8.巫女の鏡
間もなくして竜族の生き残りが駆けつけた。彼らに連れられて私達は大社を離れ、竜の町にあるリンの生家へと連れられていった。私達以外に生き残ったのは竜族ばかりで、人間達は皆、駄目だったらしい。
意識を取り戻したウィルは私達の報告を聞くと顔を両手で覆った。
声をあげず必死に嗚咽を堪えているその姿は、見るものの心を抉るばかりだった。ずっと、プシュケを傍で見守り、この日の別れをも覚悟していたはずの彼は、全く望んでいなかった別れの形を呪っているようだった。
リンの家の一室にはルーナも寝かされていた。誰かが拾い上げ、身体を清めてくれたらしい。お陰で私にもようやく触れられるようになっていた。
竜族たちによってルーナに会わせられた私は、すぐにその亡骸に縋りついた。魔女狩りの剣によって死んだ彼女の姿は蝋のようだった。どんなに触っても、目を覚ましてはくれない。私はぼんやりと目の前に横たわる現実を見つめた。
「ルーナ」
呼びかけても、もう返事をしてはくれない。可愛らしい僕はとっくに死に攫われていった。その現実が波のように押し寄せてきて、ただずっと涙だけが流れていく。
いつしか竜族達は去り、部屋には私とルーナだけが残された。
――悲しんでいるのか。
その声が甦って来た。
憎しみが増大してどうかなってしまいそうだった。それは、ヒレンを失った日にも似ていたが、その時よりも更に深いような気がしてならなかった。半身をもがれたような気持ちが、今もずっと私を大きく包み込んでいる。
死んだ者は帰って来ない。
カリスのその言葉が深く圧し掛かってきた。私はこれと同じ苦しみをカリスにも与えている。その事実だけが静かに私の心の根底に横たわっていた。
「アマリリスさん」
悲しみに暮れる中、扉が開き、もうすっかり回復したリンが現れた。
「そろそろ……」
その言葉を聞き、私は静かに頷いた。
もう時間が来た。清められたルーナの亡骸は、同じように命を落とした大社の人間達と共に埋葬される事となっていた。
この地に、ルーナを残していく。それが当初予定していた事とは違った形で適ってしまうなんて、誰が望んでいただろう。こうなるくらいならば、泣きつかれて困らされる方がずっとよかった。
けれど、ルーナは死んだのだ。その事実はどんなに悔やんでも、嘆いても、覆らない。プシュケが灰となってこの世の何処かへ消えてしまったのと同じように、冷たい亡骸にいくらすり寄っていても戻ってはこないのだ。
リヴァイアサンの大社で、ルーナ達は埋められた。どうにか回収できた遺体だけだ。リヴァイアサンの遺体や、神官たちの一部の遺体はまだ、大社のの中に残されているのだと聞いている。
何にせよ、ルーナは埋められてしまった。その様子を見つめたまま、私は茫然としていた。そんな私をカリスが影から見つめている気配がした。人前には姿を見せず、彼女はただ息を潜めて私を見つめている。
一体どんな気持ちで見つめているのだろう。
そればかりは私には分からなかった。
葬儀を終えて、私は再びリンの生家に呼ばれた。
深手を負ったニフは、リンの生家で治療を受けている。あの大社でグリフォス達に襲われた中で人間として唯一生き残った人物だ。だが、ニフの状態は良くなかった。彼女を連れてまた旅をする事なんて、不可能だろう。
「ニフテリザさんは、この町に留まった方がいい」
家に着くと、リンは私にそう言った。
「傷は深く、前のように歩くことも困難でしょうから」
「ええ……」
答える声に力が入らなかった。命まで奪われなかったのは幸いだった。だが、幸いと言えるのか私には分からなかった。生きていてくれればいいとどんなに私が言ったところで、ニフの不安は一生拭えないだろう。そのくらいの深手をニフは負わされていたのだ。
けれど、リンは約束してくれた。
「彼女の事は我々にお任せください。そしてどうか、ルーナさんのことで、わたし達の事を恨まないでやってください」
リンの言葉に私は気付かされた。竜族達は私達を巻き込んだと思っているのだ。プシュケに選ばれることがなければ、確かにこういう事にはならなかったかもしれない。けれど、私は選ばれてしまったのだ。伝説通りに里に現れてしまった。
「私こそ」
私はリンに言った。
「力のない《赤い花》で御免なさい……」
涙が出そうになって、必死に堪えた。泣いたって状況は変わらないのだ。リヴァイアサンは殺され、プシュケは奪われた。目の前で全ては起こり、それを止めることすら私には出来なかった。
《赤い花》として期待された事が何一つ出来なかった。
それは完全な敗北に違いなかった。
しかし、リンは言った。
「いいえ、それは違います」
すぐ傍ではカリスの気配がする。彼女は今もこの状況を黙って見ていることだろう。それは竜族であるリンも気付いていることだ。だが、リンは気にせずに続けた。
「あなたは確かに《赤い花》を継ぐ者。我々の前に現れた確かな人。力がないなんて事はありません。海巫女様が選んだのですもの」
「でも私は――」
言いかける私を制し、リンは言った。その手には、私が大社で託されていた巫女の鏡が持たれている。
「リヴァイアサンは確かに殺されました。けれど、彼らは不滅の神獣。巫女が転生し続ける限り、彼らもまた必ず復活する事でしょう」
そう言って、リンは俯いた。
「けれど、プシュケ様の魂は、痛みに怯えて死地で彷徨い続けています。彼女の魂を救えるのは、《赤い花》の心臓を継いだあなたなのです」
「私が……?」
「巫女の鏡を持ってどうかプシュケ様の魂をお探し下さい。そうすればきっと、我らが母リヴァイアサンも救われるはずです。罪人を前にしたわたし達は無力。どうか。どうか――」
言葉に詰まるリンを前に、私は黙する事しか出来なかった。
自信はすっかり失っていた。僕一人守れなかった私が、リン達の期待に応えることが出来るのだろうか。そんな不安は簡単には拭えないだろう。
だが、それでも私の答えは決まっていた。
「分かったわ……」
単に役目の為とはいえなかった。ルーナを奪った剣士への復讐かもしれない。ヒレンを奪った悪魔への復讐かもしれない。恨みは私の中で増大し、リンの頼みを突っぱねるという選択肢は、すっかり消えてしまっていた。
「巫女の鏡を受け取ります」
私がそう言った瞬間、物影でカリスの気配が揺らいだ。




