2.役目の終わり
リヴァイアサンの祠はさざめきが絶えず聞こえる海沿いの大社の聖堂にあった。
この中にリヴァイアサンは潜み、背後の海より竜族とマルの子孫たちを見守っている。さらには、世の中に溢れる当り前の動物――人間等の繁栄を見守っているのだという。
だから、リヴァイアサンは人間達にとって、国教の枠組みを超えた存在だった。古来では女神と言われていた彼女も、今では聖獣。だが、人間の作った国教など信じていない私や竜族達にとっては、今でも神獣に違いなかった。
波のさざめきを聞きながら、祠の前でプシュケは、この大社に住まう竜族の娘と共に二人で立っていた。
従者も、竜族も、そして私達も、誰もが固唾を飲んでそれを見守っている。
身を清めたプシュケの姿は、これまでの二神獣の元を参ってきた時とは比べ物にならないくらい神秘的で美しかった。
リヴァイアサンがプシュケを迎え入れた時、私の役目は終わる。
それは、この大地の人々のほぼ全てが望んだ、生贄の儀式にも等しい。プシュケはこれより死ぬまで、海巫女としてリヴァイアサンの元を離れられなくなる。ジズの元に居た空巫女のカザンや、ベヒモスの元に居た地巫女のダフネと同じように、ずっとこの場所で従者と共に過ごすのだ。
けれど、祠の前に立つプシュケは幸せそうだった。
「ずっとこの日をお待ちしていました」
そう言ったのは、プシュケの隣に立つ竜族の娘だった。
彼女の名は確か、リンと言った。竜の町で生まれ、子供の頃より大社にて先祖であり偉大な母であるリヴァイアサンに仕えてきたのだと言っていた。
これから先、プシュケを守る役目はリンを始めとしたこの場所に生きる竜族達に引き継がれていく。
ウィルや彼と共に来た竜族は私達と共に後方で見守っている。
マルの里でずっとプシュケを守ってきた彼らの役目ももうじき終わるらしい。これより先は、マルの里に戻り、マルと同じ血を引く人間達を守りながら暮らすのだという。
生まれてからずっとプシュケを守ってきたというウィル。
別れを前に、彼は何を想っているのだろう。共に立つプシュケとリンを見つめていると、少しだけ、私の脳裏に想像が巡らされた。
「我らが母リヴァイアサンの喜びは言葉にならないほどでしょう」
リンの言葉に、プシュケが聖堂の天井を見上げる。
そして、プシュケの口より小さな感嘆の声が漏れ、響くと、聖堂の中全体に響くような不思議な歌声が聞こえてきた気がしたのだ。信仰深い人間が聞けば、古来より海に住まうという人魚の歌声だと思うだろう。そのくらい、人間離れした声だった。
その声がするのは、プシュケが見上げている辺り。
歌声ではない。咆哮なのだ。
何者かの咆哮が響いているのだ。
私には何も見えない。きっとニフやルーナも同じ事だろう。だが、彼女に何が見えているかなんて考えるまでもない。震える体で一歩、二歩とプシュケは歩み出した。
リンは邪魔をしないように下がる。
その動作にも気付かないようで、プシュケはただ一点を見つめていた。
「あなたが……」
その言葉ははっきりと聞こえてきた。
感動に打ち震える声。それは、生贄とされて無理矢理捧げられる子羊の悲鳴とは全く異なるものだった。
「あなたが、我が主……」
リヴァイアサン。彼女は確実にこの聖堂の中に居る。
今だけは竜の血を一滴でも引いていたかった。沈黙のまま、この光景に見惚れているニフや、私の手を握ったまま少々怯えながら見守っているルーナが同じ事を考えているかは分からない。ただ、私は今、少しだけ、リヴァイアサンの姿を見ることが出来ない自分に失望していた。
プシュケが膝をつく。
「ずっとお会いしたかった」
彼女がどんな顔をしているのか、私からは見えない。
「この日が来るのを待ちわびておりました」
その声は、プシュケのもののはずだけれど、プシュケではない誰かの声のようでもあった。マル。その名前が私の脳裏を過ぎっていく。リヴァイアサンに最初に捧げられた初代の海巫女の声なのだろうか。
歌声のような咆哮が響く。
何を言っているのかはやはり分からない。それでもプシュケには分かっているようだ。プシュケと共にいる竜族達はどうなのだろう。偉大なる母祖の声は、やはり分かるものなのだろうか。
「リヴァイアサン」
唱えるようにプシュケはその名を呼んだ。
その姿はまるで想い人の名を呼ぶ女性のようだった。手を伸ばす先に、リヴァイアサンがいるのだろうか。誰もが黙りこんだまま、プシュケとリヴァイアサンのやり取りをじっと見守っていた。
リンが振り返った。見つめるのは私達の姿。
竜族特有の目をこちらに向けて、厳かな表情で彼女はそっと口を開く。
「皆さま」
静かだけれどよく通る声で、リンは私達に言った。
「後はお二人だけにしましょう」
リンの言葉に竜族達が頷いた。
プシュケは振り返りもしない。出来ないのだろう。もうすでに彼女はリヴァイアサンに捧げられたのだ。その事実を確認するように、ウィルはしばしプシュケの背中を見つめていた。次いで、プシュケの伸ばす手の先の空間を見据え、優雅に、ゆっくりと、頭を下げた。それは、拝礼のようだった。頭をあげると、ウィルは躊躇いも無く振り返り、他の竜族や今日よりこの場所に住まう事となるプシュケの従者と共に、聖堂を後にした。
今までもこうやって巫女たちは捧げられてきたのだろうか。
空巫女のカザンも、地巫女のダフネも。
「行きましょう」
リンが私をそっと諭した。
気付けば、プシュケを眺めているのは私だけになっていた。いや、私だけではなく、私と手を繋いでいるルーナ、そして、そんな私達を待っていたニフだけだった。
リンは私にひっそりとそう言って、先に歩きだした。私もルーナの手を引いて、ニフと共にそれに続いた。
奇妙な物音が聞こえたのは、ちょうどその直後だった。