3.美しき人狼
近づくだけで小屋の異変はすぐに伝わってきた。
施錠されているはずの内部で、何かが起こっている。中に閉じ込められている者が救いを求めて暴れているのだ。
私は素早く小屋の扉に触れた。
中に何が閉じ込められているかも分からない。そんな場所へと不用意に足を踏み入れるのは愚かな事だ。
そうは分かっていたけれど、触れた時に伝わってきた気配を感じ取った途端、心の底から嬉々とした感情が込み上げてくることに気付かされた。
人狼だ。人狼がいる。
きっとクロが守ろうとした雌だろう。私が伴侶を殺したことで、この村を去ろうと思っているのかもしれない。その前に、この村で隠されていたものを襲いに来たのだろうか。
助けるつもりは更々ない。
中に何が閉じ込められていようと、私の狙いは人狼だけだ。
今はまだ狩りの最中。もう少しすれば、獲物を取り押さえ、その肉体を喰い始めるのに夢中になるだろう。
高ぶる感情を抑えながら、私は中の様子を探った。
狼は興奮している。あまりにも美味しそうな獲物を前にした時の反応だ。この中に隠されているのはそういった生き物なのだろう。獲物の悲鳴も聞こえた。言葉を漏らしている。相手が人狼だとも知らず、言葉で説得しようとしている。
その声は、娘のようだ。人間の娘なのだろうか。それにしては、少し奇妙な気配がする。
私は影に潜みこんで、小屋の中へと侵入した。
「お願い、近づかないで……」
入ってすぐに娘の声が聞こえてきた。
影に潜みながら、私はその声の主を探した。小屋の端にいる。蹲って、目を爛々と光らせて、己に迫る人物を、魔物とも知らずに見つめていた。
「出てってよ……」
儚げな声を聞きながら迫る者。
その姿を見た瞬間、私は息を飲んでしまった。美しい女だ。いや、女ではない。人狼の雌。けれど、今は人間の女のような姿をしていた。
私が侵入した事にも気付かない程、目の前の獲物に気を取られている。
これがクロの妻なのだろうか。
――欲しい。
真っ先に欲求が掻き立てられた。その全てを手に入れたい。時間をかけて、ゆっくりと殺してしまいたい。
逸る気持ちを抑えながら、私はじっと機会を窺った。
「お前、私が何者か分からないんだな」
人狼が低い声で娘に訊ねる。間近まで迫り、その柔らかそうな頬に優しく触れている。爛々と輝く娘の目を覗きこみ、人狼は一人呟く。
「哀れな奴だ。残酷な人間共の玩具にされて……」
「触らないで、お願い……」
怖がる娘の様子を見つめ、面白がっているようだ。
満足するまで恐怖を与え続けてから食べるつもりなのだろう。私が普段人狼にやっていることと同じ事だ。なんにせよ、人狼が娘に牙を喰い込ませた時を待てばいい。娘の柔らかな肉に夢中になっている時に襲えば、じっくりと命を奪うことが出来るかもしれない。
そう思っていた。
だが、かの人狼は私が思っているよりも気の聡い者のようだった。
「出来れば、お前を喰ってから立ち去りたかったんだが――」
そう言って、人狼は振り向く。
「そろそろ出てきたらどうだ。潜んでいる事は分かっているぞ」
突如、視線を向けられ、私の口からは溜め息が漏れだした。
姿を現しつつ入り口を塞ぐと、美しい人狼は顔を歪ませた。
「ずいぶんと敏感なのね。侮っていたわ」
私の言葉に人狼は少しだけ笑みを浮かべた。
「男より力がない分、気の聡さで生き延びてきたんでね……」
そう言って、人狼の目が険しいものになる。
「お前、アマリリスだな」
「ええ、そうよ」
隠すことなく私は頷く。人狼を煽るように笑みを深めて。しかし、人狼はそのまま動かず、傍にいる娘へと身を寄せると、私への警戒を顕わにした。
「クロはもう戻って来ない。お前を幾ら恨んでも、死んだ奴は戻って来ない。だが、アマリリス、私はお前を許さない。お前をクロと同じ目に遭わせてやりたいくらいだ……」
私は人狼の潤んだ目を見つめ、その心の中枢を探った。
「――カリス」
その名を導きだすと、カリスは一瞬だけ震えた。
「安心なさいな。あなたも同じ。クロと同じように、いえ、それ以上に、私のものにしてあげる。だから、かかってきなさいよ」
血の気の多い人狼ならば、素直にかかって来ることだろう。恨みと憎しみが強ければ強いほど、生き物は冷静さを失うものだ。
だが、カリスは違った。
「――……悪いが、その手には乗らない。クロが守ってくれた命を、無駄にはしたくないからね」
「あらそう。でも、どうするの? まさか此処から逃げ出せると思っているの? 見ていてあげるから、全部諦めて最期の晩餐にその子を食べてしまえばいいのに」
私の言葉に蹲る娘が震えた。
それを見て、カリスは笑った。
「聞いたか、娘よ。この魔女、私を狩るためならばお前の命も惜しくないらしい。さすがは魔女だ。汚らわしい人間にも劣る女よ」
カリスの表情から笑みが消えた。
あるのは私に対する憎悪のみ。かけがえのない伴侶を殺された恨みの全てをぶつけるかのように、私を睨みつけている。
けれど、私は知っている。彼女には力がない。真正面からぶつかれば、あっという間に私に囚われてしまうだろう。
それを彼女自身がよく分かっているようだった。
「逃がしはしないわ。その子を食べないのなら、今すぐにでも殺してあげる」
私の言葉を受けて、カリスが動いた。
閉じ込められていた娘を乱暴に立たせると、私の様子を一瞬だけ見てから、娘に何かを言ってから噛みついた。その途端、娘は悲鳴を上げ、暴れ出した。
そして、次の瞬間、私の予測していなかった出来事が起きた。
娘の輪郭が歪み始めたのだ。ただの人間ではない姿。カリスに噛まれた衝撃で、その力が解き放たれてしまった。
娘の姿は大きく歪み、やがて、人間ではないモノへと変貌する。豹のように見えた。大きな黒い豹が小屋を暴れ回る。
私は思わず影に隠れた。
大きな身体にぶつかれば、ひとたまりも無い。それが、カリスの狙いだとは分かっていたけれど、どうしようもなかった。
「さらばだ、アマリリス。後はゆっくりその娘の相手でもしていろ……」
唸るようなカリスの声が響く。私が止める間もなく、黄金の狼の姿をしたカリスは小屋の扉を蹴破って出ていってしまった。
――逃がした。
その衝撃に打ちひしがれている余裕はなかった。
興奮しきった黒豹が影となったままの私に襲いかかろうとしている。すっかり冷静さを欠いていた。恐怖から生まれた攻撃性の全てを傍にいた私にぶつけるつもりらしい。
「いいわよ、おいで」
私は影となったまま黒豹に告げて、小屋を出た。