4.神殺しの剣士
青年が祠の前で剣を掲げる。その矛先からは光が溢れ、先程からずっと離さずに捉え続けている視線の先へとぶつかっていった。
何もない空間ではない事を私はもう分かっていた。
ただ、私の目には見ることが出来ないはずだった。彼女の姿が見えるのは、彼女の血を引く竜族か、彼女に愛される巫女だけなのだと聞いていた。
けれど、剣より放たれた光がぶつかった途端、私にもその姿は捉えられた。
リヴァイアサン。その藍色の美しい鱗に覆われた竜の姿は、はっきりと見えた。美しい眼が青年を睨みつけている。愛しい巫女との再会の場を血で穢した不届き者を、心の底から憎んでいるようだった。
リヴァイアサンが咆哮する。歌声のような音にも怒りが込められているのが分かった。
だが、青年は全く引かない。剣を構えたまま、無言で彼女の姿を見つめていた。彼は何を考えているのだろう。私はまったく分からなかった。人間ならば、リヴァイアサンの姿に恐れを成して、手出ししよう等とは思わないはずなのだ。
しかし、彼は躊躇わない。
剣を持ったまま、ここへ来た目的を果たすために力を溜める。
「駄目、やめて!」
私は叫んだ。無駄だと分かっていても、悲鳴をあげずにはいられなかった。
どんなに暴れても、グリフォスの手は離れない。離れたところで、グリフォスに力を奪われている今の私には彼を止める術など残されていないのだ。
「そんなことしては駄目!」
私は青年に叫んだ。青年の心に叫び続けた。
けれど、彼の心が何処にあるのか全く分からなかった。何をされたのだろう。一体、グリフォスに何をされてああなってしまったというのだろう。
嘆く私に応える者はいない。目の前にはただ、力を溜めた青年が、実体化したリヴァイアサンに斬りかかっていく光景しかなかった。
「駄目!」
私の叫びは虚しいだけだった。
リヴァイアサンの力強い攻撃も、青年には当たらない。彼の持つ魔女狩りの剣は、もはや魔女狩りの剣以上の魔剣へと変化し、大いなる海の主の命を吸わんと牙を剥いた。
そして、呆気なく、事は尽きた。
青年が言葉に出来ないほど優雅に剣を払った瞬間、吐き気をもよおすほどの血飛沫があがり、聖堂全体を私の名前の花よりも濃い赤に染めあげた。すぐにおぞましい生き物の臭いが広がり、私の動きを完全に縛りあげる。
数秒後、祠の周りは赤い空間と変化し、その真ん中に立つ黒い青年の姿は浮き上がっているように目立った。
「そんな……ことって……」
私は茫然としてしまった。リヴァイアサンが殺された。あんなにもあっさりと、人間に殺されてしまった。その亡骸は血の海の中に呑まれ、青年の持つ剣には毒々しい肉片が今もまだこびり付いている。
「見事よ……」
私の手を掴む悪魔の声が震えていた。
「これで面倒な邪魔者はいなくなった」
グリフォスは私の手を離すと、青年に向かって告げた。
「この女を任せるわ。彼女は《赤い花》。殺すか生かすか、全部あなたに任せるわ」
「《赤い花》……」
初めて青年が口を開いた。黒い目がじっと私を見つめている。
「本物か……」
「ええ、そう本物よ。心臓を売れば莫大な金になる。あなたが願いを叶えれば、きっと役に立つでしょうね」
グリフォスはそう言うと、歩きだした。
向かうのは、ニフ達が逃げ出した出入り口だった。プシュケを襲うつもりだ。リヴァイアサンの加護が無くなった上に、彼女を守れそうな竜族もいない。
ニフにも、ルーナにも、危険が迫っている。
「じゃあね、愛しい人。あなたもきっと追いかけて来てね」
くすりと笑ってグリフォスは去っていく。残された青年が、ゆっくりと私に近寄ってきた。その手にはリヴァイアサンの血に染まった魔女狩りの剣が握られている。
見るだけでも恐ろしい猛毒の剣。震えを堪えながら、私は青年を睨んだ。
「あなた、自分が何をしたか分かっているの……?」
青年は答えない。ただ私を見つめているだけだった。
「とんでもない罪を犯したのよ。償いきれないほど深い罪を」
足が震えている。逃げ出そうにも逃げ出せなかった。
忌まわしい惨劇を目の当たりにして、思考がついていってくれない。そうしているうちに、青年はとうとう私の目の前に到達していた。ゆっくりとかがんで、彼は私に視線を合わせてきた。
「本物の《赤い花》……」
その手が触れてこようとした時、足音が聞こえてきた。グリフォスが去っていった場所からだ。見れば、そこにはルーナがいた。戻ってきてしまったのだ。
ルーナは息を切らしながら、この聖堂の惨状を見つめ、驚いている。だが、すぐに私と青年に気付くと、慌てて近寄ってきた。
「アマリリスから離れて!」
ルーナの姿が変わり、黒豹へと変化する。
それを見て、青年の目付きが変わった。剣を握りしめ、人間の目から獲物を見つけた鬼の目へと変わっていく。
「ルーナ、来ては駄目!」
私は慌ててルーナに言った。
「命令よ、逃げなさい!」
だが、どういうわけか、その言葉はルーナに届かなかった。黒豹姿の彼女は、聖堂の床を踏みしめながら、青年を威嚇した。その威嚇に引き寄せられるように、青年はどんどんルーナへと近寄っていく。
「駄目……お願い……」
必死に魔力を探った。
身体の奥底に眠っていないか捜し続け、何度も、何度も、心の中であらゆる魔術を唱え続けた。しかし、何も目覚めない。何も起きる気配はない。
「ルーナ、お願い、逃げて!」
その命令でさえも、効き目が現れなかった。
リヴァイアサンでさえも容易く薙ぎ払った剣が、人狼に下級魔物と言われたほどのルーナを捉えるのは、そう難しい事ではなかったらしい。
私の見ている前で、私の願う前で、青年はあっさりと黒豹姿のルーナを呼びこむと、その美しい黒の毛皮を、残虐にも斬りつけてしまった。
途端に、耳を劈くようなルーナの悲鳴があがった。
私にとってそれは、リヴァイアサンの最期よりも残虐非道で恐ろしい、もっとも見たくも無かった光景だった。