9.次なる聖地
祝福から二日後、私達はジズの山を降り、夕方前には鳥の町に戻っていた。
人鳥の見張りもあってか、グリフォスらしき影が現れる事は無かった。大社にて別れた美しき空巫女カザンの事はやはり心配だったが、今はただジズの加護と人鳥たちの警護を信頼するほかない。
鳥の町に入るとすぐにウィルの率いる竜族達と合流した。
どうやら、人鳥の一部が空を飛んで彼らに教えてくれていたらしい。
今宵はまた一泊、この鳥の町の宿に泊まり、明日には次なるベヒモスの膝元を目指して出発する。そう決まるや否や、ルーナは慌ててニフを連れて鳥の町の繁華街へと消えた。
どうやらまだ町を観光したいらしい。じっとしていられないのは、人食い悪魔を恐れていないからだろうか。
だが、彼女を引きとめるのは不可能で、私はまた一人で宿へと戻った。
三日前と同じ部屋だ。その事に少しだけ安心感を覚えた。
扉を閉めてすぐに私は部屋の隅より視線を感じた。
「カリス?」
見つめる先には何もいなかったが、確かにカリスの気配がする。
隠れるつもりはないようで、彼女は私の声に返答するかのように姿を現してくれた。
「ついさっきの話だが」
カリスは唐突に喋り出した。
「前に言っていた人間の青年がこの町に入って来たぞ」
どうやら約束通り、私に情報を伝えに来たらしい。
「案外、義理堅いのね。あなたとの約束を守れば、ルーナのその後も安泰かも」
「真面目に聞いてくれないか? 人間は明日、ジズの祠に向かうそうだ。早ければその日中に大社に着くだろうさ。そこで彼の本来の目的が分かるはずだ」
「彼と……グリフォスのね……」
私が言うと、カリスは深く頷いた。
「悪魔の女は何故か、海巫女ではなくその人間の傍を見張っている。彼の邪魔をされたくないようだ。だから、ちょっと邪魔をしてやろうかと思っている」
カリスの言葉に私は思わず身を乗り出した。
「危険だわ。相手はグリフォスに導かれているのでしょう?」
「大丈夫だ。ただ翻弄するだけさ。とにかく明日は私なりに時間を稼いでみるから、念のため、今日中にお前から竜族か人鳥に伝えてくれ。悪魔に見守られる不審な人間の男が大社に向かっていると」
「――分かったわ」
私が頷くとカリスがふと笑みを浮かべた。
壁に寄りかかりながら、彼女は口を開く。
「それにしても、魔女の性のないお前は他人のようだな。だが、役目を終えたらきっとそのツケは返ってくるぞ。果して、欲望を堪えて、私との約束を果たせるのかね」
「果たせたら、ルーナには手を出さないでくれるのでしょう?」
「ああ、出さないよ。その上、奴が穏やかに生涯を送れるよう、影ながら配慮してやってもいいくらいだ」
くつくつと笑うカリスに、私は眉をひそめた。
「あなた、もしかして私の言う事、信用していないの?」
するとカリスは大げさに驚いてみせた。
「信用されていると思っているとは驚きだ。お前に関して信じているのは、役目に対する忠実さと、僕や友に対する愛情。そして、お前の身体の根底にて眠りについているその残虐性だけだ」
「残虐性ねえ」
「役目を終えた瞬間、お前はきっとまた人狼を襲いだすだろう。今のお前には実感出来ないのかもしれないが、私も、お前の仲間たちも、そう信じているだろうよ」
「そうね。そうならないなんて自信持って言えないわ」
私は適当に応えて、そのまま寝台へと向かった。今回は寝台を占領されてはいない。私が使う予定の寝台に座りこむと、カリスは再び目を細めた。
「だが、それでも堪えてみせると?」
カリスの問いに、私は頷いた。それを受けて、カリスは溜め息を吐いた。
「そこまでして何故、戦いを放棄したがるんだ。クロを殺しておいて、私を殺せない理由は一体、何なんだ」
「このまま戦い続けてもキリがないから……かしらね」
私は静かに言った。
「あなたは手強い。以前は喉から手が出るほど欲しかった狼だけど、ルーナに手を出されるのは嫌なの。時間が経てば経つほど、あなたを欲しいと思う気持ちよりも、ルーナに何かされるのが怖いと言う気持ちが強くなっていくわ。だから、終わらせたいの」
「自分の身を差し出して、か。やっぱり愚かな奴だ。生き延びてその僕と平穏に暮らす未来を勝ち取ろうとは思わないのか?」
「出来れば、そうしたいわね」
私は俯いた。
思い出すのはジズの大社の客間にてルーナの言った無邪気な提案だ。役目が終わったら、シエロの里の祭りに行きたいというもの。ルーナも、そしてニフも、まさか私がこっそりカリスとこんな約束をしているなんて思いもしないだろう。二人にとって私は、まだ、人狼狩りの魔女なのだから。
カリスの視線を受け止めながら、私は小さく付け加えた。
「あなたに勝てる自信がもうないの。戦っているうちに、いつかルーナとニフだけを奪われて、また一人きりにされてしまうのではないかと思うと怖いのよ」
「なるほどね。確かに私はそうするつもりだったよ。お前を孤独してやるのもいい案だと思っていたさ。ルーナもニフも、私にとっては本来ご馳走だからね」
だが、とカリスは大きく息を吐いた。
「約束しよう。この先、卑怯な手は使わない。だから、アマリリス。役目を終えたら私と全力で戦え。欲に任せて私と一対一で戦うんだ。生き残った方が未来を手に入れる。どうだ? 面白くないか?」
「面白くないわ」
私は即答した。
「持久戦は苦手なの。最初の一撃を外せば、ただあなたに捕まるのを待つだけ。きっとあなたが期待しているよりもずっとつまらないものになるわ」
「その一撃が私に当たるとは考えないのか? せっかくお前にチャンスをやろうと言っているのに」
「そんなのいらない」
私がそう言うと、カリスは黙した。
壁に寄りかかったまま、私の事を冷たく見下すように眺めている。それは、私を憎んでいる眼差しというよりも、私に呆れているという眼差しに見えた。
不意に周囲をちらりと見渡してから、カリスは言った。
「まあいい。ともかく今はお前の役目を終えることが先決だ。いいな、アマリリス」
と、カリスは私を再び見つめた。
「約束を果たす前に殺されるんじゃないぞ」
「あなたもね、カリス」
私がそう言うと、カリスは薄っすらと笑い、そのまま影の中へと吸い込まれていった。