ねえ」
人狼はその言葉を反芻し、私に向かって首を傾げた。
「何の聖地なんだい? お前達人間の作った宗教の聖地か?」
「違う。万物に共通する聖地だ。聖獣達の治める土地を礼拝するところだ」
私の答えに人狼がやや眉をひそめた。
意外な答えだったのだろうか。しかし、意外というほど酔狂な事はしていないはずだ。魔の血を一滴も引かない人間であっても、国教を信仰する傍ら、古来より根強く残る三聖獣への信仰も厚く残り続けているものだ。
「聖獣……神獣のことか?」
その一言で、人狼が眉をひそめた理由が分かった。
「お前達はそう呼んでいるのだな。そうだ。空の獣ジズ、地の獣ベヒモス、海の獣リヴァイアサン。それぞれが治めている聖地を訪れ、礼拝しようと思っているのさ」
「なんでまた。魔女狩りを投げ出してまでしなければならない理由でもあるのか?」
「それは、お前に語るような事じゃない」
そうあしらって、私はふとこの人狼に興味を抱いた。
この人狼にはどんな事情があるのだろう。獲物として私を狩ろうとしていたはずなのに、今ではすっかり魔女狩りの剣士として情報を得ようとしている。そうまでして準備を整えるということは、相手は一筋縄ではいかない魔女なのだろう。人狼を狩る魔女と言っていただろうか。家族や恋人……もしくは子供でも殺されてしまったのだろうか。
そういえば、この女はある単語を口走った。
「《赤い花》……」
思わず口に出たその言葉に、人狼がやや反応を見せた。
欲しいわけではないと言っていたが、きっと嘘だ。この女が狙っているものとは、《赤い花》なのだろうか。
「さっき、《赤い花》について聞いてきたな。ひょっとして、お前、《赤い花》の在りかを知っているのか?」
「さあ、知らないね」
即答だった。
人狼は寝そべり、私から目を逸らす。怪しい。嘘をついている。本当は知っているが、私に知られたくないのだろうか。一人占めしたいから、という可能性もある。《赤い花》を得て、その金を独占出来れば一生遊んで暮らせるだろう。
だが、そんな大金が必要なのは人間ぐらいのものだ。人狼であっても金が必要ということがあり得るのだろうか。
「そうか」
あり得るのかもしれない。
私はそう思う事にした。以前の私ならば《赤い花》を得られるとなれば興奮を覚えていた事だろう。こんなにも分かりやすい人狼の誤魔化しを見逃すことなく、上手くそのありかを聞きだそうと悪知恵を働かせていたかもしれない。
だが、今はどうでもよかった。今は、金を手に入れるよりももっと、必要なものがあった。《赤い花》等よりももっと大事なものが。
「まあ、お前がこれから知ることがあったとしても、横取りなんてしないから安心しろ」
一応、私はそう言っておいた。
人狼は微かに私に視線を戻している。その目がじっと窺うように私の表情を見つめている。私が嘘をついているかどうか確かめているのだろう。分かりやすいものだ。きっと彼女は目星をつけているのだろう。
そうだとしても、やはり今の私にはどうでもよかった。
「信じられんな」
人狼は不敵な笑みを浮かべた。
「魔女狩りの剣士ならば喉から手が出るほど欲しがるものだと聞いているが……」
「生憎、私は《元》魔女狩りの剣士だからね」
「高価な獲物よりも巡礼が大事なのか。ますます気になるな。何故、そこまでして巡礼したがるのか」
人狼の声が私の心を揺さ振ろうとしている。だが、私は無言でその揺さ振りを制した。今日会ったばかりの、それも先程刃を交えたばかりの魔物相手に、自分の事等語る気にはなれなかった。
日は沈みはじめ、空は段々と紫がかって来ている。そんな空を見上げながら、私は一方的に、人狼との会話を止めた。