8.変わり者の人間
ニフが私達の客間に戻ってきたのは、ルーナが戻って来てからさらに三十分以上後のことだった。扉を開けるなり、私の膝の上で眠る子猫の姿を見つけ、そのまま何も言わず、静かに部屋に入ると自分の寝台へと直行した。
そっと座りこむと、ニフは落ち着いた声で言った。
「なんだ一人で帰ってきていたのか」
ルーナの事だ。どうやら捜していたらしい。
「それにしてもぐっすりだね」
「ついさっき寝たのよ」
私はニフに言った。
「それまで休みなくずっと喋っていたわ」
子猫姿のルーナを抱え続け、もうすっかり膝は温まっていた。さっきまでずっと喋っていた事を思えば、静かなものだ。
ニフがそっとルーナを覗きこんでいった。
「こうしていると本当に子猫のようだね」
その小さな背中を撫でてから、くすりと笑う。
ニフに出会うまで、人間というものは得体の知れない者を拒む輩ばかりだと思っていた。だからこそ十分な証拠もなしに、同胞を吊るしあげられるのだと。
少なくとも、私が見てきた人間は殆どがそうだった。
「ニフ、あなたって変わっているわね」
何気なく私が言うとニフは首を傾げた。
「どうしてさ?」
「ルーナが人間でないことを知っていて平気で触ることが出来る人間なんてあなたくらいのものなんじゃないかしら」
「まさか。私以外にもルーナに興味を持つ輩はいっぱいいるよ。まあ、黒豹の姿は初めて見たら怖がっちゃうかもしれないけどさ」
笑みを噛みしめ、ニフは寝台へと戻っていった。
彼女は本当に柔軟な人間なのだろう。他の人間達が恐れ、怯えるようなものにでも、すぐに理解を示してしまう。
だから、他人に気に入られやすく、その反面、他人の嫉妬も買いやすい。その結果が、私達との出会いの光景。ニフを吊るそうとしていた人々の表情を今でも覚えている。
それでも、彼女は自分を殺そうとした町の人々の悪口すら言わなかった。
「あなたは何処に行っていたの?」
眠り続けるルーナの背を撫でながら、私はニフに訊ねた。
「色々」
ニフは軽く答える。
「人鳥と話してみたり、狐人の一人を捕まえて話を聞いてみたり。ジズについて訊ねてみたら、皆、嬉々として語っていたよ。やっぱり、自分達の事に興味をもたれるのが嬉しいのは人間と同じなんだね」
「そういうものなの?」
私が訊ねると、ニフはしっかりと頷いた。
「生まれ故郷の話や、自分の親兄弟、親しい友達の話を嬉々として語る人は多いものさ。私だって前はよくハノに――」
言いかけて、ふとニフは言葉に詰まる。
「ごめん、やっぱ何でもないや」
苦笑気味にそう言ったが、その表情が段々と暗くなっていった。
自分の身の上を思い出してしまったのだろう。きっと深く問わない方がいい。私は口を閉じて、ニフの沈黙を受け止めていた。
だが、私とニフの沈黙を破る声があがった。
「ハノって、前に襲ってきた吸血鬼だっけ?」
いつの間にか、ルーナが起きていたのだ。
彼女はうんと伸びをして私の膝から降りると、すぐに人間の娘のような姿に変わった。そのまま床に座るルーナに、ニフは笑みを浮かべた。
「そうだよ。よく覚えていたね」
「ルーナ」
私はふとルーナを咎めた。ルーナはどうして私が咎めるのか理解しないだろう。でも、そんな事どうだっていい。あの吸血鬼のことは、ニフに対しては禁句だ。
だが、ニフはそんな私にそっと首を振る。
「大丈夫。気にしないで」
彼女はそう言うと、ルーナへと視線を戻した。
「彼は私の婚約者だったのさ」
ニフは自分から語りだした。
私は黙した。ニフが語れるのなら聞こう。ルーナはというと、相変わらず、私の気持ちも知らないでニフに訊ねた。
「婚約者?」
「そう。近々、彼と結婚するはずだったんだ」
「吸血鬼と結婚?」
ルーナが混乱する。それを見て、ニフは笑った。
「まさか私も自分が吸血鬼と婚約していたなんて思わなかったよ。彼は元々余所者でね。あの町の生まれじゃなかったんだ。でも凄くいい人で、町の皆から信頼されてさ。けれど、婚約する前に気付くべきだったんだ。彼が来てから吸血鬼騒ぎが起き始めたことにさ」
ニフはそう言って寝台に寝そべった。
その目には涙が浮かんでいるような気がした。
もういいと言いかけそうになったが、私は堪えた。彼女が語りたいのなら、語らせてやった方がいいのかもしれない。
「いつしか、ハノが疑われた。もちろん、私は未来の夫を庇ったよ。庇ったことで今度は私が疑われた。その時、町の人達の一部が、次々に私に不利な事を言いだしたんだ。かつて私が交際を断った男だったり、ハノに好意を寄せている若い女だったり、全く知らない人だったりと様々だった」
そういえば、あの町の人食い鬼が言っていた。
犯人に仕立て上げられた理由は嫉妬のせいらしいと。鬼すらも同情するような状況にいるピュアな女性だと。
「私は正直にやってないといい続けた。そうしたら、いつの間にか、ああなったんだ。ハノの疑いは晴れたけれど、私は拘束されたまま疑いを晴らす事も出来なくて……」
そして、処刑が決まってしまう。
私は思い出す。あの時もしもルーナと一緒じゃなかったら、私はほぼ確実にあの場を通り過ぎていただろう。殺されるのがニフという名前であることも知らずに、ただ人間の恐ろしさを噛みしめるだけだっただろう。
ルーナがいなかったら、ここにニフはいないのだ。
「ハノが本当に吸血鬼だと知った時は頭の中が真っ白になった。捕まっていたらきっと抵抗もろくに出来なかったと思う。でも、アマリリス達が助けてくれたから、今があるんだ」
ニフは悲しげに笑う。ハノとの婚約が決まった時は、きっと本当に、心から、幸せだったのだろう。そう思うと、気の毒だった。
ハノが彼女をどうするつもりだったのか。彼が死んでから随分と経った今となっては想像しか出来ない。もしかしたら本当に花嫁にするつもりだったのかもしれない。
だが、花嫁にするつもりであれ、ご馳走にするつもりであれ、ニフの未来が閉ざされていたのは確かなことだ。吸血鬼に攫われた人間の花嫁は、その多くが夫となる吸血鬼の暴行に耐えられず、早死にしてしまうからだ。
「助けられなかったら、こういう場所に来るような事もなかった。そう思うと、町に戻れない事も別に寂しくはないさ」
ニフはそう言って目を閉じる。
彼女の涙がようやく見えたのだろう。ルーナは黙ったまま心配そうにその姿を見つめていた。