1.その魔物との出会い
腐った塵が降っている。
耐えがたい臭気は人間である私の心を荒ませるはずだった。けれど、私の心に存在していた海は荒波を立てるほどもう水が残っていなかった。
干上がったのは哀しみが続いたからだ。
この世界は一人の人間に過ぎない私にとって、あまりにも残虐で、おぞましいものだった。手元に握られるのは長く愛用した剣。幾人もの魔女の血を吸ったその剣は、塵を受けて青白く光っていた。
白と黒のこの世界を魔物達は愛しているそうだ。
人間にとっては悪趣味な汚物の臭いしかもたらさないこの塵を、彼らがどうして好んでいるのかは分からない。古の人々が語り継ぐように、彼らは不浄の生き物なのだろう。汚らわしく、関わりたくも無い。
だが、そんな魔物の一人が、塵で動けずにいる私のすぐ傍まで近づいている事に、私は気付いていた。
一匹だ。私は心の中でそう感じた。一人ではなく、一匹。人間のようなその姿はまやかし。人間であるならば、塵の中を楽々と歩める訳はないのだ。けれど、《彼女》は塵の中を歩んでいた。この汚らしい排泄物のような臭気の塵を被りながら、心地よさそうにしていられる者は、人間等ではない。
女の姿は塵の合間よりはっきりと見えてきた。黄金の髪は美しく、白い塵が塵ではなく雪であったならば、神秘的な情景に目を奪われていたことだろう。その女の顔立ちもまた美しい。だが、その目だけは鋭く、人間の女には宿り得ない野性味が溢れ出ていた。そして、その腰には決して短くはない剣の鞘。
私は静かに剣を構えた。
その動作に女の表情が歪んだ。動けるとは一切思っていなかったのだろう。となれば、私に近寄ってきていた理由は只一つ。
食べるためだ。
塵の中で隠れる暇も無く動けなくなった人間は、肉を食す魔物に見つかれば喰われて死んでしまう。そういう遺体を生まれてこの方何度も見てきた。幼い頃はそれが恐ろしくて、塵の気配がするとすぐに物影に隠れたものだった。けれど、今は違う。多少の苦痛を堪えて、少しくらいならば動く事だって出来るのだ。
「化け物が……」
私は女に言った。
口を開けば汚物のような臭いが入り込んできたが、そんな事はどうでもよかった。この剣を手にして数年。既に私はあらゆる汚らしい場面を生き抜いてきた。臓物、汚物、粘液、体液、おぞましい臭いを発するものが身体に触れたくらいで怯えるのならば、生まれ故郷の田舎へと戻るべきだ。もしくは、町に出て商売でもするか。生憎、今の私にはそのどちらも性に合わない。
それに――。
私にはやるべき事があった。こんな場所でおいそれと命を投げ出すわけにはいかなかった。この金髪女の姿をしたこいつが何者かなんて分からないが、何者であったとしても、降伏するわけにはいかなかった。
だが、女は立ち止まったまま、私の持つ剣をじっと見つめていた。
「お前、塵の中を動けるのか」
女の問いに、私は黙ったまま構えた。
襲っては来ない。来る気配も無く、答えぬ私に文句を言う訳でもなく、私の持つ剣をただ見つめているばかりだ。
剣を恐れているのだろうか。この剣に異様に固執するならば、その正体には心当たりがある。魔女と呼ばれる者だ。男ならば魔術師。だが、私が何度も見てきたのは魔女だ。この剣は魔女を狩るために存在している。これで傷つければどんな魔女でも即死する。それほどの魔力が封じられているのだ。これで斬って即死すれば魔女や魔術師であり、大怪我すれども即死には至らなければ人間かその他の魔物と決まっていた。
魔女にとっては天敵だ。
しかし、本当に魔女だろうか。私は女の姿をじっと窺った。人間の男に過ぎない私には、相手が魔物なのか魔族なのか人間なのかと見分ける力はない。疑わしきは斬るのみ。斬ってからその正体を知るだけだ。こうして目を凝らしていても、女が何者かなんて分かるわけではないのだ。
けれど、私はどうしても女の様子が気になった。
女はちらりと剣から目を離すと、私の顔をじっと見つめて口を開いた。
「お前、魔女狩りの剣士なのか?」
流暢な言葉遣いで私に訊ねてくる。
人間の中で人間に紛れて暮らしてきた証拠だろう。首を傾げると美しい色の髪が揺れ落ち、女性らしい繊細な印象が生まれる。だが、そのささやかな印象すらもかき消すくらい、女の目は爛々と輝いていた。
獣のようだ。私は思いつつ、女に応えた。
「知りたいのならばこの剣に斬られてみるか? お前が魔女ならば死をもって知ることになるぞ」
私の答えに女は小さく笑った。
「やめておくよ」
そう言って、彼女はその場に座り込んだ。襲ってくるつもりはない、という意思表示だろうか。だとしても、塵が降っている以上、私の警戒は解けない。
そんな私に女はさらに言った。
「残念ながら私は魔女ではない。お前達の求める高価な心臓なんて宿っていないぞ」
「どうかな。初めから自分が魔女であると名乗る魔女はそんなにいない」
「そんなに、か」
女はけらけらと笑うと、伸びをした。その瞬間、塵の空間の中で奇妙な出来事が起きた。女の輪郭が歪み、崩れ、影に呑まれるように縮んでいったのだ。手は地面を掻き、段々と毛深い前脚に、長い金髪は縮み、小さなタテガミのような体毛に、そして背後には先程まで無かった尾が生まれた。ただ一つ、眼光の鋭さだけがさほど変わらない。
女の姿がはっきりと見えた時、私は固唾を飲んだ。
そこにいたのは人間の女等ではなく、金色の狼だったのだ。
人狼。その単語が真っ先に頭に浮かんだ。
「どうだ? 驚いたか?」
狼が口を開いた。放たれるのは紛れも無くこの国の人語。先程の女の声と全く変わらないものが私に向けられていた。驚く私の視線をも意に介さず、人狼は再びけらけらと笑って見せた。
「これで魔女ではないと分かっただろう?」
「幻術かもしれないけれどな」
私は答え、人狼を窺った。
人狼は表情を変えずに私を見つめている。狼と言うものは執念深い生き物だ。特に人狼は人間に対する飢えを一度覚えると諦めるという言葉を忘れてしまう。この女も、なんだかんだと言って、隙を見つければ襲いかかって来るに決まっていた。
「随分と臆病な奴だな」
人狼が再び言った。
「だが、臆病さも時には賢さになる」
地面に寝そべると、前脚を揃え、その上に顎を乗せる。尾はゆっくりと揺られ、黄金の体毛の上には白い塵が降り積もっていた。
狼はじっと私の顔を見ながら、低い声で言った。
「幻術じゃないよ。私は見ての通りの人狼だ。魔女などと間違われることは耐えがたい屈辱だ。それよりも――」
狼はそっと顔を上げ、塵の臭気に耐える私を眺める。
「お前はこんな場所で何をしている? 何処へ向かっているんだ? 塵ごときに堪える人間が他の介助なしに歩む場所じゃないのだが……」
「関係ない。どうせお前は私を喰い殺すつもりなのだろう?」
「ほう」
私の言葉に狼は目を細めた。今は獣に過ぎないはずのその顔に、じわりと笑みが広がっていった。ゆっくりと立ち上がると、狼の異様な大きさがひと目で分かった。雌であるにも関わらず、ただの狼ではないことがすぐに分かるくらいの巨体だった。
狼は起きあがると私を再び見つめた。
「せめて話だけでも聞いておこうと思ったが……」
微かに身体に力が入っている。
私は人狼の身体を目に焼き付けた。
「無駄な気遣いだったようだな」
「来い、化け物!」
私がそう叫んだ時、巨大な狼の身体がしなやかに宙を舞った。