1.鳥の町
マルの里よりだいぶ北に位置する岩山の麓には、少し大きな町がある。
その町は人間達のために出来た国の中でも、例外的に人間以外の住人が半数を占めているという国内でも珍しい町の一つだ。
鳥の町と呼ばれるそこは、呼び名の通り、人鳥と呼ばれる魔族が当り前のように暮らしていた。
プシュケの輿入れの儀の為にマルの里を出発してから五日ほど。
私達はやっとこの場所に辿り着いた。
ここへ来た目的はただ一つ。この町からも見える岩山の上に存在する空の聖域に向かい、ジズの祠にプシュケを参らせる事だ。ジズに仕える者達はすでにこの事を知らされている。特に、祝福を受けるには、ジズに捧げられている空巫女の協力も必要だった。
そこに行く際、竜族達は誰もついて来られない。
ジズに仕える人鳥と町の人間達に案内されて、私達は宿で羽を休めていた。
マルの里を発ったのは、プシュケや私達の他、里生まれの人間が三人に、ウィルを含む竜族が二人。里生まれの人間は、どれも長老の孫だった。青年が二人。娘が一人。
プシュケと寝食を共にするのはその人間の娘の役目だった。ずっとプシュケの傍にいた為に慣れている。どうやら彼女は慣例により、従兄弟である青年達と共にそのままプシュケと共にリヴァイアサンの元に仕える事になるという。そのため、祠には彼ら三人も向かう事になるらしい。
グリフォスが近づいて来ない事を願うばかりだ。
人間三人にニフまでいる以上、人食いが見逃さないわけがない。誰一人として失えない上に、ジズの聖地となる岩山には竜族が入ることも出来ないのだ。
私は不安だった。
ウィル達の協力なくして守りきれるのだろうか。
だが、そんな不安もすぐに解消された。
鳥の町の人鳥達が、竜族に代わってジズの祠まで同行してくれると約束してくれたからだ。
ジズの末裔である人鳥は竜族に匹敵する存在だ。気の聡さは竜族には劣るが、その筋力は竜族をも上回る。それに、彼らには翼という武器もある。ウィルによれば、両腕より伸びた翼をもってすれば、人間ならば持つだけでも辛い大槍でさえも軽々と持って空を飛ぶ事まで出来るらしい。
ともかく、竜族を恐れたように、彼らの事もグリフォスは恐れるようだ。
これで、私の心の負担はだいぶ薄れていった。
いよいよ明日はプシュケを祠に連れていく。私はニフやルーナと共にあてがわれた部屋の寝台で、ぼんやりと疲れを癒していた。ルーナはニフをせっついて町を見物しに行ってしまった。プシュケは別室だし、ウィル達も勿論別室なので、ここにいるのは私だけだ。
静かな部屋の中で、私は天井を見つめたまま思いを巡らせた。
ジズの祠を参ったのは今や遠い昔の事だ。
ヒレンと共に巡礼者に混じって山を登り、空巫女の姿を幸運にも見ることが出来たのをよく覚えている。ひと目見ただけで、ヒレンはすっかり空巫女の虜となっていた。鳥の町の宿に戻った後も、しつこいほど空巫女が綺麗だったという話を繰り返したのだ。
――分かったからもう寝ましょう。
私がなだめると、ヒレンは口を尖らせる。
――アマリリスったらちゃんと聞いてないでしょ?
ヒレンは絶えず様々なものに興味を抱き、その感情を素直に表現していたが、私は違う。心の底ではヒレンと同じように空巫女に見惚れていたのだが、その気持ちを敢えて前に出そうとは思えなかった。
だからこそ、ヒレンの正直さが羨ましくもあり、馬鹿馬鹿しくもあった。
同じ始祖を持つ《赤い花》の生き残りでも、こうも違うものなのだろうか。
呆れ半分にそう思ったものだった。
ふと私は我に返った。
一瞬だけ、ヒレンと共に旅をしているような気になっていた。そんなはずはないのだと思いなおし、虚しい気持ちが襲いかかってくる。
彼女は死んだのだ。
グリフォスに食べられて死んだ。
彼女は逃げられなかったのだ。触れられた途端、全ての魔力を吸い取られて、逃げる暇も与えられなかったのだ。
彼女の最期の声は今も私の耳にこびり付いている。私の名を呼ぶその声。眼差しは助けを求めているのに、その声は違う事を言っていた。
――逃げて、アマリリス。
その直後、彼女は……。
思い出すだけで吐き気が込み上げてくる。
日頃、残酷にも人狼を殺してきたというのに、友の死に際は、同じ血を引くものの死に際は、この世のものとは思えないほどおぞましいものだった。
私はうつ伏せになり、寝台にしがみついた。
あの光景を思い出すだけで、震えが生まれてきて耐えられなかった。昔はよくあったことだ。ルーナを僕にする前は、よくこうして一人で震えていた。隠れられる場所に籠って、落ち着くまで息を潜めていた。
「どうした」
低い声が聞こえ、私は閉じかけていた瞼を開いた。
いつの間にか部屋に侵入者がいた。カリスだ。ルーナ達が出掛けているのをいいことに、部屋の隅から私を見つめている。
カリスは無表情で私を見つめていた。
「苦しいのか?」
憐れむわけでも蔑むわけでもない眼差しを受けて、私はそっと背を向けた。
「いつの間に来たの……」
全く気付かなかった。
前々からの事だが、カリスの気配は離れたり近づいたりを繰り返している。
常に一緒にいるわけではなく、時折、捉えきれないほど遠くへいってしまうのだ。食事をしているせいなのか、全く違う理由があってのことなのかは分からない。
だが、人狼が接近している事にも気付けなかった事は我ながら少し衝撃的だった。
「たった今だよ」
カリスは短く答え、私を見つめる。
興味を抱いているのかどうかは分からない。
「クロが殺されて以来、お前の事はずっと見てきたが、お前のそんな様子は初めて見たな。どうした。具合でも悪いのか?」
「私の事を心配しているの?」
苦笑気味に訊ねた。振り返れば、カリスの不満そうな表情が見えた。
「まさか。お前の身など心配するわけがないだろう。ただ興味があるだけだ」
「別に何でもないわ。昔の事を思い出していただけ」
「昔?」
カリスはやや首を傾げ、やや険しい顔をした。
「ヒレンとかいう旧友の事か?」
人狼の鼻は一体何を何処まで嗅ぎ取れてしまうのだろう。
私はそんな事を想いながら再びカリスに背を向けた。答えようとしない私を見つめながらも、カリスはそれ以上、口を開きはしなかった。