6.人間の青年
ルーナとニフはまだ帰って来そうにない。
二人はまさか私がカリスとこうして喋っているなんて思いもしないだろう。人間であるニフはもちろん、下級魔物であるルーナも、ぎりぎりまで近づかなければ人狼の気配には気付けないのだ。
だが、この大社にいる人鳥たちはカリスの事に気付いているはずだ。私とカリスが共にいる事くらい、お見通しだろう。それでも誰も様子を見に来ないのは、今のカリスに敵意を感じないからだ。
どうやらカリスは敵意どころか危機感まで持っていないらしい。私の性が抑制されていることを知っているからこそだろう。
彼女は私の寝台を独占したまま、客間の天井を見上げていた。その場所を私に返してくれるのは、ルーナ達が戻って来た時だけなのかもしれない。
「そういえば」
カリスは再び口を開いた。
何やら言葉を捜しているように見える。
「この間、偶然にもお前達の後を追うように旅をしている人間の男を見つけたんだ」
「突然どうしたのよ」
不思議に思って訊ねてみたが、カリスは空虚に笑っただけで取り合わなかった。
「元魔女狩りの剣士だと言っていたな。魔女の呪いで石化した義弟を助けるために三神獣に祈りを捧げるのだと言っていた。だが、妙だった」
私は仕方なく話を聞くことにした。
「妙って?」
「礼拝者にしては、やけに血走った目をしていてね。その人間、ある女に教えられて聖地を巡る祈りを知ったと言っていた」
「女……」
「ああ。なんとなく気になってね、見張っていたらようやく分かった。どうやらあの人間、グリフォスの指示で動いているらしい」
「グリフォスの――?」
思わず大声が出そうになった。
人間の男だと言っていただろうか。義弟を助けるための旅。どうしてそんな男がグリフォスの指示で巡礼しているのだろう。それも、私達の後を追う形で。
嫌な予感がした。
元魔女狩りの剣士とも言っていただろうか。魔女の呪いを解くための旅。ではきっと、魔女というもの全般を恨んでいるはずだ。しかも、もしかしたら、魔女狩りの剣を持ったままかもしれない。
「分かるか、アマリリス」
カリスの表情が険しくなった。
「あの悪魔、どうやらよからぬ事を企んでいるぞ。人間の純朴さを利用して、お前を排除するつもりかもしれない」
「その男についてもっと教えて」
私はカリスを見つめた。
やっと彼女の話を真面目に聞く気になれた。
「髪は黒く、衣服も黒い。闇に紛れれば見えなくなってしまうだろうな。そして、男と言ってもまだ若い。二十代の青年だ。若過ぎて誰かの言う事なんて聞きやしない」
「その人の、名前は?」
「忘れた」
「忘れたって……!」
「喰いもんに過ぎない人間の名前なんていちいち覚えてないさ。元々あの人間の事も喰おうと思って近づいたんだ。まんまと失敗したけれどね」
カリスはそう言って不貞腐れる。私に背を向け、その視線は壁に向いていた。彼女が今、どんな顔をしているのか、私には想像もつかない。
私はふと床に視線を落として、呟いた。
「義弟を助けるために……」
「妻となるはずだった女の弟だそうだ」
カリスは姿勢を変えぬまま、そう言った。
「その女は人狼に喰われて命を落としたらしい」
それならば、カリスの事も常に警戒することだろう。
グリフォス。自らが恐れる三獣の元に、人狼と魔女を憎む人間の青年を差し向けてどうするつもりなのだろう。
「カリス、あの――」
「心配するな」
私の言葉を遮って、カリスは言った。
「あの人間は私が見張る。何かあった時はこうしてお前に伝えてやるよ」
カリスは一人笑う。
「なに、活気ある青年とはいえ、所詮は取るに足らない人間の剣士だ。魔女狩りの剣だって神獣の末裔には通用しない。奴がどういうつもりであろうと、ジズの膝元にいる人鳥に敵う訳が無いさ」
「そう……よね」
カリスの言葉に納得しつつも、私は妙に不安を覚えた。
相手はグリフォスが接触した人間。それも、人食いであるはずの彼女が、その食欲を抑えて利用している青年なのだ。
何か特殊な力を与えていてもおかしくはない。もしくは、魔女狩りの剣とは比べものにならないほどの武器を持っているか。
どうやってグリフォスはカザンを手に入れようとしているのだろう。
ジズの元に居さえすれば安全なはずなのだ。だから、私の支えはリヴァイアサンにある。プシュケを無事にリヴァイアサンの元に届けさえすれば、グリフォスには手が出せない。そう信じているからこそ、得体の知れない恐怖にも耐える事が出来るのだ。
私が黙っていると、カリスが声をかけてきた。
「なんだ。怯えているのか?」
見れば、カリスは再びこちらを見ていた。
「お前は案外怖がりなのだな。若き人狼の中にはお前の噂を怖がって外に出ないような引きこもりもいるというのに」
「怯えてなんかないわ」
「虚しい嘘をつくな。人狼の鼻は誤魔化されないのだぞ」
そう言って目を細めるカリスは、ふと客間の壁の向こうへと視線をやった。
「――どうやら」
寝台から起きあがり、カリスは影へと入りこんでいく。
「騒がしい子猫が帰って来たらしい」
声と共にその姿が完全に影へと吸い込まれていった丁度その時、客間の扉が開かれた。