6.祝福の風
プシュケ達が清めから戻って来ると、私達は皆、ベヒモスの祠の前へと通された。
そこはジズの大社とは違い、中庭のようだった。
緑の大地と壁に囲まれ、空からは木漏れ日が射している。祠の背後には大樹があり、ベヒモスの化身のように物々しく枝を揺さ振っていた。
プシュケとその従者は、ダフネに連れられて祠の前に立っていた。
私はルーナやニフと共に一角達の傍でそれをじっと見守っていた。
相変わらず、私の目に神獣は見えない。それこそ、世が正常である証らしい。巫女や神獣の末裔以外の者に神獣は姿を見せない。彼らが部外者の前に姿を現すとすれば、この世の終わりか、誰かが彼らの逆鱗に触れた時なのだという。
見えないけれど、そこにいる。
私は黙ったまま実感していた。
ベヒモスが動く度に、風が生まれ、大樹の枝が揺れるのだ。神獣は一体、何を語っているのだろう。私達魔族の守護者であり、魔族が世の中にいてもいいと認めた神。
「『海巫女とリヴァイアサン。どうか二人の仲が永遠に強固なものとなりますように』」
ダフネが大樹を見上げて諳んじた。
それこそがベヒモスの言葉なのだろう。
プシュケとダフネを照らすように木漏れ日が強められる。その姿は息が詰まるほど美しく、カザンの時とは違う、非常に柔らかな空気に満ち溢れていた。
これで、二神獣の祝福を受けた。
後はリヴァイアサンの元へ向かうだけ。
私達に光が見えてきた。けれど、油断は出来ない。グリフォスは今も何処かでプシュケの事を狙っているのだろうか。彼女が唆した人間は今、何処に居るのだろう。そして、彼らを見張り、邪魔をすると言っていたカリスは――。
祝福の儀が終わると、私達は大社の客間に通された。
今宵は一泊し、明日には獣の町に戻る。
ウィル達は待ちわびているだろう。町を出発すれば、後は彼らの故郷である竜の町に向かうのみ。リヴァイアサンにプシュケを届ければ、私の役目も終わる。
だが、やはり私は不安だった。
グリフォスが静かすぎる。
「カリス、いないの……?」
客間に一人きりの時、私は再び物影に訊ねた。
気配は分からずとも、人狼ならば敢えて隠していることもある。だが、カリスの返答はやはりなかった。
どうして戻って来ないのだろう。
グリフォスは今、何処に居るのだろう。
一角達は警戒を見せていない。けれど、やっぱり私は怖かった。グリフォスの気配なんて私には分からないのだから当然だ。
カリスは、やはり失敗してしまったのだろうか。
相手が人間だからと油断してしまったのだろうか。
私にとってみれば美しい人狼であっても、人狼を憎む人間にとってみれば汚らしい魔物に過ぎないかもしれない。魔女の性に囚われていた時の私が喉から手が出るほど欲しかったカリス。けれど、この焦燥感はやはり、獲物を奪われた怒りによるものではないようだった。
ただ単純に、カリスの無事を、私は願っている。
「アマリリス、寝ているの?」
客間の扉が開かれた。
入ってきたのはルーナだった。ジズの大社と同じく、ベヒモスの大社もまたルーナにとってはいい探索場所となっていたようだ。
「起きているわ」
そう答えると、ルーナは扉を閉め、真っ直ぐ私の元へ来た。
「ニフは? また置いてきちゃったの?」
「一角の人達となんか難しい話をしはじめたんだもの……」
つまらなさそうにルーナは言った。
「でも、わたしも蜻蛉の子達から面白い話を聞けたよ」
「どんな話?」
「普段、植物とどんな会話をしているかって話!」
ルーナは無邪気に笑んだ。
「あのね、植物って案外気難しい人が多いんだって。でも、中にはびっくりするくらい人懐こい人とか、情報通とかもいるんだって」
「植物も私達と変わらないのね」
私の言葉にルーナは大きく頷いた。
「あ、それとね、ティエラの里の話もいっぱい聞いてきたんだよ」
ティエラの里。私はふとジズの大社での事を思い出した。
ルーナはシエロの里に行きたいといっていた。きっと今も彼女は私がカリスととんでもない約束をしている事なんて想像もしていないのだろう。
役目を終えれば、また以前のような人狼狩りの日々が始まると信じている。
人狼を狩りながら世界の各地を旅するのだと思っているのだろう。
「ティエラの里はね、人間達に妖精の里とも呼ばれているんだって」
ルーナは語った。
「人間達が悪さしようと近づけば、たちまち一角が追い払ってしまう。だから、近くの町や村ではユニコーンと妖精の伝説が昔っからあるんだって」
「そうね。空想が好きな人間なんかは、子供の頃から蜻蛉の子に憧れるそうよ」
だから、蜻蛉の子は取引される。
一角の守護から外れた蜻蛉の子は、人間の庶民であっても簡単に捕まえられてしまうのだ。その結果、人間と蜻蛉の子の混血が生まれることもあるらしいけれど、あまり多くは世に出てこない。一生閉じ込められているか、見せ物として各地を彷徨っているか、そのどちらからしい。
私もヒレンと共に見せ物にされている混血の子を見たことがある。
人間の艶めかしさと蜻蛉の子の神秘的な雰囲気が合わさり、男女共に息を飲むほど魅惑的な容姿をしている。純血の蜻蛉の子のような幼さはあまり見られず、人間の大人達に色目を使われていたのを今でも覚えている。
私もヒレンも共にそんな混血の子に魅惑されつつも、思ったものだ。見せ物にされているあの混血の子達よりも、私達はこんなにも自由なのだと。
「ティエラの里はシエロの里に比べたら、そんなにお祭りはしないんだって。狐ってお祭り好きなのねって蜻蛉の子達が言ってた。でも、ティエラの里でも大きなお祭りが秋にあるそうだよ。風が強く吹く日で、自分達の巫女がベヒモスと仲良くしているのを祝福するためのお祭りなんだって」
そう言って、ルーナは私にすり寄ってきた。
「ねえ、アマリリス」
妙に甘えた声で彼女は私を見つめる。
「わたしもそのお祭り行きたいな。役目が終わったらシエロのお祭りとそのお祭りに行きたい。連れてってよ」
私は黙してしまった。
どう答えればいいのだろう。カリスに頼めばいいのだろうか。いや、さすがに彼女もそこまでは待ってくれないだろう。それに、もたもたしていれば、私だっていつ魔女の性が再び目覚めるか分からない。
ルーナの今後を考えれば、一緒に祭りに行く約束なんて出来ないだろう。
「アマリリス?」
黙っているとルーナが心配そうに見つめてきた。
「なんだか最近変だよ? どうしたの?」
「ごめんね、なんでもないの」
私はルーナの頭を撫でてそう言った。
「役目が終わった後の事は、役目が終わってから話しましょうね」
そう言い聞かせると、ルーナは解せない様子で頷いた。