3.ベヒモスの森
一角達はその誰もがとても穏やかそうな人々だった。
竜族のような聡明さ、人鳥のような逞しさ、それらに劣るわけではないが、一角の持つ特徴は、見る者が注目するその角の他に、豊かな自然の力を利用できる不思議な魔力にあるようだった。
竜族の待つ獣の町は段々と遠ざかっていく。
だが、一角達の始祖が待っている大社までの道のりは、ジズの待っていた山よりも険しいものではなかった。
私の前を歩いているプシュケも、プシュケに付き添う人間達も、その歩みを遅らせない。
決して無理をしているわけではなく、疲れることがないようだった。それは私も同じだ。まるで、踏みしめる柔らかな大地より力を貰っているかのよう。
前にもこんな感覚はあった。
ヒレンと訪れた時、彼女が真っ先に気付いたのはこの森の土の柔らかさと、不思議と疲れない清浄な空気だった。
――さすがはベヒモス。
魔女らしくややベヒモス贔屓なところのある彼女は、そんな事を言っていた。
今はもう戻って来ない昔の話。思い出せば思い出すほど、止まらなくなってしまうのは厄介なものだった。
「アマリリス、疲れてない?」
横から声がかかった。
ルーナだ。人間によく似た姿で人間のふりをしながら歩いている。ここもジズの山と同じだ。彼女が変身する事は私が禁じてある。
この場所を行き来している礼拝者の中にも人間はいて、彼らはやはり、神獣とは一切関係のない人間でないものを恐れてしまう。ニフが柔軟だからといって、皆がニフのようだと思ってはいけないのだ。
この場を混乱させるのは危ないことだ。
混乱は必ず波乱を生み、その波乱は悪魔に隙を与えてしまう。
自ら付け込まれるような要因を作り出してはいけない。けれど、ルーナにはなかなかその事が理解してもらえなかった。
「変身出来たら乗せてあげられるのにな」
無邪気にそう言うルーナの手を、私は冷静に掴んだ。
「別にそんなことしなくても、大丈夫よ」
変身が許されていない事は視線で伝わっているらしい。ルーナはしょんぼりして、大人しく私に捕まった。
相変わらず子供のようだ。だが、子供ではなくもう大人。出会った時には僅かに残っていた少女らしさも、段々と消え始めてきていた。
成長とでも言えばいいのだろうか。近頃のルーナは、ある程度の魔物から自分の身を守れるくらいに力強くなっていた。
おかげで私は役目に没頭できる。
けれど、手がかからなくなると少しだけ寂しい気もした。
「あ、見て」
小声でルーナが指をさす。
その言葉に従って見れば、前方に厳かな雰囲気の建物が見えていた。ジズの山で見たものとよく似ている。違いがあるとすれば、その装飾のモチーフと、込められている意味くらいのものだろう。
一角達が振り返った。
私達が問題なく着いて来ているかを確認しているらしい。ついでに数名が周囲を窺っている。彼らにもまたグリフォスの気配が分かるのだろうか。
その能力が羨ましかった。
「地巫女様って、どんな御方なのかな?」
ルーナが首を傾げる。
私は声をひそめてさり気なく答えた。
「地巫女は魔族。蜻蛉の子と呼ばれる妖精の一族から生まれてくるの」
「蜻蛉の子?」
「その名の通り、蜻蛉の血を引くと言われている人々。植物と会話できるそうよ」
「へえ、凄い人達なんだね」
「そうね。でも、生涯可愛らしい人が多いのよ。人を疑うことを知らなくて、すぐに騙されてしまうの。だから、多くは人間や他の魔族、魔物に簡単に捕まって、最悪は殺されてしまうことも多いの」
残酷な話にルーナが身を竦めた。
人懐こい蜻蛉の子を連れ去る者は多い。普段は魔族を駆逐したがる人間でさえも、蜻蛉の子は手元に置きたがる。だが、多くの場合は愛されて、大事にされる。幸せなまま拾った人の下で生涯を終える蜻蛉の子も多い。
けれど、運が悪ければ、悲しい未来が待っている。
蜻蛉の子を懐かせて捕まる者の中には、残虐な性癖を持つ人間や、魔女の性で蜻蛉の子に執着している者、蜻蛉の子を食べて暮らしている魔物などもいるのだ。
また、そういう輩に、捕まえた蜻蛉の子を売りつける生業の者もいる。
蜻蛉の子を懐かせるのは簡単なのだ。会話をして、笑顔を見せるだけでいい。
いつか地巫女を生みだす可能性のあるティエラの里に住まう蜻蛉の子達は、ベヒモスの子孫である一角達によって厳重に守られている。
だが、大人になっても自由奔放なことが好きな彼らは、なかなか一角達の苦悩を分かってくれないらしい。
プシュケを待っている地巫女も、そんな蜻蛉の子の一人。
確か、ヒレンと共にここを訪れた時は、捧げられたばかりの若き巫女で、礼拝者達の前に現れる事はなかった。ヒレンは残念がっていた。
――次に来たときは会えるといいなあ。
そう言っていた彼女の声が頭を過ぎっていった。
あの時、ヒレンが見る事の出来なかった巫女の姿を見る事になるのだ。そう思うと、少しだけヒレンに悪い気がした。
「どうぞ先にお入りください」
大社に着くと、一角達が私達を先に入れた。周囲をしきりに窺うのは、やはりグリフォスのせいなのだろうか。
せめて、彼らが教えてくれればいいのだけれど。
私は心の中でそっと思いながら、彼らの指示に従った。