2.ジズの山
出発の時はあっという間に過ぎた。
すでにジズの祠を目指し岩山を登り始めて数時間が経っている。
鳥の町に残してきたウィル達竜族はどうしているのだろう。そんな思いを巡らしているのも億劫になるくらい、疲労は増していく。
一方、手を握るルーナはそんな私の心情も露知らず、元気にぐいぐいと引っ張っていく。
魔物という者の無尽蔵な体力が羨ましい。
人間よりも魔力に秀でるだけの私の肉体的な体力は、人間の女とあまり変わりが無い。持久力なんてないし、優れた身体能力も持っていない。
さり気なく疲れを取るような便利な魔術を覚えているわけではなかった。もっと真面目に取得しておけばよかったと後悔しても今は意味がない。
ところで、ニフは私よりも持久力があるようだ。
魔物と乱闘になった場合は、持久力が生かされる前に私の魔術で終わらせてしまうので、気付かなかった。私はどうやらニフよりも体力が無いらしい。
だが、そんな私よりもプシュケと付き添いの人間達の歩みは頼りない。長旅も祟っているのだろう。宿で疲れを取ったと言っても、昨日辿り着いたばかりなのだ。
「もう少しでお社ですよ、海巫女様!」
野太い声で人鳥達がプシュケを励ます。
彼らの始祖が祀られるその場所。確か、そこにはプシュケが匿われていた場所よりもずっと立派な大社があって、その中で空巫女が祈りを捧げているのだった。
ただの巡礼者が入れるのはその入り口付近まで。
私とヒレンも他の巡礼者に混じってジズの祀られる場所を見物した。その時に、空巫女の姿を見たのだ。人鳥と狐人の神官に付き添われて、部外者は立ち入れない場所をゆっくりと横切っていくところだった。
真っ白な狐人の空巫女。
人間のような姿をしていた彼女は、人間からの受けも大変いいようだった。
その場にいた殆どの者達から静かな歓声が溜め息のように漏れだしていった事を今でも覚えている。
あれから、空巫女が代替わりしたという話は聞いていない。
あの時にヒレンと共に目撃した狐人こそが、私達を待っている空巫女だろう。
「見えてきました」
人鳥の一人が私達に言った。
「あの場所が空巫女様のお待ちしている大社です」
見えてきた大社の姿に、私の記憶も鮮明に甦って来た。
――綺麗。
急な山道を登り疲れて、空を飛ぶ魔術を使えればいいのにと散々文句を言い続けていたヒレンが、一瞬にして目を奪われた美しき建物。
あの時のままだ。あの時のままの美しさが今も維持されている。
人鳥達に続いて、私達は大社の中へと静かに入っていった。
祭日などでなくとも、巡礼者はそこそこ多い。人間や魔族もちらほらといるが、人間によく似た姿の魔物達の数が多かった。
ジズは魔物を守る神獣と言われているから当然だろう。
それでも人間の姿を狩りねばならないのは、三神獣の子孫や供物となるような者たち以外の魔物や魔族が、人間にとって忌むべきものであるという考えが根強いからだろう。
下級魔物達は、皆、恐れているのだ。魔物の聖地であっても、自分が人間でないと知られてしまえば、虐殺されてしまうのではないかと。
この大社で堂々と人間でないことを曝せるのは、ジズの子孫である人鳥と、ジズに供された狐人の空巫女と、その空巫女に付き添う少数の狐人だけなのだろう。
私はルーナの手をしっかりと握りしめた。
迂闊に彼女が変身してしまえば、この場では大混乱が起きるだろう。それがたとえ、正式な海巫女の付き添いであるとしても、だ。同じ理由で、私も堂々と魔術なんかも使えない。静かに巡礼している人間達に、人間でないことを悟られていいのは、人間に崇拝される極一部の人外だけなのだ。
複数の人鳥に守られるようにプシュケが現れたからだろう。
巡礼していた人々の一部が不思議そうに私達の方向を見つめてきた。
その厳かな様子に、彼らもきっと理解しただろう。
プシュケの雰囲気は明らかに他者とは違った。マルの里に住まう人間達の中から生まれてくる純血の人間であるのだが、内に秘められた輝きはちょっとやそっとじゃ隠せそうにない。どんな人間と見比べても、彼女が只者でないことはすぐに分かってしまうのだ。
理屈で説明するのは難しい。
ただ、彼女にこの世に生きる人々を引き寄せる何かがあるのは確かだった。
かつてヒレンが虜となった空巫女もそうだ。確かにひと目見ただけで、誰もがその姿に目を奪われた。彼女がひと目に触れたのは一瞬だけだ。真っ白な光をまとったような女が、部屋の奥を歩いて行っただけ。それなのに、皆が彼女の出現に気付けたのだ。
たまたま傍にいたある人間の巡礼者は、きっとお狐様だからだよ、と言っていた。
確かに人間はそう思うのだろう。人間という者達は、他者と何か違うと感じる者を魔族や魔物だと思う。だが、その判断は正しくないと私は人間達に紛れてきた思った。美貌であったり、思想であったり、才能であったり、身体的特徴であったり、他者とは違うものを持っている者は、ただの人間に過ぎないことが多い。逆に、人間からしてみれば地味すぎる特徴しか持たない魔物や魔族も溢れるばかりにいるものだ。変わった特徴を持っていたとしても、彼らの多くは凡人を装うのが上手い。
だから、人間達の行う魔物狩りや魔女狩りは、単なる同胞殺しであることが多いのだ。それどころか、人間の村に溶け込んで、魔女狩りをけしかけた魔女もいるらしい。本人は無傷で、関係のない多くの人間達が仲間達に殺されていくのを見ながら、その魔女は影で嘲笑していたのだそうだ。魔女の性が彼女を悪魔にしたのだろう。
結局、人間達は彼女を見破ることが出来なかった。だから、彼女の話は魔女の中にだけ伝わっている。人間達がいかに魔という者に対して無力なのかという事例として。
そんな人間達でも、供物のことだけは一瞬で分かってしまう。
誰もが彼女達の本質に気付き、誰もが同じ認識を有する。
この女に手を出してはいけない。出せば必ず獣の怒りを買うだろうと。
それは、血と肉に深く刻まれた本能のようなものだった。言葉を話せぬ獣であっても、道徳を知らない人間であっても、力に取りつかれた魔物や魔族であっても、その魂が正常ならば巫女を襲ったりはしない。
それは、カリスを見ていてもよく分かる。人間を喰い物としか思っていない彼女でも、プシュケだけは特別なのだ。食欲すらわかないほど、畏れている。
これはきっと巫女が持つ何らかの魔力なのだろう。もしくは、彼女達の主である神獣たちが授けた加護。非常に強く、大きな影響力を持つ力。
しかし、それすらも、人食いのグリフォスには何故か及ばない。
人間の身体と悪魔の魂を持つという彼女。今は人鳥を恐れているが、きっとついて来ているのだろう。ひょっとすれば、空巫女さえも狙っているのかもしれない。その気配が分からないことがもどかしかった。
「こちらへ」
声をかけられて、私はふと思考を巡らせるのをやめた。
様々な不安と共に、人鳥に連れられて大社を進んでいくうちに、いつの間にか一般巡礼者が立ち入れないほど奥へと来ていたらしい。
すでに辺りはヒレンと来た時には見られなかった光景が広がっていた。
彼女がもしもあの世から見ていれば、私の事を羨ましがったことだろう。
そんな事を想っていると、ふと、行く手に待ちかまえる大広間が見えて、私はルーナを連れたまま足を止めそうになった。
私達の前で、プシュケが広間の中央に目を奪われている。
そんなプシュケに視線を返すように、その女は立ち尽くしていた。真っ白な髪に、雪のような肌。細められた目は何処となくカリスのものにも似ている。
誰が見ても溜め息の出るようなその容姿。
彼女こそが狐人の巫女。空巫女だった。