6.第三のパン
よろめくリンに連れられて向かったのは、血塗られた聖堂の中だった。
入ってすぐにリンはリヴァイアサンの亡骸に寄り添い、すぐにその祠に収められていたものを引きだした。それは美しい鏡だった。盾のように見えるが、その裏側は光を反射している。今は血塗られた赤が映っていた。
リンはそれを持って言った。
「これは巫女の鏡です」
「巫女の鏡?」
「説明は後でします。とにかく、この鏡に触れてください。狼の方、あなたもです」
私は言われるままに巫女の鏡と呼ばれたそれを受け取ると、狼姿のままのカリスにも近づけた。カリスはやや警戒を見せたが、問題は見られないということを確認すると、そっと前脚でそれを突いた。
それを見ているうちに、私は段々と自分の中で魔力が戻っていくのを感じた。
カリスも同様のようだった。
「これは――」
口を開いたのはカリスだ。喋れる事に自分でも気づき、すぐに狼姿を解いて、人間の姿へと変わった。これでようやく分かった。カリスもグリフォスに触れられていたのだ。
「これは我らが巫女と同じ力を持つ神器。限られた者が持つ事を許される、大切な鏡です。同じようなものが他の祠にも眠っている事でしょう」
リンはそう言うと、私に膝をついた。弱々しい彼女の身体からは、よく見ればまだ、出血しているのが分かった。
「お願いします。それを使って、私達をお救いください」
鏡を手にし、私はリンを見つめた。
迷っている暇はない。背後で倒れ伏しているルーナ。彼女を殺した仇もまた、プシュケとニフを追って去っていったのだ。
「分かった……これはお借りします」
私はそう言って、走り出した。向かうはグリフォス達の消えた扉の向こう。
その先がどうなっているかなんて知らなかった。恐らく、プシュケとニフも知らずに逃げているのだろう。せめて、袋小路になっていないように願うばかりだった。
「愚か者が。私を置いて行くな」
すぐにカリスが追いかけてきた。
狼姿をしているが、先ほどとは違って言葉を取り戻している。減らず口を叩きながら、彼女は私の前へと躍り出た。
「鼻の悪いお前に代わって、先導してやるから感謝するがいい」
「有難いわね……」
私は力なく答えた。彼女の煽りに構うような気力がなかった。焦りと共に虚しさが心の中を占めている。プシュケとニフを守らなくてはという思いと拮抗するように、殺されたルーナへの想いが溢れて押し潰されそうだった。
「馬鹿め。死んだ者はもう帰らない。涙を流したところで時間の無駄だ」
カリスはそう言うと、あっさり先へと進んでいった。
「泣いてなんかいないわよ……」
私はすぐにそれを追いかけた。言い訳なんてカリスは聞いちゃくれない。でも、それでよかった。カリスはただ臭いを追う事に専念し、私はただカリスを追うことに専念した。
広大な大社の通路だが、さほど長くはなかったようだ。
私とカリスはすぐに、その場所へと辿り着いた。
真っ先に見えたのはグリフォスの背中。追い詰めた獲物を見降ろし、立ち尽くしている。その表情は見えないけれど、きっと余裕の笑みを浮かべているのだろう。次いで見えたのは、その正面で床の上に座るプシュケの姿。震えた眼でグリフォスを見上げている。
青年は、そしてニフは何処へ行ったのだろう。
「グリフォス!」
私は叫んだ。
「待ちなさい!」
ルーナを奪ったのは青年だ。だが、その青年を操っているのは恐らくグリフォスだ。彼女がいなければ、ルーナは死ななかった。彼女がいなければ、ヒレンもまた死ななかった。
「絶対に許さないわ……」
鏡を抱えたまま、私はグリフォスを睨んだ。
グリフォスはそんな私をちらりと振り返ったが、薄っすらと笑みを浮かべただけで何も言わなかった。
一歩、二歩とプシュケに迫っていく。
「待てと言っているのが分からないのか!」
私よりも先に動いたのはカリスだった。狼姿のままでグリフォスに突撃していく。その動きに引っ張られて、私も魔術を放った。鏡があれば、そしてプシュケにどうにか近づけば、グリフォスの力なんて怖くもなんともない。
だが、カリスの突撃も、私の放った風の魔術も、グリフォスを捉える事は出来なかった。それは、以前戦った時には全く見せてこなかった、未知の力だった。光の盾のようなものがグリフォスたちを覆い、カリスの突進と風の魔術を弾き返したのだ。
床に着地してすぐに、カリスが茫然とその盾を見つめた。盾はグリフォスとプシュケを覆うように存在していた。何度も、何度も、カリスは突進する。私もすぐに傍に寄り、鏡を当ててみた。けれど、光の盾が消える事は、なかった。
「プシュケ!」
私はその名を呼んだ。
死が迫ってきている。目の前で、守るべき巫女の命が摘み取られようとしている。どんな魔術も、どんな力も、この盾を崩す事は出来なかった。
「駄目! やめて!」
全てを嘘だと思いたかった。ルーナの死も、人間達の死も、リヴァイアサンの死も、そして目の前のこの状況も、全てを嘘だと思いたかった。
だが、現実だった。
グリフォスがそっとプシュケを抱き寄せる。振り向いたその目が、私とカリスを冷たく捉えていた。
「あなた達が信じて縋った伝説も」
その言葉はプシュケに向けられていた。
「古ぼけたものに過ぎなかったわね」
グリフォスによって美しい衣が剥がされ、透き通るような瑞々しいプシュケの肌が顕わになる。そしてグリフォスの手がゆっくりとその肌に触れた瞬間、プシュケの悲鳴が辺りに響き渡った。
それは、以前見た光景によく似ていた。忘れたくても忘れられないおぞましいもの。
再び私に襲いかかってきたのは音の記憶。プシュケの悲鳴と共に、かつて聞いたヒレンの悲鳴がかさなって聞こえてきた。
止めようにも、もう止められない。ヒレンの時とは違い、傷もなければ血の一滴も飛び散らなかったけれど、グリフォスの触れる手の下で、プシュケの命がどんとん崩されていくのがよく分かった。ゆっくりと食しながら、プシュケを愛おしそうに抱きしめ、その耳元で何かを囁く。
その途端、プシュケの身体が大きく痙攣した。
グリフォスが手を放すと、プシュケの身体は床に堕ちる。開かれたままのその目が何かを捉える事はもうなく、吐息も、意識も、魂も、すべてが刈り取られた後だった。やがて、プシュケの亡骸は崩れて落ち、灰となって風に攫われていった。
それはあまりにも一瞬の事だった。
「美味しかった」
灰になったプシュケを見送りながら、グリフォスは虚ろな声で言う。
その目が再び振り返った瞬間、カリスも私も怯えてしまった。
盾は消えない。だが、消えていたとしても、私もカリスも近づけなかっただろう。プシュケを残酷に食した彼女は、現実離れした気配を湛えながら私達をただ見つめていた。
「柔らかくて、甘くて、とろけるようで、いい香りがして」
グリフォスがゆっくりと歩み寄って来る。
「獣なんかには勿体無い珍味だったわ」
高らかに笑う彼女に立ち向かえる勇気はなかった。