8.最後の警告
「ニフ!」
ルーナの声がこだまする。
黒豹の姿のまま、ルーナは心配そうにニフを見つめていた。グリフォスに囚われたまま、ニフはそんなルーナに向かって苦笑を浮かべる。余裕さを必死に繕おうとしているらしい。だが、彼女の恐怖はこちらにも伝わってくる。
グリフォスは私を見ていた。
「さて、竜族が来てしまう前にぜひとも話を終わらせたいわね」
そう言って、彼女はニフの頬に手を添える。
彼女に触れられているだけで、ニフは苦しそうだった。奪う力のせいだろうか。私から魔力を吸い取ったその能力は、ニフからは何を吸い取るのだろう。
「眠りなさい、ニフテリザ」
グリフォスが唱えると、途端にニフの身体から力が抜けていった。
地べたに崩れ落ち、ニフは眠りにつく。グリフォスは一切それに目をやらずに手を離し、私達の姿を静かに見つめていた。
「思っていたよりも、早かったようね」
グリフォスは冷たい声で言う。
その衣服には生々しい血の染みがついている。直視を避けてきた人間達の血だとすぐに分かる。この女は人食いなのだ。人間の身体で人間を食らう。それは、異常な事に違いなかった。人間を食らう人狼であっても、同じ人狼を好んで喰うような者は、異常者に違いないだろう。
だが、グリフォスは奇妙なものだった。人間を食らい、怪しげな術を使うという事を知らなければ、ただの女にも見えてしまうのだ。ひと目見て危険と分かる要素が足りない。だからこそ、恐ろしい。
――ニフ……。
グリフォスの足元で倒れるニフは少しも動かない。
だが、呼吸はしている。眠っているだけなのだ。
「大丈夫。今すぐにこの女を食べるつもりはないわ。もう散々食べてきたから」
グリフォスは淡々と告げた。
「アマリリス。あなたの返答次第では無傷で返してあげる」
何をどう返答して欲しいのか、私は分かっていた。分かっていたからこそ、動揺を隠せなかった。強硬手段だ。ある意味、私自身の命を狙われるよりも厄介だ。
私は仲間を持つのに慣れていない。
仲間を盾にされれば、思考そのものが固まってしまうからだ。
「海巫女に関わるのを止めなさい」
グリフォスは声を低めて言った。
「そうすれば、あなた達には手を出さないと約束してあげるわ」
ルーナが不安そうに私を見上げてきた。
私の返答を待っている。どうするべきか判断は難しい。せめてニフが起きていてくれたら。自力で逃げ出す事が出来れば……。
――そうだ。
私はグリフォスを見つめた。
真面目に返答する必要なんて何処にもない。相手は悪魔なのだ。今はとにかくニフを取り返さなければならない。
ニフを取り戻し、竜族達が駆けつけてくれればそれでどうにかなる。
「アマリリス……」
窺うようなルーナの声が聞こえてきた。
その声に背中を押されるように静かにルーナの背から降りると、私は慎重に、敵意を見せないようにグリフォスに一歩だけ近づいた。
少し離れた場所からはカリスが私を見ている。
私の判断をも監視しているのだろう。
「――グリフォス」
攻撃的な感情は一切しまい込んで、静かな声を意識した。グリフォスの表情は変わらないが、その眼差しは注意深く私の姿を窺っている。
少しでもおかしな行動を見せれば、たちまちのうちにニフを連れて逃げてしまうだろう。
そうなればきっと、ニフはもう戻ってこない。見せしめとして何をされるかも想像がつかない。
情が移った、とはこの事なのだろうか。
今まで、どんなに目の前で赤の他人が死んでも罪悪感は生まれなかった。他人を餌にしたとしても、それで人狼の命が手に入るのならば満足していた。
私のこの根本的な性格はきっと変わりはしないだろう。けれど、相手が少し親しいだけで、その死が急に恐ろしいものになる。
ヒレンの死がこんなにも私の中に残っていたなんてこれまで自覚していなかった。
時が全てを洗い流すと信じてきたけれど、時が流れれば流れるほど、恋しい気持ちは増していくようだった。
こんな状態で、ニフを失えばどうなるか分かったものじゃない。
私は一生、後悔するだろう。自分を責め続けるだろう。
「考える時間をちょうだい」
グリフォスに向かって、私は膝をついた。
降伏の姿勢を見せながら、腹の底の底ではニフの倒れている位置を考え続けていた。グリフォスとまともに戦おうとしてはいけない。私の魔術はどれも彼女には効果が無いのだ。彼女を倒すのではなく、彼女から逃れる方法を考えなくてはならない。
頭を必死に下げて、私はグリフォスの返答を待った。後ろではカリスとルーナが沈黙のままに私を見つめている。
この光景をどう捉えているかは、さすがに分からなかった。
「アマリリス」
優しげなグリフォスの声が放たれた。
彼女が歩み出した。ゆっくりと彼女が私に近寄って来ているようだ。ニフから離れている。だが、私はまだ動けない。今はまだ早い。もう少し引き寄せてから。
一歩、二歩と、彼女はニフから離れていく。
「時間稼ぎは駄目よ」
突如、グリフォスの冷たい声が聞こえた。
顔をあげようとした時、グリフォスが急速に接近してきた。その手が私の額のぎりぎりのところで止められる。
グリフォスの手は触れるか、触れないかの位置にある。だが、じわじわと肌を刺す様な気味の悪い魔力が伝わってくるようで、恐ろしかった。
「二択で返答を要求するわ。『いいえ』を選べば、ニフは返さない。魔力を奪ったうえで、あなたの大切にしているもの全てを壊してあげる」
グリフォスが目を細める。
「でも、『はい』を選んだら、ニフは返してあげる。あなたの大切なものには二度と手出しをしないと約束するわ」
半ば強制的な選択肢だ。
私は息が止まりそうになるのを堪えながら、グリフォスの目を見つめた。
だが、その時ふと、私の見えないところで何かが動いた気配を感じた。
グリフォスは気付いているのだろうか。魂は悪魔であっても、身体は人間。その感覚は人間のものと同じと思われる彼女に、この気配は気付けているのだろうか。
「せめて答える前に訊かせて欲しいのだけど」
私はグリフォスから目を逸らさずに訊ねた。
「『はい』を選んだら、私はどうなるの。まさかあなた、私が返答した程度で信じてしまうというの?」
「もちろん、そのくらいじゃ信じられないわね。だから、『はい』を選んだら、わたしはあなたに呪いをかける。あなたが神獣に睨まれる存在になるように。巫女や神獣の血を引く者を拒むように変えてしまうわ」
「あなたにそんな事が出来るっていうの?」
私の問いにグリフォスは答える。
「出来るわ。わたしは悪魔だから」
手が今にも触れてしまいそうだ。私の全身からは汗が流れていた。
けれど、状況は絶望的ではない。私の視界に映っているのはニフ。
先程まで、グリフォスの足元で眠らされていた彼女は、今や一人きりで地面の上に寝転んでいた。怪しげな魔力によって眠り続ける彼女。その身体にそっと近づく者が一人。私の視界の中で、その者がニフの身体を担ぎあげた。
カリス。人狼である彼女の動きは自称悪魔であっても捉えるのは難しかったらしい。
物音に気付いてグリフォスが振り返る。その瞬間、私は両手でグリフォスの身体を跳ね返した。触れてはいけないその身体に体当たりをする。思わぬ攻撃に、グリフォスが私に気を取られる。その隙に、カリスはニフを抱え、ルーナの傍へと戻っていった。
私も素早くそちらへ向かった。
グリフォスが手を伸ばしてきたが、間に合わなかった。ついでに、私の中から再び魔力が尽きてしまったのを実感した。とっさに抵抗しようと放った魔術が不発に終わったからだ。ルーナの元へと戻ると、その背にしがみついた。
グリフォスは追ってこない。
冷たい表情で私を見下しているだけだった。
「そう」
グリフォスは呟く。
「あなたの答え、良く分かったわ」
両目を閉じると同時に、彼女の姿に靄がかかった。
「どうやら神様というものはあなた達に味方するようね」
グリフォスの苦しそうな声が響く。その声を覆うように、辺りでは塵が降り始めていた。