3.不届き者
悲鳴。そう、悲鳴だ。
聞こえ始めた時は何なのか分からず、驚いて立ち止まってしまった。それはリンも同じで、怪訝そうに聖堂の外を眺めるばかりだった。
けれど、それが悲鳴であると分かった瞬間、血相を変えて彼女は聖堂の外に出た。
慌ててそれに続いてみると、すぐに信じられないような光景が目に飛び込んできた。鼻にこびりつくのは私にさえ分かる臭気。
人間にしか分からない塵の臭いなどではなく、誰にでも分かるような死の臭いだった。
リンは立ち尽くしたまま惚けてしまっていた。
何もかもが予想を上回っていたのだろう。けれど、状況を全て理解すると、リンは怒声を上げた。黙っていれば人間の村にもいそうな娘が、猛々しく剣を抜き、神聖な大社の中で勇ましく走り出す。
その先に居る者を見て、私は息を飲んだ。
人間だ。人間の青年。黒い衣に身を包む、黒い髪と黒い目を持つ人間だった。返り血を浴びた人間が、剣を持ったまま立ち向かおうとしているリンを見据えている。その後ろに転がっているのは、先程まで聖堂にいたプシュケの従者。変わり果てた姿で罪のない者たちが眠っていた。更にはその周りで深手を負った竜族たちが呻いている。
その中にウィルも居る事に気付いて、私は怖気づいてしまった。
この青年は何者なのだろう。
竜族を切って捨てられるような者は、もはや人間ではない。魔族でもない。魔物でもない。何にも当てはまらない。
「何なんだ、これは……」
隣でニフが茫然としていた。ルーナも私に縋りつき、この光景をただ見つめていた。
ここにいる不審者は青年一人だ。
彼一人でやったというのだろうか。そんなわけはない。そんな事あり得ない。けれど、実際に目の前に広がっている光景は、そういうことだ。
「リン……」
私は初めてその名を呼んだ。
剣を片手に仲間を切られた怒りを顕わにする竜族の娘。そしてそれを迎え撃つ青年。青年と娘。男女という格差も、人間と竜族では逆転してしまう。それくらいの力差があるはずだった。けれど、それは通常の話。相手は竜族の男であるウィル達に深手を負わせているのだ。通常の人間であるはずが無い。
私は慌てて魔力を溜めた。リン一人で敵う相手ではない事をようやく認識出来た。しかし、遅すぎた。悲しいほどに遅すぎた。
リンが突進すると、声一つ放たずに、青年は剣を振るった。そのまま、リンの攻撃を跳ね返すと、躊躇いもなく追撃を与えたのだ。
乾いた音と歯切れの悪い声が響く。
だが、血を流し倒れ伏すリンには目もくれず、青年の視線はすでに私達に向いていた。
「来る……」
ニフの声にルーナが怯えだす。
私は溜めた魔力を放った。思いついたのはヒレンに教わった風の魔法。人間相手に放つのは無慈悲なことこの上ない。だが、相手はもっと無慈悲な事をしている。竜族だけではなく、無力な人間達をも斬り捨てているのだから。
風の魔術を受けて、青年の足が少しだけ止まった。
だが、何故だか彼の身体には傷が出来なかった。私の魔術が彼を避けているようだ。足止めも気休め程度にしかなっていない。
「ニフ!」
私はとっさにニフに言った。
「プシュケを連れて逃げて!」
一瞬だけニフは私を見た。だが、すぐに頷いて彼女は聖堂へと引き返した。
大社の人間達が駆けつけてこないということは、誰もが彼に深手を負わされているか、もしくは殺されてしまっているのかもしれない。
たった一人の、それも、人間に。
「ルーナ」
私はそっとルーナに告げた。
「あなたもニフと一緒にいなさい」
手を離し、行くように促す。
けれど、ルーナはすぐに私を見上げた。その怯えた目つきに耐えられず、私はゆっくりと近づいて来る人間の青年へと視線を戻した。
「やだ。アマリリスと一緒に居たい」
「駄目よ。私は彼を足止めする。あなたはニフと一緒にプシュケを逃がしてあげて。魔物のあなたの力で二人を助けてあげて」
「でも――」
縋りつくその手を払って、私はルーナに強く言った。
「これは命令よ」
ルーナは戸惑いながら私を見つめている。だが、僕である以上、私には逆らえない。やがて、ルーナは意を決したように、聖堂の中へと飛び込んでいった。
これでいい。心おきなく戦える。
私はもう一度魔力を溜めた。全てかわされたのは久しぶりだ。そう、あの時も、ウィルを逃がすために盾になろうとして、全てをかわされてしまった。
戦っていた相手は、青い目の人間の女。
――グリフォス。
その名前が頭を過ぎっ瞬間、私の腕が真横から強く握られた。
ルーナではない。全く違う者が、いつの間にか私のすぐ傍まで迫ってきていた。サファイアのように目を光らせ、彼女は私の表情を見つめ微笑みを浮かべた。
グリフォス。ずっと息を潜めていた悪魔。触れられてはいけない女に、またしても触れられてしまった。
「やっと捕まえた」
ぞっとするような冷たい声でグリフォスは言った。
彼女は私から目を逸らし、真っ直ぐ人間の青年を見つめた。
「行きなさい、愛しい人。あなたの相手は聖堂の中よ」
愛しい人。その言葉を聞いた瞬間、私はカリスの話を思い出した。
グリフォスに騙されて巡礼していた青年。義弟を助けたいが為に騙されてしまった青年。彼の事だ。いつかカリスをその剣で切りつけた。
「放して――」
もがく私をあざ笑うかのように、青年は迷いなく聖堂へと踏み込んでいった。それを確認してから、グリフォスは笑みを堪えながら、彼女は私を引き寄せる。
「残念だったわね、アマリリス」
グリフォスの声が頭の上より響く。
「あなたは無力な《赤い花》なのよ」
グリフォスに腕を掴まれたまま、私は聖堂へと入った。
入ってすぐに、祠の前で怯えるプシュケの姿が見えた。そのプシュケを庇うように、ニフとルーナが立ちふさがっている。
ゆっくりと歩み寄るのは人間の青年。だが、彼の目にはニフもルーナも、そしてプシュケも映っていなかった。その視線はプシュケの真上にある。何を見ているのか、何が見えているのか、私は気づいてしまった。
グリフォスはそんな状況を微笑むように見つめている。彼女の視線はプシュケから離れていない。ずっと欲しがっていた海巫女を手に入れるつもりでいるのだ。そんな事はさせてはいけない。
けれど、私にはもう力が出なかった。グリフォスに吸われ尽くして、何も残っていない。
「逃げて!」
私は叫んだ。
その青年はおかしい。グリフォスもついている。そんな状況でニフとルーナが立ち向かえるわけがない。プシュケを連れて逃げるしかない。
その時、歌声のような咆哮が響いた。私の叫びに共鳴するように、プシュケに降り注ぐ。プシュケはそれを聞いて、目を丸くしていた。
――逃げろ。
そう言っているのかもしれない。
ニフがプシュケの手を掴んだ。逃げ道はいっぱいある。聖堂の入り口は私のいる場所だけではないのだ。その一か所に向かって、ニフがプシュケを連れて走り出した。
だが、ルーナはそれに同行しない。グリフォスに捕まっている私をじっと見つめているばかりだった。
「ルーナ! 一緒に行きなさい!」
私が再び命じてやっと、彼女はニフの後を追った。青年が近寄るより先に、ニフとプシュケ、そしてルーナは聖堂から逃げ果せた。
ほっとしたのも束の間、グリフォスが私に視線を移した。
「これで逃がせたと思っているの?」
私の手を掴んだまま、グリフォスは言う。
「思い知らせてあげる。あなた達はもう負けているのよ」
その言葉が頭の中でこだました。