4.空巫女の不安
カザンに連れられて、私は一人、大社の一室に通された。
そこはジズが祀られている祠のある聖堂のすぐ脇で、控室のような場所だった。カザンと二人きりにされると妙に落ち着かない気持ちになったが、すぐに慣れてきた。
カザンもまたプシュケと同じだ。
目の前から人鳥の影が無くなった途端、生き物らしさを垣間見せる。先程までの神々しさは薄れ、ただ美しいだけの人間の女のように不安に怯えているようだった。
私はそっとカザンの傍に寄り添い、その不安を分かち合った。
「プシュケを狙っているのは本物の悪魔のようですね」
カザンは言った。
「人鳥達が絶えず周囲を気にしています。彼らが言うには、あなた達に誘われるように、悪魔はついて来た。空の供物である私の事をずっと見つめていると」
グリフォス。やはり彼女は近くにいる。
人鳥や竜族の能力が羨ましい。彼女の気配が分からないことはそれほどまでに恐ろしいものだった。
「私にはジズの守護があります。けれど――」
カザンは言いかけて、俯いた。
美しい白髪が僅かに揺れる。
「けれど、とても恐ろしいのです。何故だか、悪魔から逃れられないような気がしてなりません。私は……彼女に殺されてしまうのではないかと……」
「カザン様」
私は思わず口を開いた。
「そんな事はあり得ません。ここはジズのお膝元ですよ。悪魔は神獣を恐れています。神獣の末裔をも恐れています。ジズとジズの血を引く人鳥があなたを守っている限り、あなたが彼女の手に落ちる事なんてあり得ませんわ」
そうは言ったものの、カザンの不安は私の心にも伝染していた。
相手は悪魔と呼ばれるだけの者なのだ。
もしや、ジズの守護を掻い潜ってカザンまでもを攫ってしまうような方法を知っているのではないだろうか。そんな恐ろしい考えが頭を過ぎってしまう。
少なくとも、カザンはそう思っているらしい。
「確かに、ジズは私に約束して下さいました」
震えながら彼女は言う。
「自分が存在している限り、私を守りきって下さると。けれど、それでも、私は怖いのです。悪意が私を狙っている。こんな事は初めて……」
巫女が隠し持つ不思議な魔力の通じない相手。
そんな相手が存在しているというだけで、彼女達にとっては脅威だろう。
「巫女が死ねば、その魂はすぐに次なる器へと入り込みます。普通ならば、私も別の狐人に生まれ変わり、再びジズの御許へ戻ることが叶うはずです。けれど、悪魔に殺されれば、それすらも叶わなくなってしまう気がして怖いのです」
それは、単なる死への恐怖ではない。
永遠に囚われるという直感と、それに対する拒絶。
「ジズはあなたに願いを託しているようです」
「私に?」
問い返すと、カザンはしっかりと頷いた。
「あの方に何が見えているのかは私には分かりません。けれど、少なくともこの先、あの方が望まないような出来事が起こるのでしょう。そうなった後、頼れるのはあなただけ。《赤い花》の血を継ぎ、プシュケの前に現れた、あなたなのです」
「私には重たすぎますよ。彼女の前に現れたのも単なる偶然。たまたま彼女の里に、伝説の通りに魔物と人間を連れてきてしまっただけのこと」
「その偶然こそ、神々がもたらした恩寵なのです」
カザンはきっぱりと言った。
「あなたの連れの二人は、あなたの友となるべくしてなった。私はそう捉えております。きっとプシュケも同じでしょう。なるべくして導かれ、あなた達は私達の前に現れた。私達はあなた達に縋るしかないのです」
「私はお役に立てませんわ。だって、悪魔の気配すら分からないのです。プシュケに危険が迫ってきても、竜族や人鳥を頼らねば気付けないような有様です」
「それでもいいのです。求められるのは、海巫女の傍に《赤い花》とその連れがいること。ジズはそう仰いました。リヴァイアサンに捧げるその時まで、傍で見守っていただければいいのです」
それだけで役に立つというのだろうか。
カザンの言葉がいまいち、実感出来ない。
ただ思い返してみれば、私よりも強いはずのグリフォスは、私がプシュケの輿入れの儀に介入することを快く思っていないようだった。
「どうか、海巫女を無事にリヴァイアサンの元へ送り届けてください」
カザンは懇願するように言った。
先ほどよりも、かなり感情的な声をしている。
「そして、もう一つ。どうか、悪魔に殺されないでください。無茶な事はせずに、必要以上に悪魔に近づかれぬように」
カザンの忠告を受けて、私はふと自分の行動を思い返してしまった。
カリスにいつか言われたことがあった。いちいち助けるのも面倒だと。私はどうやら自分の力を過信し、力量を測り間違え、敵わないような相手に一人で立ち向かってしまう癖があるらしい。
何かの為なら自分の心配は二の次。
しかしそれでは、プシュケを守りきれない。少なくとも、役目を果たすまでは死ぬ事は許されないだろう。
カザンは言う。
「海巫女に誓いを立て、その手に触れられたあなたはもはや魔女ではありません。役目を果たすまで、あなたは死ぬ事を許されない。誰もあなたを襲えないのです。ただ一人、悪魔を除いて……」
カリスの面影がふと頭を過ぎった。彼女の気配は今も近くにいるのだろうか。
私の前で涙をこらえられなかった夜を思い出してしまう。カザンとは違う魅力を秘めた人狼。私を心の底から憎みながらも、神獣への信仰に誓って、役目を果たすまではその怒りを抑え込んでいる。
その哀れな姿がいつまでも脳裏から離れなかった。