5.客間にて
数時間後、身の清めが終わり、プシュケと付き添いの人間達が、カザンと共にジズの祠の前に並んでいた。私はルーナやニフと共に、見張りの人鳥達に紛れて聖堂の後方でそれを静かに見守っている。
ジズの姿は見えない。ずっと見ていたとしても、私達に見える事はないだろう。
だが、ジズは確かに此処にいるのだ。私を含め、この場にいる誰もがそう信じて疑わない。リヴァイアサンの元へと向かう若き巫女を見つめ、ジズはどんな祝辞を述べているのだろう。そんな事を考えながら、私は祝福を見守った。
カリスの気配がする。彼女もこの場で見つめているのだろうか。
――人狼の気配ならばこうしてすぐに嗅ぎ取れるのに。
ふと何処かで猛禽の甲高い鳴き声が響いたような気がした。
気のせいだろうか。その声は天高く遠いのに、まるでこの聖堂の中でしたかのようにも聞こえた。神々しく、頼もしい。そんな声だった。
青年二人と娘、そしてプシュケがそれぞれジズの祠に触れる。
カザンが祈りを捧げると、仄かに光が射したように見えた。
「『海巫女とリヴァイアサン。どうか二人の仲が永遠に引き裂かれぬよう』」
天井を見つめながら、カザンは諳んじた。
恐らくそれがジズの言葉なのだろう。
その言葉に対して、プシュケは厳かに礼を述べた。
こうして、ジズによる祝福の儀は一時間もかからずに終わった。私達にはその姿を見る事は出来ず、言葉もカザンを介してのみだったが、それでも、何かしら大きな存在がその場にいる事だけは伝わってきた。
祝福が終わると、プシュケはカザンらと共に人鳥の庇護の下、巫女として引き離されてしまった。
私達は聖堂から解放され、客間に戻された。ここには二泊し、明後日には下山してウィル達との合流を目指す予定だった。
客間に戻る途中、ルーナはまたしても探索に行ってしまった。追いかけるのも面倒だと思っていると、ニフが見張りと称してそれを追っていってしまった。
結局、一人きり客間に戻った。
静寂に包まれる部屋の中で、私は一人思考に耽っていた。
グリフォスは何故、巫女を欲しがるのだろう。ただ興味を持ったにしても、あまりにも異常だ。悪魔として何か目的があるのだろうか。
何にせよ、神獣に手を出せない彼女はリヴァイアサンには敵わない。
「私が無事に役目を果たせば、グリフォスの負けが確定する……」
「そうなれば、めでたくお前の血肉も私のモノだな」
物影より声が聞こえ、私はハッとした。
気付けば、私の使う予定の寝台に、カリスが寝そべっていた。
「そういう約束だろう?」
「ルーナとニフにとって安全な場所を見つけたらね。それに、二人に手を出さないと約束してくれたら、ってのも追加するわ」
私が透かさず答えると、カリスは鼻で笑った。
「調子のいいもんだ。だが、安心しろ。奴らに手は出さない。お前が約束を守るのなら、私も守ってやろう。それが狼というものだ。私が憎んでいるのはどうせお前だけだ。それに、安全な場所? そんなのすぐに見つかる。リヴァイアサンのいる竜の町の奴らは、喜んであの二人の面倒を看るだろうさ。《赤い花》の御供としてね」
竜の町。リヴァイアサンの膝元で、竜族と人間によって営まれている町だ。
確かにそこなら安全だろう。
だが、私はいまいち心配だった。
「……そうだといいけれど」
ウィル達を信用していないわけではないし、どんな町であってもニフは上手く溶け込めるだろう。だが、ルーナが心配だった。竜族と共に竜の町に住まうのは人間なのだ。彼女が魔物であると知ってしまった時、ルーナは大丈夫なのだろうか。
「あの美味しそうな僕の今後が心配なら、工面してやろうか? お前の心臓を売り払えば、庶民が使いきれない程の大金が生まれる。それを上手く使えばいいだけのことさ」
「それもいいかも」
私は短く答えつつ、溜め息を漏らした。
「でも、ルーナはきっとあなたを憎むでしょうね。私の選択だったとしても、私を殺したあなたを許したりはしない」
「きっとそうだろうな。私が、クロを殺したお前を許せないように」
そして私が、ヒレンを殺したグリフォスを許せないように。
「そんなルーナがあなたからの資金を受け取るわけないでしょう。心臓を売るつもりなら、お金はあなたのものにすればいいわ」
私がそう言うと、カリスは首を傾げた。
「罪滅ぼしのつもりか?」
「どうとでも取ればいい。つまらない人狼に同じ事をされるくらいなら、あなたにされた方がましというだけよ」
「言っておくが、私は容赦しないぞ。他の奴らに殺されるよりも長く苦しませてやる。死ぬ前に心が壊れるまで拷問して、心身共に屈服させてから殺してやるよ」
「恐ろしい話ね」
適当にあしらい、私はその場に座り込んだ。
未来の事なんて何も見えない。ルーナやニフに手を出さずにいてくれるのなら、カリスにどんな拷問をされようと、怖いとは思えなかった。それよりも今は、グリフォスの方が怖かった。そして役目を果たせるかどうかの方が恐ろしかった。
そんな私を見つめ、カリスは眉をひそめた。
「面白くない奴だ」
大きく溜め息をつき、寝台より起きあがる。
その鋭い眼差しに見つめられながら、私もまた溜め息を吐いた。
「進めば進むほど、お前の死期が近づいて来ているというのに、どうしてお前はそうも冷静なんだ。バルバロに殺されそうになった時のお前はもっと生き物らしかったぞ? そのまま暫く眺めていようかと思うくらいにね」
「分からない……ただ、この役目を果たしたら、死んでもいいと思っているの」
カリスに言われる内に、初めて気付いた。
私は生きる事を放棄しようとしている。
ルーナやニフがいる限り、この世に人狼がいる限り、私は生き続けるつもりだった。カリスを手に入れた後も、きっと何処かに素晴らしい狼がいるはずだ。いつか死ぬまで、私は生きる努力を怠らない。そう過ごしてきたはずだった。
それが、何故、どうして。
いつの間に、私は未来を閉ざしていたのだろう。少しだけ思い出そうとしてみたが、どうしても分からない。
「身勝手な奴だ。自分で僕を作っておいて、その僕すらも置いてきぼりか」
カリスが低く唸る。
私はそんなカリスに視線を返した。
「あなた、私を殺したいのでしょう? それなら別にいいじゃない。それとも、あなた、もしかして私やルーナの事を心配しているの?」
「心配? お前達を? 胸糞悪い事を言うな。誰がお前なんかを心配するものか。ただ張り合いがないと言っているんだ。お前はクロの仇。それならば、クロの仇らしく私に立ち向かってこい。いつから人狼狩りの魔女はこんな腰抜けになったんだ」
「あら、私は昔から弱虫だったわ。人間なんかに滅ぼされた一族の生き残りだもの。そんな私に狩り尽されていたのがあなた達人狼ってわけ」
「なんだ、減らず口を叩く気力くらいはあるのか。それなら安心だ」
カリスはそう言うと大きく伸びをした。