5.耐えがたい痛み
床の上に叩きつけられて、ルーナの姿が人間のようなものへと戻っていく。
それをただ見つめる青年の顔には、何も浮かんでいなかった。感情が欠如しているようだ。痛みと苦しみに痙攣するルーナを見ても、何も思わないらしい。
私はルーナから目を離せなかった。
頭の中が空っぽになっていくようだ。痺れが現れ、視界が霧に包まれていく。遅れて生じたのは先程よりもずっと酷い吐き気で、立っている事すらままならなかった。
――ルーナが殺された。
私の可愛らしい僕であり、私が命に代えても守らなくてはならない存在だったルーナが、魔女狩りの剣で切られてしまった。震えながら死へと向かうルーナを見つめれば見つめるほど、すぐに駆け寄って抱きしめてやりたくなる。けれど、あの剣で斬られた彼女の傷口に触れれば私は死んでしまう。
「ルーナ……」
青年が振り返る。膝より崩れ落ちる私を見据え、剣を握り直した。
私の事も殺すつもりだろうか。だが、逃げる気にはならなかった。ルーナを殺された今、私の動きは完全に封じられていた。私の頭にはルーナの死しかなかった。
「悲しんでいるのか」
青年がぼそりと呟いた。
剣を下げたまま、私に近寄り続ける。その言葉にも感情があるのか分からなかった。ただ目の前に居るものを殺すことしか考えていないのかもしれない。そんな男にルーナは斬られ、そして私もじきに殺されるのだろう。死を前にして私は、もはやプシュケとニフがどうなっているか、グリフォスがどこにいるのか、考えることもできなくなっていた。
死は少しずつ近づいて来ている。青年の歩みと共に。
だが、その時、ふいに私の前に風を伴いながら何かが現れた。目が覚めるような色の毛に覆われた、獣。
見つめると、その獣は私を振り返り、唸った。
狼。黄金の狼。
「カリス……?」
私の声にカリスは唸り声で答えた。そして、すぐに青年へと向き直り、吠える。言葉は一切出てこない。カリスは獣そのもののように青年へと踊りかかった。青年もまた、カリスを睨みつける。
「邪魔するつもりか――」
そう言って青年は剣を払った。
しかし、カリスの動きを捉える事は出来なかった。翻弄するような動きで青年を惑わし、その牙でしきりに青年の足を狙う。段々と青年の方が押されていく。多数の竜族や人間を、リヴァイアサンを、そしてルーナを次々に襲っていった疲れが出てきたようだ。
カリスは容赦なく青年を追い詰める。やがて、血を流すことなく勝敗は下った。青年がカリスより距離を置き、グリフォスの消えた場所へと逃げ出したのだ。
カリスは深追いせずに、すぐに私の所へと戻ってきた。
唸りながら私を見つめ、私の身体を確かめていた。一言も喋らない。私はその事を不審に思った。触ってみるとカリスはやや怒った。だが、噛みついてきたりはしなかった。
「カリス、言葉はどうしたの……?」
私の問いにカリスは睨むように目を細め、そのまま私の服を噛んで歩きだした。
向かうのは聖堂の外。ニフ達が逃げ込み、グリフォスと青年が追いかけた場所ではなく、沢山の死体と負傷者のいる方向だった。
「待って、ニフとプシュケが危ないの。あっちに行かなくては……」
だが、カリスは放してくれなかった。
逆らえば怪我の一つでもさせられそうだった。仕方なく私はカリスに引っ張られるままに聖堂を出た。すると、すぐに視線が向けられたことに気付いた。負傷している竜族の数人が、もう起きあがっていたのだ。
「アマリリスさん……」
その一人、リンが私を見ていた。
傷は深いが命に別条はないらしい。他にも、ウィルや彼の仲間、そしてこの大社に仕えている竜族の数名も意識を取り戻していた。ただ、プシュケの従者たちは絶望的だった。人間の身体は竜族ほど丈夫じゃないから仕方がない。
「一体、何が……」
リンはそう言いかけて、言い淀んだ。
血の臭いが伝わってきたのだろう。私は聖堂を振り返った。祠の傍で横たわるリヴァイアサンの姿。そして、聖堂の真ん中で倒れ伏すルーナの姿。その二つが目に焼きついて離れなかった。
「ルーナ……」
無意識に戻ろうとする私の服をカリスは無言で引っ張る。
放せば私がルーナの身体に触れ、傷口も流れる血もいとわないだろうことが分かっているのだろう。けれど、何もかも忘れてルーナを抱きしめてしまいたかった。もうあの命が戻らないのなら、せめてその亡骸と共に同じ場所へと旅立ってもいいとすら思えてしまう。
そんな私の意識を見抜いているのか、カリスは許してくれなかった。
「なんて、ことなの――」
リンが嘆く。他の竜族達も、沈黙のままにいた。意識はあり、立ち上がることも出来ているが、この状況で戦う事なんて不可能だった。この状況下では、誰もニフとプシュケを助けに行けない。
でも、グリフォスは追いかけていったのだ。ニフとプシュケを追いかけていった。
「アマリリスさん」
リンが真っ直ぐ私を見つめる。
「お願いします。私たちに力を貸してください……」
その目に逆らう事は、出来なかった。